2004年6月27日 聖霊降臨後第4主日 「涙の意味」

ルカ7章36~50節

 
説教  「涙の意味」  大和 淳 師
 今日の福音書が、何よりこの物語を通して語ろうとしていること、わたしたちに伝えようとしていること、それは「罪の赦し」です。「罪の赦し」、それがイエス・キリストの福音であり、もっと言えば「罪の赦し」とはイエス・キリスト、イエス・キリストが罪の赦しそのもの、そう言ってもいいでしょう。この女性、「罪深い女」と呼ばれているこの人、恐らくは娼婦であったと推定されているこの人は、そのようにイエス・キリストが「罪の赦し」であるが故に、この方のもとに近づいていったのです。

 ところで聖書が「罪」、そして、その「赦し」を語るとき、わたしどもは注意しなくてはならないことがあります。「罪」、そして、その「赦し」とは、まったく<わたし>の罪、そして、<わたし>の「罪の赦し」なのだ、ということです。つまり、わたしどもは、「罪」というとき、ほとんどそれは「他人」のそれなのです。あるいは自分についてであっても、全くどこか他人事のようにそれを考える自分がいるのです。このファリサイ派のシモンがこの方から離れて立って「これを見て、『この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに』と思った」(39節)と言う、そのようにわたしどもは、他人の罪にはまったく敏感です。まったく他人の罪はよく見える、そう言っていいかもしれません。そうして必要以上に他人を裁いてしまうのです。

 離れて立って。もちろん、自分の罪に真剣に悩む人もいる、いやそういうときがある。どうしようもない重荷、自分の罪をかかえて生きている、そのことに苦しむ。しかし、ここにも危険があるのです。それは、いわば必要以上に自分を裁いてしまう罪、あまりに深刻に捉えてしまう罪です。

 いずれにせよ、わたしたちの中には、しばしばこの深刻である、そのことが判断、行動のいわば基準となってしまうのです。だが、問題が深刻であるということと真剣であるということは必ずしも同じではありません。深刻であるというのは、問題の重大さに心が深くとらわれているということです。このあるシモンのように。その彼の思ったということ、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」、それは、主イエスが、この女の罪をまったく深刻に考えていない、そういう風に言っていると言い換えていいでしょう。この女の罪がどれほど深刻か、この人はそれが分からない、だから預言者ではない、と。こういうことは皆さんも経験があるのではないでしょうか。

 たとえば、大体夫婦喧嘩などは、わたしがこれほど深刻に悩んでいるのに、この人はちっともそれが分かっていない、そう非難を始めるわけです。でも、たとえば夫婦揃って、本当に何かの問題に深刻になってしまったら、恐らく解決は見つからないかもしれない。誰かが、やはり冷静に考え判断できなければ、それこそ一家心中というような悲劇となってしまうでしょう。それは極端だとしても、しかし、この深刻になるとき、わたしたちは、いわばそういう風に深刻になっているということに、いわば酔ったように、それだけ自分は正しく判断しているんだ、まともなんだ、そう思い込んで、他人を裁いているわけです。だから、深刻に振る舞わない人を裁く。しかし、むしろわたしたちは問題を負おうとしない、逃げ出したいからこそ、深刻になるのだ、とそう言えるかも知れません。本当に問題を負っているなら、深刻になる先に、既に行動している、その方が真剣である、そう言えるかも知れません。この女のように。あるいは、そこで本当に自分とは違う意見、理解に、このシモンのように腹を立てたり、非難することなく真剣に耳を傾けることができるのです。

