2001年3月18日 四旬節第3主日 「神様は人間の目覚めるのを待っておられます」

第1日課   出エジプト記3:1-15

モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」 と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」 神は続けて言われた。 「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」 モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、私は降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ぺリジ人、ヒビ人、エブス人の住むところへ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたがエジプトから導き出しとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ。」 と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名、これこそ、世々にわたしの呼び名。」
第2日課   コリント人への第1の手紙10:1-13

兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼(バプテスマ)を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。彼らの中にある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った。」と書いてあります。彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたかたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道を備えていてくださいます。

福音書   ルカによる福音書13:1-9

ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたかたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたかたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

説教  「神様は人間の目覚めるのを待っておられます。」

ルカによる福音書十三章の一節から九節までのお言葉でございます。

今日の福音書の日課で、事件が起こったのです。エルサレムの神殿で、奉げ物をしようとしていたガリラヤの人たちが殺害されたのです。ピラトが軍を送り込んで彼らを殺したのです。それは、彼らがローマ帝国の支配に反対していたからです。人はそのような災害にあった人に対して、日本的に言えば罰が当たったと解釈をしていたようです。また、シロアムの塔が倒れて、十八人の人が下敷きになって死んだ事件が、その少し前にあったことも、彼らが悪い者であったから罰が当たったのでしょうと言っていました。

イエスさまはそうではないと言われて、次のたとえ話を仰ったのです。いちじくの木の畑に虫が来てもう三年も実がなるのを期待していたのですが、実がならないで楽しむことが出来なかったので、この木を処分しましょうと使っている人に言いました。その人はもう一年待ちましょう。私がもう少し上手に木の手入れをしますからと言ったのです。このたとえ話の意味は、神様はかなり忍耐強いお方です。三年ばかりではなく、あんまり役に立たない私たち人間を、神様の思われるほどの人間になっていないわたしたちを、神さまは忍耐強くもう少し、もう少し待とうと思ってくださるのです。これが今日のお話の大事なテーマでございます。

神様は相当忍耐強いお方です。 そこで旧約聖書に一つの例がございます。モーセという方を、イスラエル人のリーダーに神様が選びなさったのです。モーゼはどんな人でしょうか。イスラエル人でエジプトで生まれたのです。丁度、イスラエル人が迫害されていた頃です。男の子は生まれたら殺せと王様から言われて、大変な時でした。そこでモーセが生まれた時に親が川辺に隠したのです。そこへエジプトの王様の王女が来て、見つけてモーセを自分の子供としたのです。ですからモーセは最高の教育を受けていました。イスラエル人がいじめられて苦しめられているのを見かねて、ある時、そのエジプト人を殺してしまったので、モーセは国から逃げなければならなかったのです。察することは四十年くらいの間、エジプトの東にある余り地の肥えていない砂漠のようなところでしたが、家畜を飼っている人のところに縋ってモーセは暮らしていました。そこで、神様が彼を呼び出すのです。燃えているように見える柴が燃え尽きないでそのままでした。モーセは不思議に思って近くへ行って見ようとしたら、神さまが燃える柴の中から、モーセに話をされるのです。「エジプトへ戻って、イスラエル人をエジプトの奴隷生活から導き出すのだ」 と命令をなさるのです。勿論モーセは、口実を言いますが、神さまはそうするように言われるので、彼はエジプトへ行きます。聖書の中に出エジプトと言う一部がございます。それを読んで、私たちも如何に神さまが、モーセをリーダーとしてお救いなさって、守って、終には四十年後になりますが、約束の国へお連れなさった事がわかります。

その話をパウロがコリント人の手紙で聞かせています。コリントは随分商業の地として栄えて、立派な町でした。日本でしたら東京のようなところでした。政治はアテネでしたが、金儲け、その国の財産はみなコリントで作っていたのです。彼らはそれを自慢していたのです。どこにも負けないようなところと彼らはそれを誇っていました。その中にいるクリスチャンもその影響を受けていたでしょうと思えます。パウロがその世の中の人の真似をするなと、神様はちゃんと皆さんを心配しておられると言っております。そう言う世の中ですから、問題も起こり、ことに誘惑も多かったのです。彼らも同じように商売をして儲けたいのでしょう。楽な生活をすることを望んでいるのでしょう。でも、その誘惑に負けるなとパウロが言ったのです。そして、十章にある今日の聖句の終わりの言葉ですが、私たちはこれを良く覚えておきたいものです。「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れ道も備えてくださいます。」 と聞かせているのです。わたしたちもそのような事情や、試練に遭うこともあるでしょう。イエスさまの世の中でも事件が次々に起こって、彼らはちょっとこわくなっていたのでしょう。恐れ持っていたのです。そのためにこの世について行こうとも考えていたのでしょう。そこで、イエス様がいちじくのたとえを聞かせて、もう少し忍耐強く、これは神さまが忍耐をしてくださるのですが、その神さまのしてくださることを待ちましょうと、当時の人たちに聞かせておられます。

私たちも同じような事情にあることが時々あります。どうしょうか。困った。方法としてはちょっと不正なことですが不真面目なことですか、それをやったら助かると私たちは思いつくのですが、「その誘惑に私たちは決して負けてはいけません。」 とパウロは聞かせています。イエスさまのこのたとえも同じ意味です。神さまは忍耐強く私たちのことを思っておられます。本当を言えば、神さまは正しいお方ですから、悪いことは大嫌いです。そしてその大嫌いなことを私たちがやっていて神さまはどう思われるでしょうか。丁度、いちじくの木の持ち主のように、処分しましょうと思うのが普通でしょう。このたとえ話はわたしたちにとって大きな慰めとなります。神さまは忍耐強いのです。今すぐ処分するのではなく、しばらく待ってくださるのです。そして私たちをこの世の中からいずれは、お呼びなさるでしょう。その時まで私たちは耐えていましよう。

私たちは先日、会員の一人のお葬式に参加いたしました。その時聞かされたことは、神さまがわたしたちのために本当の将来を計画しておられて、その場所がよろしいだけではなく、そこに相応しいように私たちを変えて下さって、私たちは永遠に生きることを約束されております。それをわたしたちは信じておりましょう。それが私たちクリスチャンの信仰です。それを知らない人を私たちはかわいそうに思います。彼らにもぜひ知っていただきたい。神さまはそのような大きな愛を持っておられる方で、忍耐強いお方ですから、知らない方もそれを知って、信じていただきたい。 私たちが今生きていることは、その役割の一つがそこにはっきりと見えるのではないでしょうか。私たちのやるべきことは、大したことはできないですが、人に呼びかけてその人たちをある意味では導くことができるのです。それに応じない方もいるでしょうが、理屈ではそう考えられるのですが、神さまの力、神さまの愛、聖霊の仕事、お働きによってその人が導かれて私たちと同じような大きな将来の、永遠の希望を持つことが出来るでしょう。とにかく私たちがやらなければ何もない。今悪いから処分しょうということではなく、彼らはもう駄目だと言って何もしないことではなく、少しでも私たちに出来る僅かな事でも彼らのためにやってみましょう。