2019年5月26日 復活後第5主日の説教「共に生きる平和」

「共に生きる平和」 ヨハネによる福音書14章23~29節 藤木 智広  牧師

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 

今日の福音書の中で主イエスは「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(27節)と言われました。わたしの、すなわちキリストの平和と、世が与えるという平和、ふたつの平和ということを言います。平安とも訳せる言葉です。平和、平安、それは誰しもが望んでいることです。ただ、主イエスが与える平和とこの世がもたらす平和は根本的に違うのだと言うのです。

少し先のところで主イエスは、「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」(ヨハネ15:18)と言われ、この世の彼らに対する迫害がいづれ起こるということを預言しています。このヨハネによる福音書が書かれた90年頃という時代は、教会がユダヤ教徒やローマ帝国といったこの世の支配層、権力者の迫害下にあり、その只中でこの福音書が記されたと言われています。弟子たちに「心を騒がせるな、おびえるな」と言われた主イエスの言葉は、福音書が書かれた時代の教会の人々の心にも深く浸透するものであったでしょう。また、世が与える平和という意味では、当時、キリスト教会の人々にローマ皇帝への皇帝崇拝を強要するということが行われていて、それは、ローマ帝国の皇帝こそ、この世に平和をもたらす偉大な君主であると讃えることが背景にありました。いわゆるローマの平和(パックスロマーナ)と言われるもので、強大なローマ帝国の軍事力における武力、その武力を背景とした力によってもたらされる平和であり、平和のための戦いが繰り広げられていたのです。

ローマの平和を背景に、厳しい迫害下の中にあった教会、キリスト者は逮捕され、殉死していきました。キリスト者、教会というだけで不当に逮捕され、その理不尽さの中で教会は歩んできました。現代の私たちは迫害と聞いても、過去の出来事として、リアルにそのことを受け止めることはできないかもしれませんが、迫害は外からの力であって、それは理不尽さをもたらすものではないでしょうか。キリスト者は何の罪もなく、逮捕され、殉死していったのです。自分には非がないはずなのに、なぜ自分がこんな目に遭わないといけないのか、そういう理不尽との戦いの中に私たちの歩みもあります。この理不尽さとは別のところに、理不尽とは無関係なところに、本当の平和、平安があるように思えるのです。理不尽さとは無関係なところで平安の内に生きていきたいという私たちの思いがあるかと思います。

しかし、主イエスは16章33節で弟子たちにこう言われます。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」世に生きるあなたがたには現実の苦難(迫害)、理不尽さがあるが、その苦難ある世に私は勝っていると言われます。それが「あなたがたがわたしによって平和を得る」、主イエスが与える平和、キリストの平和だと言うのです。

今日の福音書の中で、主イエスは弟子たちに「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(23節)、また「わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。」と言われました。わたしの言葉というのは、神様の教えであり、具体的に言えばそれは先週の福音の中で聞いた「新しい掟」のことです。神様の教えである律法の本質を示された新しい掟、すなわち互いに愛し合いなさいという愛の掟です。この愛の掟に生きる人が、主を愛する人、それは愛の神様のもとに生きる人であります。神様の愛に信頼して生きていく人です。この神様の愛とは何か。この言葉を語られた時、弟子のユダの裏切りが明らかになりますが、ユダの裏切りによって、栄光が示されたと言います。また、後には弟子たちも主イエスのもとから離れ去り、主イエスを愛するどころか、心を騒がし、おびえ、逃げ去ってしまうのです。誰一人として、主イエスの十字架に従うことはできず、自身の弱さや小ささ、無力さが顕になりました。

主イエスの十字架の死の後、弟子たちはユダヤ人たちの目を気にして、鍵をかけて家に閉じこもってしまいます。いつ見つかるかわからないという不安と恐れの中にありました。しかし、そこに復活の主イエスが彼らの真ん中に顕れてこう言われるのです。「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19)。主イエスが与える平和、それは弟子たちの不安と恐れの真ん中、また彼らの弱さや小ささ、無力さといった闇深きところにもたらされた赦しと愛の平和でした。主イエスが与える平和は、苦難や理不尽さ極まる十字架の死を通って、その闇の只中からの復活の光であり、その平和は罪の最大の敵である死を突き抜けられた神様の平和なのです。弟子たちを裁かれず、見捨てず、その弱さをも受け止められた神様の愛からもたらされる平和なのです。弟子たちはここから立ち上がっていくのです。そして、彼らは、また私たちはそこから主の平和を告げ知らせる福音の使者として、新たな場所に出て行くのです。

「あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」主イエスは力によってではなく、赦しと愛をもってして、ご自身の平和を私たちに与えてくださり、この平和に生きることを伝えています。「わたしは既に世に勝っている。」世を力で打ち倒して実現する神の平和ではなく、世を愛することにおいて、ひとりひとりの存在を愛し、尊重し、弱さ、みじめさを受け入れ、大切にしてくださる神様の慈しみによって、神の平和は実現し、世の平和に勝るのです。それは、同じヨハネによる福音書3章16節で「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。」と主イエスが言ってくださっているところに、神の平和が明らかにされているのです。

だから、心を騒がせるな、おびえるな、主イエスはそう言われます。主イエスご自身の十字架と復活を通して、平和を与えてくださり、そして弟子たちがその平和を経験して、立ち上がることができたのです。キリストの平和の内に、本当の自分を取り戻し、平和によって示された愛の内に、自分の命を見出すことができたのです。私たちもそのように招かれているのです。この平和にある私たちの命、命のありかを希望の内に見出していきたい。その希望の内にあって、神の平和を求め、世に生きつつも、キリストに属して、キリストの言葉から平和について問い続け、歩んでまいりたいと願います。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。