2001年11月11日 「信徒でまもる礼拝説教集1」

佐々木謙一兄

2001年11月11日ルカによる福音書 19:11~27

本日の聖書の個所は、「ルカの旅行記」といわれる第9章51節から、第19章27節の最後の個所に位置しています。これは、イエスがガリラヤからエルサレムにむけて旅をする個所であります。9章51節では「天にあげられる日がちかづいたので、エルサレムへ行こうと決心して」、エルサレムへの旅がはじまります。ここでこの旅はクライマックスをむかえ、「エルサレムに近づいて」こられたのです。この聖書の個所は、イエス様が、私たちのために命を捧げてくださる、そのエルサレムに近づいてこられていることが、契機となっているのです。

1節から13節にご注目ください。
「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために旅立った」とありますが、この「立派な家柄の人」とはイエス様をあらわしています。これはイエス様のエルサレムへの旅、そしてさらに十字架の死を遂げて、復活し、父なる神のみもとにおいて覆いを受けるという旅を表しています。
ここで主人は旅立ちに際し、10人の僕たちに1ムナというお金をプレゼントします。この10ムナはただプレゼントとして渡されただけでなく、この1ムナをもとに、もっと増やしなさいというメッセージがこめられています。つまり1ムナとは、単にお金を意味するのではなく、いろいろな賜物と解釈することができます。
それは神様が私たちに与えてくださった体力であったり、知力であったりと、その人の能力を意味しているかもしれません。そういった能力を生かしなさいという意味にもとることができるかもしれません。しかし、この世の現実をみるとき、みなさんは「全ての人に1ムナを与えられてはいない、それぞれ異なったムナを与えられている、この世は不公平、不平等ではないか」と思われるかもしれません。私たちに平等に与えられているこの1ムナとは何を表しているのでしょうか。
日野原重明という方の著書で「生の選択」という本がございます。この方はご存知のように様々な重い病にかかって苦しんでいる方々に接っするお仕事をなさり、人間の命の尊厳についてたくさんのことを教えてくれている方であります。この本のなかで氏は、次のようにいっています。
「もし平等ということがありうるとすれば、与えられた人生のなかで、各人の「宝」を最高度に社会のなかで活かす、あるいは社会に還元する機会がすべての人に与えられている。言い換えると「どのようにして自己を活かすか」という自由とその機会が与えられているという意味では、平等はすべての人の上にあるように思われます」
10章42節では「無くてはならないものは、多くはない。いや。1つだけである」とイエスは教えておられます。これらのことを考えると、この1ムナとは、まさに「神のことば」であるとは考えられないでしょうか。そしてこの各人にあたえられた「神のことば」によって、弟子たちつまりは我々が「使徒的」な働きをすることをイエス様はのぞんでおられるのです。
15章で主人が帰ってきたとき、僕たちが呼ばれ、渡した1ムナをどのようにしたか、決算が始まります。そこで第一の僕は「あなたの1ムナは、10ムナをもうけました」といい、第二の僕も「あなたの1ムナは5ムナをつくりました」といいます。ここで主語が「私」ではなく「あなたの1ムナ」であることに注目していただきたいと思います。彼らが自分が労苦と努力を重ねた結果、もうけたのだとは言わず、また自分の業務について語ろうとはしません。ムナそのものが新しいムナを生み出したかのようにいっています。コリント人への手紙第一でパウロも「私に賜った神の恵みは無駄にはならず、むしろわたしは彼らのなかのだれよりも多く働いてきた。しかしそれは私自身ではなく、私と共にあった神の恵みである」といっています。私という小さな人間とその人生や活動を舞台にしてムナが生きて働く、人の思いを超えて働く神の力がおおきなものを生み出していくのです。そしてそれはムナを活かすものにのみ経験できる大きな驚きなのです。
私が社会人になりたてのころ、私はとても自分に自信があり、自分に力があるように感じていました。会社でも上下の関係にとらわれず、力のあるものがこの社会を勝ち抜いていくのだと信じて疑いませんでした。しかし自分の力に頼っている自分に次第に疲れを感じてきたように思います。私の仕事は営業ですので、毎月自分が売り上げていかなければならないノルマがあります。
