2004年6月20日 聖霊降臨後第3主日 「もう泣かなくても」

ルカ7章 11-17節

 
説教  「もう泣かなくても」  大和 淳 師
11それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。12イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。13主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。14そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。15すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。16人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。17イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

 短い小さな物語を今日ご一緒に読みます。イエスがナインという町の門に、弟子たちや大勢の群衆と一緒に近づかいていかれたとき、ちょうど、ある母親の一人息子が死に、棺が町の門から担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。そういう情景が語られています。
  母親は泣いていました。涙が止まらなかった。彼女は既に夫を亡くし、そして今また一人息子を亡くしたと言うのです。それは彼女にとって天涯孤独の身になったというだけでなく、彼女を養ってくれる扶養者をも失ったということを更に

物語っています。だから、その棺に付き添っていたという大勢の町の人々も一層悲しんでいる、それは人々の大きな泣き声に包まれた一団であったでしょう。

  その死の悲しみに包まれた人間の群が町の門から郊外の墓地へと向かっていこうとしたそのとき、正反対の方向から、主イエスが、彼の弟子たちと大群衆と共に歩き進んできました。そのイエスの一団と葬儀の一団が、町の門、そこで出会ったのです。物語はそこから始まります。
  聖書はこの出来事をまことに見事なそのコントラストをもって描き出します。一方から、棺、死者を中心とした死の悲しみに包まれた人間の群が町の門から出ようとしている、しかし、その反対方向からイエス、命の群が町の門の中へとやってくる、その出会い、死と命、滅びと救い、絶望と希望がまるで衝突するかのように ― この鮮やかなコントラストは、しかし、この直前の百人隊長のしもべの癒しの物語から引き継がれているのです。

  このすぐ前の物語、それは、ヘロデの傭兵であった百人隊長、彼の従卒従卒が病気で死にかけていたというところから物語は始まっていました。その百人隊長は、しかしイエスのことを聞いて、町の長老に頼んで、その僕を癒してもらおうと彼らをイエスのもとに遣わした。そうしてイエスはその彼のもとへと向かったのですが、その一方で死は刻一刻と近づいていたのです。一方で、死が、しかし、他方から今やイエス、命が接近してくる ― そういう中で、この人、百人隊長は、主イエスに直接お出で下さらなくてもいい、主に直接その手で触れてもらわなくてもいい、ただ主イエスの御言葉、それだけで十分なのだという大胆な信仰に立つことが出来た、イエスが感心するほどのその信仰に立つことが出来た、そういう物語でした。

  つまり、こういうことです。死は最早この命である方、主イエスに勝たなかった。それどころか、いや何と言っても、この命、イエスが近づいてこられるとき、死は、この隊長、その心、彼自身を屈服させることもできなかった。その時、もうどうにもならないのだ、どうしようもないではないか、死はそう彼に語りかけていた。おまえは、いくら会堂をイスラエルの民のため、神のために捧げようとも、つまり、どれほど良い、立派な行いをしようとも、それは最早無駄だ、この死の前で何になろうか、と。しかし、この隊長は、イエスが近づいてこられる、その接近の中で、その無力、ちっぽけな、取るに足らない者であるがままに、死へと屈服するのではなく、イエス・キリスト、その権威に従った、すなわち真の自由を得た、そういう物語であったのです。

  そしてまた再びこのナインという町で同じように、死の悲しみに包まれた人間の群が町の門から出ようとしている、しかし、イエス、命をを中心とした群が町の門へと向かってくる、福音とはこの出会い。そのような人生の時に出会うこと。福音書は繰り返しそう語るのです。つまり、こういうことです。この葬儀の行進に、イエスと彼の一団、それはいわば結婚式のような喜び、生の喜びに溢れ、輝いているその行進、命が訪れるのだ、と。

  町の門、それは単なる町の出入り口ではないのです。古来、町の門、それは町の中心であり、会堂があり、またそこで勿論市も立つし、裁判も行われる、このように葬儀の舞台ともなれば、花嫁、花婿が晴れやかな姿を見せる。深い悲しみに暮れるようなときには、そこに座って、そこに伏して人々は嘆き悲しみ、祝いの時のは、そこで歌い踊る。それは人が泣いたり笑ったりする、会堂と共に人間の生活の中心、生活そのものであったのです。

