2014年5月25日 復活後第5主日 「一緒にいます」

ヨハネによる福音書14章15〜21節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

主イエスの告別説教と言われるこのヨハネ福音書14章から、今日も御言葉を聞いてまいります。十字架を前にした、弟子たちへの告別の言葉がここで語られていますが、主イエスの語られた言葉ひとつひとつをよく聞いてまいりますと、別れを前にして、直一層、「あなたがたは私と共にいる」という主のメッセージが私たちに告げられている印象があります。いや、単なる印象ではないでしょう。主イエスは真実をもってして、私たちにそのように語られているのです。

このヨハネによる福音書が書かれたのは、90年後半と言われています。教会が経験した迫害の厳しい時代に、ヨハネの教会、その共同体が記しました。このヨハネの教会、共同体ですが、ヨハネによる福音書の至るところに「会堂から追放された人々」ということを記しているように、彼らはユダヤの会堂から追放された共同体であったと言われています。ユダヤ教の中で大きな敵意があり、そして分裂が起こったのかと思います。共同体が受けた傷は深いものであったでしょう。そして外からの迫害、この世との戦いがあります。そのような背景の中で書かれたこのヨハネによる福音書、特にこの告別説教はヨハネの教会と弟子たちの姿をそのままに重ねて、描かれているでしょう。裏切られ、傷つけられ、苦しみの中にあって、告別説教に記されている主イエスの言葉ひとつ一つがどれほど彼らの慰めと励ましになったことか。主イエスの言葉が、神の御言葉がどれほど彼らにとって力づけられ、希望の糧となったことでしょうか。この告別説教に込められた主イエスの私たちへの慰め、愛の御心は、彼らの祈りとも言えるでしょう。

直、彼らは迫害の只中にあって、神様を、主を見失わなかったのです。信仰を告白し続けたのであります。それは、主の約束が彼らに実現したからです。主は彼らをみなしごにはしなかった、孤独にはさせなかったからです。その約束とは、この告別説教の中に示されている主イエスご自身の御言葉に他なりません。

それで、この主の約束を私たちは聞いてまいりますが、15節と21節で主イエスは「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」(15節)わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。」(21節)と言われました。文字通り、「わたし」、つまり主イエスを愛する者は、主イエスの掟を守り、受け入れる人であるということです。主イエスを愛するには、こういう条件が必要だ。そういうことではありません。主イエスを愛する者は、主イエスの掟に従っている者、その掟に従って生きている者です。愛すること、掟を守ること、両者は結びついていて、一つなのであります。

主イエスが言われるこの「掟」とは13章34節、35節にこう書かれています。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」主イエスを愛する者は、互いに愛し合う者、隣人を愛する者であるということ、すなわち、神と隣人を愛するということが言われています。神と隣人を愛する、それは旧約聖書の律法の中で既に語られていることですから、弟子たちも当然知っていたはずです。けれど、主イエスは、なぜここで「新しい」掟と言われたのでしょうか。何が新しいのでしょうか。

この13章には、主イエスが弟子たちの足を洗った洗足のお話が描かれています。主イエスは弟子たちとの夕食の時、自ら彼らの前に屈んで、彼らの足を洗ってあげました。先生が弟子の足、最も汚れている所を洗ってあげたのです。そして14節で「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」と、主イエスが行ったように、あなたがたも互いにそうしなさいと言われます。

最も汚れている所を洗ってあげる主イエスのこの行為は、まさに罪を洗い流す、清めるということに象徴されています。現に、主は十字架に掛かられ、私たちの罪を洗い流された、赦しを与えてくださいました。主は十字架の愛をまず彼らに示されたのです。そして「互いにそうしなさい」と言われます。赦し合いなさい、執り成しなさいということ。この復活後の主日に、私たちはこの主のメッセージを何度も聞いてまいりました。赦し合うこと、それが愛し合うことです。愛は赦しに根ざすのであります。主イエスを愛するということは、赦しに根ざしたこの愛に生きるということです。

とは言え、赦し合う、愛し合う、私たちはこれらの言葉にたじろぎ、躓くものであります。言うまでもありませんが、私たちの人間関係がそれほどまでに複雑だからです。聖書はもちろんその視点に立って、私たちに語っています。カインとアベルの兄弟殺しがまさにそのことを象徴しているからです。互いに愛する、赦すどころか、殺してしまう。裁いてしまう。ヨハネの教会もまた、その経験を抜きにして、自分たちの信仰を告白することはできなかったでしょう。嵐のごとく攻めてくる迫害の只中にあって、自分たちだけは特別な理性を持っていて、共同体は平和だったとは言えないのです。だからこそ彼らはこの告別説教を涙ながらに弟子たちから聞き、真剣に、そして丁寧に、この福音書を記したのでしょう。

彼らに平安を与えていたのは、主ご自身をおいて他にありません。主を通して語られている御言葉に聞く以外にないのです。御言葉に現されている神の愛、その神の愛であられる主イエスというお方を知る。そのお方は、そのお方のご生涯は父なる神様と共にあって、赦しに生きた方、愛に生きた方です。自分の命をとして、この赦しを、愛を自分たちに与えてくださった方です。それが十字架の死において示された真理であり、十字架において赦された者たちに平安を与えるのです。

主イエスの十字架が、彼らの、そして私のための十字架であった。互いに愛し合いなさい、赦し合いなさいとは、ただの道徳的な掟ではないのです。掟を守ることができない私たちに示された主イエスの「新しい」掟とは、主の十字架に示された赦しに土台を持つのです。ですから、主イエスを愛するとは、この主の十字架において示された自分自身の赦しから起こる新しい掟に生きる者なのです。

