2019年4月7日 四旬節第5主日の説教「無駄なものはない」

「無駄なものはない」ルカによる福音書20章9~19節 藤木智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

四旬節も半ばを過ぎ、来週からはもう受難週、また聖週間と言われる主イエスのこの地上での最後の一週間の歩みを覚える季節に入ります。十字架の死を前にして、今日与えられました福音書は、ルカ福音書における主イエスの最後のたとえ話しです。最後に人々に語られたこのたとえ話は、非常にインパクトのある、衝撃としか言い様がない厳しい物語です。袋叩き、侮辱、傷を負わせる、そして殺してしまう。そういう人間の闇を描いている物語です。戸惑いを覚えるでしょう。

話の舞台はぶどう園での出来事です。イスラエルではぶどうが至るところで栽培されていたので、聖書の中にはたくさんぶどう畑に関する話が出てまいります。豊かなぶどうの実が成るぶどう園は、神様の恵みと祝福の象徴であり、それは神の民であるイスラエルの国を表します。神様によって与えられた土地であり、豊かなぶどうの実りは日々の糧でした。主人からぶどう園を貸してもらった農夫たちは、せっせとぶどう園を耕しました。たとえ話には記されていませんが、収穫をもたらすまでには、多くの苦労を重ねたことでしょう。知恵を使い効率的な作業を作案したり、または飢饉などの被害に合うことがあったかも知れませんが、彼らは一生懸命に働きました。そしてその結果が表れました。収穫が実ったというのです。きっと大いに彼らは喜んだはずです。ところが、収穫の時、収穫を納めるために主人から遣わされた僕を袋叩きにし、何ももたせないで追い返すという悪行を行います。困った主人はまた僕を遣わしますが、最初の僕と同様に、袋叩きにし、さらに侮辱して、また追いかえしてしまいます。また主人は僕を遣わしますが、この僕は傷まで負わせられて、ほうり出されます。それでも主人はあきらめず、最後の手段として、自分の愛する子を遣わすことにします。しかし、農夫たちはさらに悪知恵を働かして、土地の相続を企んで、この息子を殺して捨ててしまったというのです。主人は最後まで現れませんが、主イエスはこの農夫たちが主人に殺され、与えた土地を取り上げて、他の人に取り上げるという結末を話されて話を終えました。

この農夫たちの姿から、彼らの心境として、主人は見えていなかった、いないものとしていたと思えます。僕や息子は来ても、主人は来ない。主人がこなければ恐れることはない。これだけの収穫を得ることができたのは、自分たちの努力や力、工夫によるものだという確信があったでしょうし、もうこの土地で、自分たちだけで生きていけるという思いがあったでしょう。

農夫たちがぶどう畑を一生懸命に耕したように、私たちも自分の人生を一生懸命に耕して生きています。自分を磨いて整え、培ったものを存分に発揮しているでしょう。ただそれは何のために、誰のために発揮する自分の人生なのでしょうか。それは自分の幸せと他者への感謝、社会貢献のためだと言えるのかもしれません。しかし、そこには常に自分の正義が土台としてあるように思えるのです。自分を軸とし、自分の思うがままに力を発揮している自分の姿がある。自分の気に入らないものは切り捨てたり、無視したりする。また感謝への気持ちを忘れてしまうこともあります。自分の力量に対して、与えられて当たり前だと思っている、どこかにそういう自分の姿があるのではないでしょうか。むしろ、その力量を培うことのできるこの人生という土台は自分自身で得ることができたわけではないでしょう。気づかないところで、この土台がすり替えられている、自分の正義という土台にです。それは何とも限定されている自分の視野に基づいた狭いものでしょうか。それだけ私たちは盲目的になってしまう危険があるのです。

このたとえ話自体は、息子が殺された場面で終わっています。「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」(1516節)当然のことと言えば、当然のことでしょう。しかし、これを聞いた民衆は主イエスに言います。「そんなことがあってはなりません」(16節)と。これは決してそうではない、断じてそうではないという言い回しです。この民衆の言葉は、同じマタイ、マルコの同じたとえ話には出てきません。ルカ福音書にしかない言葉です。民衆がこの農夫のことを悪く思い、非難したともとれますし、自分たちはこんな人間ではないと否定したとも考えられます。解釈は様々ですが、民主の中でこのたとえ話の意味に確実に気付いた人たちが律法学者や祭司長たちでした。彼らは民衆の指導者たちです。イスラエルの権力の中にいる人たちです。聖書の専門家であり、礼拝を司る彼らは、この農夫の姿を自分たちへの当てつけ、すなわち主イエスがこの農夫の姿はあなたがたそのものだと言われたと自覚したのです。