 それで、先ほどのファリサイ派の人、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」、そう思った、それは「これを見て」、そう思ったと書かれていることに注意したいのです。その「これを見て」というのは、この「罪深い」と呼ばれてるこの人の主イエスへの行動、態度を見てということですが、しかし、主イエスは、後で、その彼にこう言う訳です、「そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。『この人を見ないか・・・・・・・・』」(44節)。「この人を見ないか」と。これは大変不自然です。主イエスは「女の方を振り向いて、シモンに言われた」、つまり、主イエスご自身はこの女を見つめて、しかし、その言葉はシモンに、しかも「この人を見ないか」と言われたのだ、と。それはシモンは、この人を見ていないのだ、ということと同時に、この方はまたこのシモンそのもの、ありのままを見ておられるのだ、ということです。と言うのも、この主イエスが、そのシモンに語られた言葉を見てみますと、大変具体的に事細かに繰り返し「あなたは・・してくれなかったが、この人は・・してくれた」と言われています。主イエスは、この人、この罪深いという女だけではなく、このシモンという人、この人にもまたそのもの、ありのままを見ておられるのです。つまり、しばしばわたしたちは誤解してしまうのですが、主イエスは、決して一方的にこの女の人の側に立っているのではないのです。言うなれば、この女の人の方が、シモンより深刻なんだ、そういう風に同情を寄せているわけではないということです。実は、あたかも、主イエスはシモンよりこの女の味方なんだ、そんな風にわたしどもが思ってしまうのは、ちょうど、このシモンが、この女の人を「罪深い女」なのに、そういう風に見ている、それと同じように、今度はわたしたちが、「この人はファリサイ派の人なんだ」、とそういう眼で見ている、つまり、やはり、わたしたちも「この人」そのままを見ていないわけです。しかし、本当に、誰であれ主イエスはありのままに見て、そして、ありのままに受け入れておられるのだ、そう言うことが出来るわけです。本当に誰に対しても真剣に関わるお方なのです。

 けれども、問題は、そのありのままということ、主イエスがありのままに見てくれているということです。そのありのままのわたしたちとは?そのことがここで主イエスは譬えで語られる訳です。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンの借金があった。そういうところからこの譬えは始まっています。わたしどもは、この額の大きさにどうしても注意がいきがちです。やはり、五百デナリオン、その方が深刻である、と。そして、更になるほど、「二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」、この問いに「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」、そうシモンは答えると、主は「そのとおりだ」と言われているからです。

 けれども、まず第一に、この主イエスの問いは、すでに「二人のうち、どちらが多く罪があるか」、そうは決して問うていません。そうではなく「どちらが多く愛するか」、そう問うておられる。そして、もっと肝心なこと、それはこの譬えの中心は、「二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった」、ここにあるということです。つまり、五百デナリオンであれ五十デナリオンであれ、ともかく、二人ともそれは返せなかったのだ、ということ。いわば、金貸しの立場から言えば、どちらも借金を返せない、つまりどちらも罪を負っているわけです。しかし、この金貸しは、何と驚くことに、二人とも「返すことが出来ない」、ただそれ故、帳消しにしてやったのだ、というのです。わたしどもは、比べれば、五百デナリオンの借金のある人の方がよほど深刻だ、つまり、五十デナリオンの借金の人よりよほど貧しい人間のように思ってしまうわけですけれども、「二人には返す金がなかった」、これが事実である限り、この金貸しから見るなら、むしろ、五十デナリオンの借金の人の方が、何と言っても額が少ないのだから、本当なら五百デナリオンの人間より返し易いはずなのですから、それなのに返せないということは、むしろ五十デナリオンの借金の人の方が五百デナリオンの人間よりもっと貧しいとも言えるわけです。つまり、どっちが深刻かで言えば、どちらも劣らずそうだけれど、その五百デナリオンから比べれば、その十分の一の五十デナリオンも返せない人間の方が今、この今よっぽど深刻な状態にいるのだ、と言えるかも知れない。しかし、主イエスはそういうことは一切問わない。ひたすら、どちらも返せなかった人間、そして、しかし、それが故に、赦されている人間として、つまり、まさにそれがありのままのわたしであるということ、そしてその罪、欠けもひっくるめて、いやむしろその欠けのゆえに自分を愛してくれる、そのようなお方としておられるのです。  だから、この女の人、だから、この主イエスのそばに近づこうとした。近くにいることを願い、それがかなって泣いた。この主イエスの傍らで自分自身である悦びを味わったのです。「生きる力」は、生きる喜びからしか得られません。そして生きる喜びは、自分自身である悦びなしに味わうことはできないのです。そして、生きる喜びとは、結局のところたった一つ、愛することができる悦びです。「この人を見ないか」とは、シモンへのその喜びへの招きなのです。

