2001年10月7日 「シャローム・レーケム」

“シャローム・レーケム”

(ヨハネによる福音書14:27;16:33;20:19,21)

  シャローム―――ご存知のように、ヘブライ語の中でも最も美しいことばの一つであります。旧約聖書の中でもそうでありますし、現代ヘブライ語でも同じといえましょう。 今日、最も争いの絶えることのないあのパレスチナにおいて人々は、“シャローム・アレイへム(こんにちは、さようなら)”――“アレイへム・シャローム”と挨拶を交わしているのであります。

  シャローム―――聖書では、平和、平安と訳されます。 戦争と平和といえば、戦争の反対が平和のように考えられるかも知れませんが、シャロームというときの平和は、ただ戦争や紛争の無い状態のことではありません。 なるほど平和を破壊する最大のものは戦争でしょう。 しかし、戦争はあくまでも平和を破壊するものの一つに過ぎません。 平和を壊す最大のものといえますが、そのうちの一つにすぎないことには変わりないのです。 シャロームの敵には、戦争の他に、身近なところから挙げれば、病気と死、事故、盗みと殺人、災害と環境破壊などがあります。 これらによって平和はいつも脅かされています。

  ですから、平和の反対語を強いて挙げれば、それは世界の混乱、つまりカオスとなります。 ある方の定義によりますと、シャロームという言葉は、「全体が統合された状況、つまり、神と他者と自然とに調和して生きる状態を指し示す」 のだと言います。 神と人との関係だけでなく、自然との関係を問題にするところは、極めて今日的な見解といえるでしょう。

  さて、ヨハネによる福音書のことばにご注目ください。 この福音書では、平和という言葉が意外と少ないのに驚かされます。 まるでこの言葉を惜しみながら、大切そうに使っているようにさえみられます。いちばん大事なときにだけ使いたいとでもおもっているのでしょうか。 ではどんなところに平和という言葉でてくるでしょうか。 “平和”と訳されている個所が4箇所ございます。 いずれも現代ヘブライ語訳の新約聖書をみますと“シャローム”と訳されています。

  そのうち2箇所は、14章から16章に及ぶイエスさまの告別説教と呼ばれる二つの説教のそれぞれの結びのところ、すなわち、14章27節と16章33節に出てきます。お読みいたしましょう:

   「平和をあなた方に残し、わたしの平和を与える。 わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。 心を騒がせるな。 おびえるな。」(14:27)

   「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。 あなたがたには世で苦難がある。 しかし、勇気をだしなさい。 わたしはすでに世に勝っている。」(16:33)

あとの2箇所は、20章19節と21節、すなわち、復活のイエスが弟子たちのところに現れたときの挨拶のことばとして出てくるのです。 次のように記されています。 お聴きください:  

   その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、 自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」 と言われた(19) イエスは重ねて言われた。 「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21)
 
  つまり、こういうことになります:イエスさまは、十字架の死の前に、別れの説教で弟子たちに 「平和を与える」 と約束されたとおり、復活されたとき、まず、死と復活をとおして自ら平和の主として現れてくださったというのです。 なんという見事な一致でありましょう。

  14章27節: 「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」 とあります。 「世が与えるように与えるのではない」、「この世が与える平和」 と 「イエスさまの与える平和」 とでは、その“平和の与え方”が違うというのです。 新約聖書時代のことなら、当時は、“パックス・ロマーナ”、「ローマの平和」 といわれた時代です。 しかし、それは表向きのこと、その裏舞台は、血で血を洗う権力抗争の歴史でもありました。 一般市民にとっては戦争の火の粉が直接降りかかることはありませんでしたが、決して自由とはいえない奴隷制社会であり、また皇帝礼拝の強要される社会でした。 さらには、重い税金に苦しみつつやっと保たれた平和にすぎなかったのです。 だからといって、本当の自由を得るために戦わなければならないといって戦争が正当化されてはなりません。 最初にも言いましたが、戦争は平和を破壊する最大の敵です。 戦争は人間の魂と肉体を絶滅させ、神さまの啓示を見えなくしてしまうからです。今年は56回目の8月15日を迎えたわけでありますが、平和の共同体として神さまからこの世に遣わされているキリストの教会に連なるわたしたちは、改めてこのこと―――戦争を繰り返してはならない―――ということを自らも自覚し、戦争の悲惨さを風化させてはならないと思います。

  マタイ福音書5章の有名な 「山上の説教」 の初めに、八つの祝福が語られていますが、ご存知のとおり、その一つに 「平和を実現する人々は、さいわいである」 とあります。 キリスト者にとって、「平和を実現する人々」 とは何をする人のいことでしょうか。 何か旗を振って、平和運動のような行動を起こすことを求められているのでしょうか。 そこで問題は、ここでいう平和とは何かということです。 聖書でいう平和、神のシャロームはどのように実現されたかということです。