  それ故、ここで福音書が語るのはこういうことです。町の門、広場、そこでこの死と命は、そのまますれ違って行くのではなかった。この死の群と命の群、その中心にイエスがいまし給う。イエスがその中心におられる、この二つの群の、この町の門、すなわちわたしどもの生活、生の中心となられた、と。つまり、ここでこの主がおられなかったなら、その中心、そこで力をもち、わたしたちを支配するのは、まったく死の力、その現実です。死 ― 命の何もかも飲み込む死、町の広場を真に支配するのは、そこでわたしたちが実感するのは、この葬儀、泣いている喪主、この母親、その死の生のリアリティーであると言っていいでしょう。

  聖書はそのことを、あの百人隊長の物語でも、ここでも、そのようなわたしたちであることを、その現実をありありと描きます。だが今や、悲しみが支配しているその中、その中心に主イエスがいまし給う。今わたしたちの町の門、生においても、イエスが、中心であり給う。すなわち、この死の群に対しても!

  問題はその主イエスが中心となられた、それは、どのようにこの方はわたしたちの生、その中心となられたもうか、です。つまり、主イエスがわたしどもの中心となられたとき、一体、どういうことがわたしたちにもたらされているのか?

  単刀直入に聖書はこう記します。「主はこの母親を見て、憐れに思い」(13節) ― 他の誰でも、何にでもない、その母親、彼女に、悲しみ、苦しみの中心に真っ直ぐに目を向けてい給う、と。そこで悲しんでいる人間に。「彼は彼女を深く憐れまれ」た。主イエスは深く憐れんだ、共に悲しんだ、そのようにして、イエスは、この死の群に対しても中心となり給うたのだ、と。「彼は彼女を深く憐れまれ」た。つまり、この物語、その一切の中心は主が憐れんだ、「彼女を深く憐れまれ」た、そのことにあります。あのヨハネ福音書の復活物語において、天使たちが、そして更にこの復活したイエスご自身が、イエスを失った悲しみに泣いていたマリヤに繰り返し「なぜ泣いているのか」(ヨハネ20章13、15節)と語りかけたように、ここでも母親に「もう泣かなくともよい」と言われ給うのです。

  「もう泣かなくともよい」、神の憐れみが一直線に、この一人の人の悲しみの底、苦しみのどん底にある一人の人に向かって、もうすべてを失ってしまったと思っていたこの人に向かっていくのです。泣きながら、死んだ者によりすがるようによろめきながら歩く、死の行進を続けている人間、その悲しみをイエスがすくい取られるのです。その死の行進、誰も止められない、また止められるはずもなかった死の行進を、この方が、この方こそが止め給うのです。

  そして、なるほど、聖書はここでまるで信じがたいことを記します。「そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると死者は立ち上がって、そしてしゃべり始めたので、彼は彼をその母に与えた。」(13-14節)

  「すると死者は立ち上がって、そしてしゃべり始めた」、しかし、それはここで起きていることの全く外側のことに過ぎません。それは事柄の周辺的なこと、ものごとの影のようなことなのです。ここで、聖書が心をこめてここで語り伝えていること、それは「彼は彼をその母に与えた」、この一言なのです。主イエスは、彼女の唯一人の息子を彼女に与えた、彼女は自分の人生を、新たにもう一度与えられた、聖書は、さりげなく、しかし心をこめてそのことを語るのです。いわば神の真心、神の命のぬくもりを伝えているのです。
  みなさんは旅行などに行って、たとえばガイドさんが「今日は雨で見えせんが、晴れていればここからきれいな湖が見えるんですよ」と説明されたとき、そんなありもしない湖なんか信じるもんか、そう思うでしょうか?そうか残念だな、そう思って、心の中で、その見えない湖のこと、あるいは見えない山を思い浮かべるのではないでしょうか?第一、そんな湖はあるもんか、そう思っているとしたら、その旅は決して楽しいものでも意味あるものにもならないに違いありません。人生というこの旅もまったく同じです。

  言ってみれば、聖書は私どもに、ちょうど、そのガイドのように伝えているのだ、と言っていいかも知れません。つまり、長い人間の歴史の中で、まさに本当に快晴の日々があった、そのとき、本当に一点の曇りなく、神様のみ業が現れ、そのとき、聖書の人々はそれを目の当たりにしたのです。しかし、残念ながら、わたしどものこの時代は、その日のように晴れているのではなく、ちょうど今梅雨の季節ですが、そのように日々雲がかかり、時には全く一寸先も見えない霧に包まれたりする。しかし、たとえ、今眼に見えなくとも、この主イエスの憐れみは、わたしたち一人ひとりに、神の愛はわたしたち一人ひとりに注がれるのだ、と。だから、天候の如何にとらわれず、その目に見えない愛を信じて、旅を続けるのだ、と。