さて、主イエスというお方を知っていた、もちろん弟子たちはそうでしょう。しかし、彼らヨハネの教会は、そして私たちの教会は、この弟子たちと全く同じ体験をしたとは到底言えません。弟子たちのもとから、確かに主イエスは別れたからです。主イエスの姿をヨハネの教会、私たち一人一人は見ていないのです。それは、ペトロの手紙の中で、ペトロ自身が言っていることです。(Ⅰペトロ1:8)どうして、この主イエスというお方を知ることができるのでしょうか。頭の中で、知識として主イエスを理解するということは出来るかもしれません。聖書を読めば、また聖書に関する解説書、歴史書、などを読めばわかる通りです。されど、主イエスと私という関係は・・・。主イエスの十字架がなぜ私のための十字架なのかということです。

そこで主イエスは、16節から、別の弁護者を与えると言われています。この方は永遠に一緒にいてくださる方であり、真理の霊であるというのです。この弁護者という言葉は「パラクレートス」という言葉です。口語訳は「助け主」と訳されています。他に「助け手」、「援助者」、ルターは「慰め主」と訳しています。「パラ」という言葉が「傍らに」という意味です。これは法定における弁護人を意味する言葉です。自分の無実を証明してくれる、助けて弁護してくれるのです。それは自分自身の力ではどうにもならないということのあり方をこの言葉が現しています。パラクレートスは徹底して私たちの味方である、援助者という意味からすればそう受け取れますが、しかし、ルターの「慰め主」という訳から、自分のための助け主ということを考えますと、単に味方になるということ以上に、このパラクレートスは、傍らにいてくださる方は、もっと奥深く私たちと共にいてくださる方ではないかと思えるのです。自分自身ではどうにもならないどん詰まりの中で、救いの道を示し、そこに招いてくれる方ということでしょう。それはどのようにしてかというと「真理」を示されるということにおいてです。この弁護者、パラクレートスは「真理」を私たちに告げ、私たちを真理に導くことによって「私を真に生かしてくださる方」なのです。

少し先の14章26節で、主イエスはこう言われます。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」この弁護者が聖霊であるということが言われています。ペンテコステにおける聖霊の降臨はこの約束の聖霊です。この聖霊はすべてのことを教え、わたしが話したことを思い起こさせると言います。わたし、すなわち主イエスのことです。主イエスとは誰か、何をしてくださったかということを明らかに示してくださるというのです。聖霊は「主イエスこそが道であり、真理であり、命である」ことを私たちに教えます。主イエスこそが神様から遣わされた。十字架と復活の救い主であるということを私たちに教えるのです。ですから、パウロがコリントの信徒への手紙Ⅰ12章3節で「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです」と言う通りなのであります。

この弁護者はこの世の常識や合理性に基づいて、私たちの助け主となってくださるかたではありません。「真理」において、私たちの弁護者となってくださるのです。主イエスキリストという救い主を証してくださる方であり、主イエスの十字架の愛、赦しの奥深き恵みと、互いに愛するという主イエスを愛する掟の奥深さを示してくださる真理の霊なのです。だから私たちは、この真理を告げる聖霊を通して、この恵みの深さを知り、そのことに与って、「主よ、主よ」と心を開いて、信仰の告白をするのです。

そして、この弁護者は、永遠にあなたがたと一緒にいると、主イエスは約束されました。さらに「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」と、片時も私たちと共にいない時はないと言われるのです。私たちがこの霊を見失いかけた時でも、この霊は真理の霊、私は真理である言われた主イエスキリストの救いの道を明らかに示しされ、悔い改めへと導いてくれるのです。私たちを生かしてくださる弁護者だからです。

主イエスは20節で「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」と言われます。かの日にはというのは、主イエスの復活の時であると言われています。この真理の霊は、死を超えた永遠の命をも私たちに示されるのです。この時、もはや御子と人と父とは一体であるとさえ言われます。私たちが神の子とされ、キリストに結ばれて、私たち自身がキリストの手足となって、この世に生きていく、キリストの命を宿して生きていくという新しい歩みであります。この歩みを導くのは、この弁護者、聖霊であります。

この聖霊は、永遠に一緒にいます。そして死の先にある永遠の命を、キリストの復活を通して、私たちに告げています。この復活の主が私たちと共におられるということを明らかにします。そして、そのことは、今この地上に生きている私たちにとって、慰めの知らせとなるのです。

私はこの六本木ルーテル教会に遣わされて、1年が過ぎましたが、この間に、六本木教会に関係する方が4名召されました。私は全員のご葬儀を執り行ったわけではありませんが、4名の方の納骨の祈りを執り行わせていただきました。死というこの世との別れは、この世に生きる私たちとの別れであります。この世は、死の先を知りません。死が終点だと思うのです。しかし、私たちは、私たちを慰めてくださる方を知っています。いや知らされたのであります。そのお方は、この世の法則に縛られないのです。復活のキリストに結ばれている、先に召された方々を、地上を生きる私たちに示されるのです。死は永遠の別れではない、死を超えた先にある命に結ばれているのだと。悲しみにくれる私たちを慰められる主が、慰め主が私たちとともにいてくださる。そう、この方を通して、私たちはキリストに結ばれている先に召された方と「一緒にいます」と、信じることができます。ご葬儀の中で語られる説教も、そして私が、今このように、この説教壇から福音を語ることができるのは、真理の霊が私の口を通じて、語ってくださるからであります。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。