農夫たちの姿が彼らイスラエルの民であれば、ぶどう園を貸してくれた主人は神様です。その土地は神様のものですが、彼らは神様への感謝どころか、収穫を独り占めにします。神様から遣わされた僕という御使いや預言者の言葉に耳を貸さず、彼らは神様から離れ、神様の目から見て悪いことばかりをすると言う罪を犯し続けます。最後に神様である主人は愛する息子をぶどう園に遣わされました。もうお気づきでしょうが、この息子は主イエスです。たとえ話にはこの息子が殺害されることまで記されていますから、これは主イエスの十字架を予告していると言えます。ですから、私はあなたがたに殺されるとまで主イエスは律法学者や祭司長たちに向かって言っているようなものなのです。

農夫たちは悪意に満ちた人間に見えますが、彼らは恐れを知らない知恵ある者たちです。確かに収穫をもたらしました。苦労だってたくさんしたでしょう。努力しているはずです。彼らは自分たちの才覚を信じて疑わなかった。主人の愛する息子を見て、相続財産を頂こうと企みます。息子にはその価値があった。またその価値しかなかった。自分たちの利益、必要な物だけが欲しい。

息子を遣わした主人の思いは、「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」ということです。息子に対する愛もさながら、この主人は尚も農夫たちを愛してやまなかったのです。3人の僕に対する仕打ちを見ても、そうでした。農夫たちとの関係を断ち切ろうとは為さらなかったのです。農夫たちというイスラエルを含めた全世界の救い主と、この世界を愛するために来られた主イエスは、無力な、飼い葉家に寝かされているみすぼらしいみどりごとして、私たちの間にきてくださいました。

そして今、主イエスが殺される、それも捨てられたかのように。誰からも必要とされないかの如く無残にです。そう、主イエスは十字架を語っているのです。十字架に自分をつける者たちの前で。また私たちの前で。農夫たちに捨てられる姿を、御自身に重ね合わせて言われます。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」建築現場の隅に放り出されて、無視されている石です。石屑です。特に必要とされない石です。その石に自分が譬えられている。神様の福音がそこで示されている。主イエスの生涯は、見捨てられた者たちとの交わりでした。愛の交わりでした。徴税人や罪人と食卓を囲みました。律法学者や祭司長たちから罪人だと嘲られ、社会に必要ないかのように見られていた彼らは、主イエスと交わり、神様の愛の大きさ、自分という存在を取り戻していったのです。自分はこの方に委ねて生きていいのだと。

律法学者や祭司長たちは主イエスをメシアとはみなしません。自分たちは聖書を教える立場、礼拝を司る立場にあり、ここにいる民衆を導かなくてはならない。模範とならなくてはならない。決して農夫のような存在ではいけないのです。自分こそが正しくあらねばならないと、本当の自分を何ものにも委ねることができないのです。主イエスの存在が、彼らにとってつまずきの石、妨げの岩としてはばかっています。自己中心的な生き方に、この石は立ちはだかるのです。

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」主イエスは人々に見捨てられたかのように、十字架につけて殺されます。弟子たちは恐れて逃げて行きました。絶望に打ちひしがれ、彼らも主を見捨てて、暗闇の中に留まっていきました。主イエスの十字架の御前に立つことは出来ず、自分という存在を隠して、神様との関係を拒絶しようとするのです。この弟子たちの姿は私たち教会の姿です。教会の歴史は、彼らの姿に見えるように、暗闇から始まるのです。挫折し、絶望の淵からです。

しかし、主イエスキリストの十字架、人々に捨てられ、殺された、闇という象徴を滾らせるこの十字架こそが隅の親石となるのです。建物を支える命の柱として、息づくのです。私たちの目には見えなくとも、通り過ぎてしまうものであっても、根本的な土台となるものです。なぜか、この隅の親石こそが、罪を打ち砕く神様の不思議な御業だからです。

神様が与えて下さったぶどう園というこの世界で、この命が与えられ、私が私として生かされる。私を知り、私を知る神様を私たちは知るのです。神様の恵みの中で喜びの内に生きるようにと、主イエスはあなたの心の内に語られています。

私たちはこの世界で生きるもの、生かされているものです。私たちは主イエスの十字架につまずいた者たちを知っています。律法学者、祭司長、民衆を含むイスラエルの民全体、弟子たち、そして私たち自身。しかし、この十字架は私たちのための救いのための隅の親石として、私たちの内にあります。私たちの罪はこの隅の親石に打ち砕かれたのです。もはや自分を閉ざす必要はないのです。私たちの生き方はこの方に変えられます。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。