  そして、これが事実であるとしたら、つまり、このように、イエスは、わたしたちの死への行進の中に、踏み込んでこられ、私の悲しみに真っ直ぐに目を向けておられる、そしてそれをご自分のものにされている、そして、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」 ― すなわち、立ち上がれ、このわたしと共に、あなたよ、起き上がれ、そのように言われ、その力をもって臨まれている、そのことが、このわたしの生、人生、この生活において事実であるとしたら!

  16節、こういうことが最後に記されています。「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った。」
  「大預言者が我々の間に現れた」、偉大なる預言者、わたしたちが思いがけない力をもった方があらわれた。これは文字通り直訳すれば、「偉大なる預言者が我らのもとによみがえった」、復活した、イエスは、わたしたちのもとに、わたしたちの中に復活した。そして、「神はその民を心にかけてくださった」、これも文字通り直訳すれば、「神はその民を訪れた」。神はわたしたちを訪れてくださった。

  神はわたしたちを訪れて下さった、なるほど、死が訪れる。だが、その死の群の中にいるわたしたちに、神は訪れて下さる。棺、死者、死がその中心であったこのわたしたちの生、その傍らで、さめざめと泣き悲しんでいる母親がいる、そのように、この生の中心に、そのような悲しみ、不安をどっかりともっている、そこから波紋のように、この悲しみが、不安が群全体を被っていくように、そしてその行く先は、まったくもって墓場、死である!生の終わり、この命の崩壊、それが迫っているこの群、この生活。このわたしの見えるところのこの事実!

  だが、思いもかけず、神はわたしたちを訪れて下さっていた。十字架の主が、わたしたちの真ん中となられていた。この方の憐れみ、いつくしみが、それにも関わらず包んでいる。本当に信じられないことに、思いがけないことに、そして恐れずにはおれないほどに、それがわたしたち、このわたし自身であると言うこと。
  だから、わたしたちも起きあがる、あなたも立ち上がることができる。イエスは息子をその母親にお返しになったように、あなたは、あなたにとってかけがえのないもの、あなた自身を取り戻す。だから最早泣き続ける必要はない、「泣かなくてもよい」、そのような人間としてここにいる。なるほど、わたしたちは確かに泣き崩れる人間。人知れず涙を流して生きている。そしてこれからも人には言えない悲しみを、苦しみを抱いて、この町の門、人生の広場を歩むかも知れません。だが、たとえそうだとしても、その悲しみの向こう、その涙の向こう、遠く彼方にイエスはおられるのではない。だから、わたしたちは、今やあたかもその悲しみの向こうにイエスを見るのではなく、あなたのその悲しみ、その苦しみの真ん中に、キリストの十字架、この方のよみがえりがある。希望!このわたしの中にではなく、わたしの傍ら、わたしの希望はこの主イエスにあるということ。

  だから、「もう泣かなくてもよい」。涙を拭いて、立ち上がることの出来る人間として、この方と共に涙のしみの付いた顔で、神はわたしたちを訪れて下さった、と笑うことができる。イエス、この方が近づいてこられる。だから、あなたは、そしてこんなわたしでも「もう泣かなくてもよい」、主は言われる、「もう泣かなくてもよい」、だが、きっとそのあなたをみつめてい給う主の眼は、真っ赤な眼をして、涙で溢れているのです。そしてそのあふれる涙の中で叫び給うのです、「もう泣かなくてもよい!」みなさん、みなさんも分かるでしょう、この「もう泣かなくてもよい!」は、また涙を知っている、その悲しみを自ら負っている人、涙を流す神だけが語りかけることのできる言葉であることを。

  梅雨、うっとうしい天気 ― でも、わたしたちは、この梅雨がやがて明けることを知っています。今は晴れていなくても、その空が見えなくても、再び空は、青空を、太陽を取り戻すことを知っています。しかし、聖書は告げるのです。それ以上に、あなたの人生に明けない梅雨、曇り空、雨はない、止まない嵐はないのだ、と。あなたはもう一人ではない!あなたはあなたであれ!