ある日、私はあまりにも多くのノルマをかせられているように感じて、上司に文句をいったことがあります。ある一定のノルマを達成すると、さらに多くのノルマを与えられ、だんだんとやらなければならない仕事の量を増やされるのです。私はこれでは疲れきってしまう、みんなと同じくらいのノルマに戻して欲しいと訴えました。そのとき上司から「おまえからそれをとってしまったら何が残るのか」といわれました。これはひとつの例えですが、この話を自分の生活に置き換えて考えることがあります。私から教会生活をとってしまったら、一体なにが残るのだろうか。何故教会生活を私は続けているのだろうか?いや、何故続けられるのだろうかと。私たちはそのあたえられた役割や仕事、いってみればノルマによって自分らしさを保っていけるのではないかと感じることがあります。私たちにはそれぞれ神さまから与えられた「ムナ」があり、その恵みが私たちを生かしているのではないでしょうか。それを考えたときに、私の意志だけでここにいるのではないように思います。何かが私に働き、私を超えた力が働いて、自分がその道に進んでいるようにさえ感じられます。逆にいえば、私から信仰がなくなるということがあるのだろうかと思います。私を越えた何かがあるとすれば、それは何でしょうか。私にとって大切なムナとは信仰であると思います。私から信仰や教会生活をとってしまったら、私は私でなくなると思います。つまり、ただむなしく生きていくだけだと。神への仕事とは、牧師として働くということではなく、日々祈りの中で人を思うこと、自分を優先させず愛をもって人に接すること、これこそが一番大切な神への奉仕であると思います。なぜなら聖書にあるとおり、「神は愛である」からです。愛のあるところに、必ず神様がともにいてくださるからです。その反面、愛のないところにはサタンが存在し、我々を常に誘惑しようとしています。今年、世界では大変なテロ事件が相次ぎ、深い悲しみが私たちを支配しました。これもサタンの仕業であるかもしれません。その原因はタリバンという勢力とアメリカという勢力の間に生じた憎しみから起こったもので、愛とはかけ離れたものです。
22節で「善い僕」、「悪い僕」とでてきますが、この善い、悪いは主人のために役立つかどうか、その行いが問題とされます。よく私たちは善い、悪い、ときくと「欠点がある、ない」というように解釈しがちですが、ここでは失敗をおそれて何もしないことが良いのではないのです。何か行動を起こして、悪いことをすると罪が増し、罰が与えられると考えられがちですが、そうではないのです。イエスさまが生涯をかけて、受難と十字架において示した神の愛は、私たちを臆病にさせる恐怖の神ではありません。つまり、キリスト教の神とは、単なる物理的な創造者ではなく、また人間の生活や富の上にその摂理を働かせて、自分を崇拝するものに幸福を与えるにすぎない神でもありません。そういった神は私たちのために、十字架にかかって死んでくださった愛の神ではありません。異教徒の神です。私たちの愛する神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、キリストの神は愛となぐさめの神なのです。この神様はご自身のとらえたもう人々の魂とこころを満たしてくれる愛の神、我々が自分の力のなさ、惨めさを感じるときに、ご自身の限りない自愛を与え、それを身にしみて感じずにおれないようになさる神です。そして自らへりくだり、私たちと魂の奥底においてひとつとなってくださる神なのです。
我々が今ここに礼拝を守り、一週間安心して進むことができるのはこの神がいてくださるからです。キリスト者の神は希望の神です。神は十字架にかかり、復活し、天に昇られ、そして今日、私たちとともにいてくださいます。最後に次の言葉を紹介しておわりにします。J.Jルソーという人のことばです。「生きること、それは呼吸することではない。活動することだ。最も長生きした人とは、最も多くの歳月を生きた人ではなく、もっともよく人生を体験した人だ」私たちも慈悲深い神が生きて働いておられることを覚え、このような人生を体験する幸いを感謝して今日の日をすごしましょう。