  ローマの信徒への手紙5章のはじめに、「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、」 とありますように、またエフェソの信徒への手紙2章14節に 「実に、キリストはわたしたちの平和であります」 と告白されていますように、人間にとって根元的な平和は、創造の主である神さまとの間に築かれた平和、それはイエス・キリストの十字架の死による赦しと復活の命によってもたらされたものであります。 ですから、復活のイエスは、はじめて弟子たちのもとを訪れたとき、“シャローム・レーケム(平和があなたがたにあるように)”と宣言され、自ら弟子たちに約束されていたとおり、その実現として平和をもたらされたのでした。

  これがキリストの平和(パックス・クリスティ)の与え方です。 この世の平和は、多くの場合、人々の犠牲の上にかろうじて保たれる平和ではないでしょうか。 広島、長崎の何十万人の尊い生命が失われてはじめてあの戦争が終結したことを忘れることはできません。 しかし、キリストの平和はどうでしょう。 キリストご自身の犠牲によってもたらされたのです。 なんという大きな違いでしょう。

  イエス・キリストにおける神の平和、神のシャローム、聖書によれば、それは、あくまでも神さまの側からの働きかけ、つまり、ヨハネ福音書3章16節の有名なことばにあるとおり、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛され」、自ら人間になられたこと、人間はそのように神さまから目をかけられ、神さまの下に生きる被造物であるということです。  聖書によればまた、神と人間との間に越えがたい、深い溝が存在します。 罪によるさけめです。 遠藤周作氏の言い方を借りるなら、人間の「狂える心」、その奥底にひそむ 「罪の母胎の影」 の存在であります。 ところが、今や、人間の側からどうしても越えられないこの溝が越えられ、克服できないこの影が克服されたというのです。 あの十字架において、それは実現しました。 人間の側からではりません。 神と人間との両方からというのでもないのです。 ただ神さまの側からだけ越えて来られました。 和解、平和とは、実にこのような神さまの一方的な恵みによる救いなのです。 イエス・キリストにおける神さまの愛と力による働きかけです。 わたしたちは、今朝も新しくこの福音を、わたしたちに語られている福音として聴くのです。

  ですから、「平和を実現する」 とは、実に、このイエス・キリストの十字架とその平和を証しすること、そしてその証しをとおして、このイエス・キリストが真の主として、人々のあいだに支配者となることであり、キリストの平和の御国が実現することにほかなりません。
マザー・テレサのことばに:
    沈黙の実は祈りであり、祈りの実は信仰であり、
    信仰の実は愛であり、愛の実は奉仕であり、
    奉仕の実は平和である。
とあります。
「奉仕の実は平和である」。 ご自身のすべてを与え尽くされて神との平和を実現してくださったイエス・キリストに従う者の奉仕によって、平和が実を結ぶというのです。 奉仕する人と奉仕を受ける人との間に神の平和を分かち合うことが生まれるのだとマザー・テレサはいいます。 これこそ平和の実現以外の何でありましょう。 こうして、彼女たちのグループにとって、最も大切な祈りは、あのアッシジの聖フランシスコが祈ったといわれる 「平和の祈り」 だそうです:
    わたしをあなたの平和の道具としてお使いください、
    憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところに許しを、
    分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、
    誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、
    闇に光を、悲しみのあるところに喜びを、もたらすものとしてください。
    慰められるよりは慰めることを、
    理解されることよりは理解することを、
    愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。
    わたしたちは、与えるから受け、許すから許され、
    自分を捨てて死に、永遠の命をいただくのですから。

  今、世界の人々が最も必要としている祈りは、これではないでしょうか。 ご自身の生涯と死と復活をとおして、平和を実現してくださった主イエスは、復活者として、最初に弟子たちに現れたとき、こうおっしゃいました: 「あなたがたに平和があるように。 父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」 と。 そうです:キリストの教会は、こうして世に遣わされた 「平和の使者」 なのです。

  私たちキリストに従う者は、平和を“与えられている、持っている”だけではありません。 それと同時に、平和を“実現する”者と言われています。そして、それはまずわたしたち一人一人が 「平和の祈り」 を祈ることから始まるのではないでしょうか。

  どうか今週も問題の多い世の中に生かされてはおりますが、家庭にあって、職場において、あるいは学校にあって、人々と出会うとき、キリストの平和に生かされた者として、その平和がわたしたちの人間関係において互いに分かち合うものとなりますように!祈りましょう: