2019年11月3日 全聖徒主日の説教 「神の愛にとどまりなさい」

「神の愛にとどまりなさい」 ヨハネによる福音書15章1~17節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 皆さん、本日は召天者を記念する全聖徒主日の礼拝にようこそおいでくださいました。私たちの教会は先に天に召されました故人を覚えて、1年に一回、このように皆で集まって、礼拝の時を持っております。そして、私たちは先に召された故人を供養し、故人の平安を求め祈るためにこのようにして招かれたのではなく、愛する故人がキリストと共にあって、キリストの恵みの内にあることへの感謝を覚えて、今この礼拝に招かれています。それはまた、生前のこの地上でのご生涯もまた、キリストと共にあって、神様の恵みの内に歩まれたことを思い起こす時であるからです。
 
 そこで今日の聖書の言葉では、このキリストに繋がっていなさいと、有名なぶどうの木のたとえ話を通して、私たちに教えています。5節で「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と言われておりますように、主イエスがぶどうの木で、わたしたちがその木につながっている枝であると言うのです。主イエスというぶどうの木に繋がることによって、木からの養分を受け、豊かな実を結び、生きることができる。木に繋がっていないと、木からの養分を受け取ることができず、枯れてしまうというのです。主イエスはこのたとえを通して、命のありかを私たちに示しておられます。ただ漠然と死と命の話をされているのではないのです。この私につながることにおける命のありかについて話されているのです。人の生死を握っているには、枝自身ではなく、木の幹であります。自分自身の死も命も、自分自身でコントロールすることはできませんから、この自分の命もまた、自分で得ることができるものではなく、与えられ、必要な養分を頂いて、命を生かしていくことができるのです。
 
 このたとえ話を含むヨハネ福音書の13章から16章までは主イエスの告別の説教だと言われています。弟子たちに語られた遺言です。冒頭の13章1節にはこう記されています。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」父のもとへ移るというのが、十字架にかかって死ぬことを示していますが、弟子たちを愛し抜いた、弟子たちへの愛を貫いたと言います。今日の福音書でも9節で「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」と主イエスは言われます。留まるというのも、繋がるということです。主イエスを愛して信じなさいと言われる前に、まずあなたがたを愛しているこの私の愛に留まりなさい、つながっていなさいと言われるのです。でも、この後弟子たちは、主イエスが捕まり、十字架にかけられてしまう時に、怖くなって、逃げ出してしまいます。裏切ってしまう弟子もいました。弟子たちの弱さという面も伺えますが、死を前にして、死が恐ろしくなった姿をそのままに表しているのだと思います。
 
 主イエスは死における私たちの弱さ、もろさを十分に知っています。わたしにつながっていれば大丈夫なのに、なぜあなたがたは離れていこうとするのか。なぜわからないのか。ダメな人たちだと思われていたのではないのです。むしろわかりきっていたことなのです。だから、弟子たちの姿は私たちの姿と重なります。死の不安、死の出来事からは避けて通りたいというのが私たちの本音であるということを。しかし、主イエスの命を与える愛の約束の中には、十字架の死が含まれているのです。だから、私たちがいずれ迎える死の事実を明らかにしているのです。主イエスは死の事実を無視して、復活の命に目を向けなさいとは言われません。死の事実を通して、自分の死を覚えて、今の自分の命の歩みに目を向けなさいと示されるのです。この死と命の狭間に生きる私たちに主イエスは「わたしの愛に留まりなさい」と言われました。
 
 パウロはローマの信徒への手紙8章35節から39節でこういうことも言っています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:35~39)神の愛から引き離せないものの中に、死と命があります。生きている者も、先に召された者も、この神様の愛の下にある、愛のご支配の中にあるのです。強いて言えば、この愛の中に、先に召されたものも生きているということです。主の身許である天に生きているのです。
 
 それは神様の愛であるキリストご自身が、十字架に死に十字架の死から復活したからです。それはこのキリストも私たちと同じように死なれる方であるということ、そのご生涯を歩まれたということです。私たちと同じように、悲しみ、苦しみ、痛みを経験された方なのです。死の世界とは無縁の、理想郷に生き、そこから、復活の命を私たちに示しているのではないのです。先に召された召天者の方が生きて証ししてくださったように、このイエスキリストはそのように、私たちの人生の只中に来てくださり、私たちと共におられる方なのです。
 
 愛は決して、その人を忘れません。そして、神様の愛、それを顕しているイエスキリストは、召天者の生き様を、その愛をもってして、片時も離すことがなく、召天者の方と私たちと共におられる。それはこの地上での生涯を終えた後も続いているのです。
 
 このイエスキリストは十字架に死に、そして復活された方です。死を避けて、命を全うしたのではなく、死を受けて、死を突き破って、命を現したのです。誰よりも、死の悲しみを、死を前にした人間の弱さを知っておられる方です。だからこそ、命の喜びを知っておられる。私たちの命、人生を良いものとして、尊ばれている。その生き様を見つめておられるのです。この生き様は残る。主イエスが死で終わりではなく、命における新しさをもたらしてくださったからこそ、召天者の方々と私たちはこの神様の愛の中に生き続けるのです。
 
 死ですら、キリストの愛の支配下にあって、キリストの及ばないところはないからです。ひとりひとりの召天者がこのキリストの内に留まっていると信じて、この命を与えてくださるキリストに委ね、今を生きているわたしたちひとりひとりもまた、このキリストが与えてくださっている命に信頼して、生きてまいりましょう。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。