2001年1月14日 主の洗礼日 「イエスさまとバプテスマのヨハネを比較したら」

第1日課   イザヤ書42:1-7

見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない。この地に裁きを置くときまでは、島々は彼の教えを待ち望む。

主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ、地とそこに生ずるものを繰り広げ、その上に住む人々に息を与え、そこを歩く者に霊を与えられる。主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。

見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために。

第2日課   使徒書10:34-38

そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。神がイエス・キリストによって……この方こそ、すべての人の主です……平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存知でしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神がご一緒だったからです。」

福音書   ルカによる福音書  3:15-22

民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうして、ヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。

民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

説教  「イエスさまとバプテスマのヨハネを比較したら。」

ルカによる福音書の3章の15節から22節のお言葉でございます。

「民がメシアを待ち望んでいた」と。そこで、目の前に素晴らしい人が立っていたのです。ヨハネという人です。イエス様はヨハネを「女から生まれた人の中で一番優れた人」とおっしゃったことがございます。バプテスマのヨハネは人々の目に、深い感銘を与えるような人物でした。それで、人々は「もしかしたらこの方がメシアではないでしょうか。」と人間的に考えれば、そのような立派な方であったのです。声も大きい。背丈もいい。ちょっと服は珍しいものでしたが、でもそういうことは、人間を計るものではなく、人は実際に、正直にまた、正しく話したり判断している人物とヨハネを見て思っていたでしょう。ヨハネはとても気の強い人でした。当時の、パレスチナの一部を支配していたヘロデに対して、面と向かって、「あなたは悪い事をしている。弟の妻を取って、その人と一緒に暮らしている。」と言ったので、ヘロデとその奥さんも怒って、彼を牢屋へ入れてしまいます。ヘロデはヨハネを尊敬していたようで、時々話を聞いていたように見えますが、あるとき娘に騙されて、細君の指図で、ヨハネは殺されますが、これはその前の話です。

まだ、イエス様は人の前に現れていなかったのです。それで一部の人たちは「ヨハネが本当の約束された救い主でないでしょうか。」と思っていたのです。私たちがイエス様と比較してみますと、ヨハネは勇敢な人で、王様にも恐れずに、ちゃんと「これはいけない。」というような人であったのです。それに比べると、イエス様はただの人間のように見られたのです。そして、大人しい方。やさしい方。あんまり人の批判はしません。勿論、必要な時には正直に、話されたでしょう。その話し方は上手であって、それほど、ヨハネのように厳しくは響かなかったようです。この二人を目の前にしている人たちは、どちらが神様の約束の救い主かを考えていたのです。ヨハネはそれを察して、「わたしより優れたお方が来られる。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(ルカ3:16)と。火は当時の人にも恐ろしいものでした。そして、旧約聖書のイザヤが「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た。するとセラフィムの一人が、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏みで取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。『見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。』」(イザヤ6:5-6)と言っておられます。

また、新約聖書のペトロの言葉ですが、「あなたがたは、終わりの時に現れるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは。心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、賞賛と栄光と誉れとをもたらすのです。」(第一ペトロ1:5-7)このように、わたしたちの目で見たらちょっとよく分からないのですが、その結果を見たら、確かにイエス様はわたしたちを救うお方であって、時々難しいことが起きるでしょう。試練があるでしょう。でも、その試練そのものも、わたしたちにとってその信仰が本物であるということの証拠でないでしょうかと、ペトロは言っているのです。

「罪と何のかかわりもない方を、神は私たちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることが出来たのです。」(第一コリント5:21)これはパウロのコリント人への言葉です。

なお、イエス様ご自身が仰った言葉です。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」(ルカ12:49-50)

その洗礼というものは、イザヤが言うような火の洗礼ですか。あるいはパウロの言う難しいことでしょうか。考えますと、その洗礼は十字架上で受けられたイエス様のお苦しみです。わたしたちの身代わりとしてなさったこと、すなわち、わたしたちの罪を全部贖うために受けられたものでございます。

イエス様はバプテスマのヨハネによって洗礼を授けられます。ルカによる福音書の記事はマタイやマルコの記事と違って、最も簡単です。でも、大切なことだけが記されていることがよく分かります。「イエスがバプテスマを受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。』という声が天から聞こえました。」(ルカ3:21、22)これは天の神様のお声です。「わたしの愛する子。」と父親が自分の子供に対して、「わたしの心に適う者。」という言葉を追加されています。これはイエス様がその場だけではなく、その後も人々の助けをしたり、人々に神様の御心を話されたりして、最後にイエス様の十字架上のお姿を御覧になっても、それでも「わたしの愛する子、わたしの心に適う者。」と、わたしの思っている通りにしてくれる者と父なる神様が仰ったのです。だから、わたしたちにとって、ただ見えるところでの判断は出来ないということを聞かされているところです。そう、リーダー格といったら、見えるところではヨハネは素晴らしい方です。力があって、声も叫んだりしているのですが、イエス様はイザヤの言葉の通りに叫ばない。大きな声を出さない。わたしたち一人一人のことを思い、わたしたちの身代わりになってくださるとイザヤは語っているのです。

そのようにわたしたちはイエス様がヨハネの言う通りに、優れたお方であると考えなければなりません。そう。わたしたちの考えと大分違ったところがありますね。どうして、イエス様という素晴らしいお方が神のお子さんがこのように苦労して、苦しんで、最後は犯罪人として、十字架にかけられるということを受けなければならないかったでしょうか。それをよくよく考えてみると、わたしたちのためにそれをなさった。こうでなければならなかったのです。罪を犯す者は罰を受ける者です。誰がその罰を受けて、全部の人の身代わりになることが出来るのでしょうか。ただ主イエスさまだけですね。ヨハネはその当時は素晴らしく見えたのですが、忘れられて行くのです。ということはどんな人間であっても、神様のみ前では小さい者です。罪人です。でも、わたしたちの聖書で、繰り返し語られることは、神様は罪人のわたしたちを愛して、子供にしてくださる。だから、前にも申しましたが、洗礼を受ける方は、神の子供であるという証拠と考えてもよろしい。いずれはわたしたちも、主イエス様と同じような者になって、天国の門をくぐって永遠に生きるのです。現在の社会で考えられる一番よろしいとの判断よりも、神様が教えてくださる、この救い主イエスさまを大事にして、彼の言葉を一つ一つ心に留めて、イエス様を真似するような生き方をしたいことでございませんでしょうか。神様は確かに、私というものを愛していてくださいます。私たち一人一人はそれを信じて、喜ぶべきことでございませんでしょうか。