 星野富広さんのこんな詩があります。「いのちが 一番大切だと/思っていたころ 生きるのが苦しかった いのちより大切なものが/あると知った日 生きているのが嬉しかった。」短い詩ですが、改めて読みますとまず「いのちが 一番大切だと/思っていたころ」という一言にはっとさせられます。「いのちが 一番大切だと思っていた」、当たり前のように、日々そう生きようとしている自分がいるからです。そして、「いのちより大切なものが/あると知った日」、「いのちより大切なものがある」、このことが更にまたハッとさせられるのです。「いのちより大切なものがある」、わたしどものこの日々、「いのちより大切なものがある」、「いのちより大切なものがあると知った」、星野さんはそう歌います。わたしは本当にそのこと、いのちより大切なものがあることを知っているだろうか、と。しかし、それよりもっと大事なのは星野さんは「いのちが 一番大切だと思っていたころ」、それは「生きるのが苦しかった」と言っていることです。だが、「いのちより大切なものがあると知った日」「生きているのが嬉しかった」。星野さんのこの詩は「生きるのが苦しかった」、そして「生きているのが嬉しかった」、「生きる」と「生きている」と言葉が変わるのです。それは自分の命が一番大切だと、自分で生きていると思っていたとき、生きることは苦しかった、しかし、「生きている」、「いのちより大切なもの」によって生かされている、そのことを知ったとき、その傷だらけの自分、一人で生きているのではないその自分が「生きているのが嬉しかった」、そういう思いが伝わってきます。これが、この女の人の涙の意味なのです。わたしにいのちより大切なものがある、既にある、それによって、あなたが既に生かされている、喜びがある。

 もう一つ、「この人を見ないか」とシモンに言われておられること、そこで見逃してはならないもう一点があります。それは、この女のしたことにしろ、そしてまた、シモンのしなかったことにしろ、そこで挙げられているのは、「わたしにしてくれた」「わたしにしてくれなかった」こと、つまり、ともかく一切、この方、主イエス・キリストに対してしたこと、またしなかったであるということです。したことにしろ、しなかったことにしろ、そのわたしたちの一切はことごとくこの方にしたこと、しなかったこと、そのようにわたしに相対しておられる方なのです。そうだとすれば、どんな小さなことでも、この主イエスの感謝として、悦びつつしていく、わたしたちのこの人生、生活に一切無駄なものはないのです。主が必要としてくださるのです。

 主イエスは「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる・・・」、そう言われています。主イエスを愛する、それはまことに「いのちより大切なものが/あると知った日 生きているのが嬉しかった」ということ、つまり、主を愛するとは、また自分に対して希望を持つことだ、そう言えるでしょう。今自分たちが置かれているまわりの状況がよいから生きているのが嬉しいのではない、希望を持つのではない。それは良いときも悪いときもある。いや、実際にはいつもそれが混在している、そう言えるでしょう。暗さもあれば明るさもある。「いのちより大切なものが/ある」、つまり、わたしはこれほどに赦されている、愛されている、その信仰を欠いたとき、いつも暗さだけを感じる夕方の生活となる、「生きるのが苦し」くなる。しかし、「いのちより大切なものが/ある」、わたしは赦されている、愛されている、その信仰に立てば、朝、まだ暗い、しかし光があるように、朝のように生きる。主を愛するとは、そういうことです。それで、最初に、問題を深刻に、必要以上に深刻に考えてしまうということを少し申しましたけれど、このことから言えば、それは実はわたしたちにとって申告なのは問題の大きさというより、結局は信仰の、いや不信仰の大きさの問題である、そう言い換えていいでしょう。

 主イエスは最後にこの女に、「『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と言われた」と言います。宮沢賢治が、死ぬ10日前に友だちへの手紙に残したというこんな言葉を思い起こすのです。彼はこう言うのです、「いく時間も続けて大きな声で話をするとか、風が吹く野原の中を歩き回るとか、月々働いたものの中から五円だけ(これは大正時代の五円ですが)家族を助けるとか、このようなことは、できる人にとってはなんでもないことのように思われるでしょうが、すでにそれができなくなった人間にとっては、神わざのように思われます。そういうことがわからないようでは、人生がわかったとは言えません。どうかあなたの生活をたいせつにしてください」。  赦されていることを知るとは「いく時間も続けて大きな声で話をするとか、風が吹く野原の中を歩き回るとか・・・」、そういう何でもないことができるということに涙が出るほど、本当に大切に思える、そういう風に自分の生活をたいせつにしていく。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」、それは、あなたにはこれからも良いときも悪いときもある。いつもそれが混在している。暗さもあれば明るさもある。嬉しいこともあれば腹の立つこともある。けれど、何よりまずあなた自身がこれほどに赦され、愛されている、だから安心して、どうかあなたの生活をたいせつにして行きなさい、そういうわたしたちへの約束なのです。自分の生活をそのように大切にできる人間こそが、また他者を愛する、たいせつにできるのです。あの人もこの人も、額の違いはあれ、でも等しくただ返すことができないが故に愛されている、赦されているのですから。