2004年7月11日 聖霊降臨後第6主日 「先立つのは愛」

ルカ9章51~62節
大和 淳 師

今日の日課は「サマリア人の村」での出来事、そして「別の村」での出来事の二つの物語を一緒に読むのですが、まずその書き出しは「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(51節)、そのように始まっています。この新共同訳聖書は丁寧に意訳されているのですが、ちなみに原文は直訳しますと、「彼が取り去られる日が近づいたとき、彼は、エルサレムに行くために彼の顔を向けた」、つまり、主イエスは、ご自身の十字架の日が近づいたことを意識され、それ故、「彼の顔をエルサレムに向けた」、顔を向ける、というのは、新共同訳が訳したとおり決意を固める、エルサレムに行く固い決心をしたことを意味する、実は大変強いヘブル語的表現なのですが、この「彼の顔」という言葉がこの後の文章でも繰り返されます。52節の「そして、先に使いの者を出された」も直訳すると、「彼の顔の前に使者を遣わした」であり、53節「イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである」は、「彼の顔がエルサレムに向けられていたから」。つまり、そうしてルカ福音書は、どれほどイエスがここで固い決心をされているかを読者に知らせているわけです。並々ならぬ決意だということ。だから、この最初の物語において、「サマリア人から歓迎されない」、新共同訳にはそう言う標題、小見出しがついていますが、ルカは、ここで、サマリア人がイエスが村にはいるのを拒んだのだけれど、それは「彼の顔がエルサレムに向けられていたから」だ、エルサレムに向かう決心、ご自身の死、十字架への固い決心をされていたからだ、そういうことを強調しています。つまり、サマリア人が拒んだのは、エルサレムに向かう、この主イエスの決心の故であったということ。そのことから、54から56節の弟子たちの発言が起きてくるのです。あらためて読みますと、「弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、『主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか』と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。」(54-56節)

それでこの弟子たちが、ここでそういう風に主イエスに提案したということ、これは大変びっくりするような提案と言えます。ある意味で、この弟子たちは実に敬虔とも言えるほど、単純に神の、主イエスの力を信じています。イエスが望めば、自分たちは、こんな村の一つや二つ、滅び尽くすことが出来るんだ、と言うわけです。それで、この新共同訳聖書でははっきりしないのですが、原文を直訳しますと、ぎこちない文章になりますが「天からの火を降らせて、彼らを燃やし尽くすことをわたしたちが言うのを、それをあなたは望みますか?」、つまり、ここで弟子たちは「あなたは望みますか」とそのように主イエスの意志を問うているのです。

最初に申しましたように、ここで主イエスのお顔がエルサレムに向けられたということ、やがてはっきりするのですけれど、弟子たちは、それは主イエスがメシアとしてエルサレムで何か栄光の座に着く、その決心をされた、そういう風に思い込んでいたということでしょう。だから、それを阻む、拒んだこのけしからぬサマリヤの村、それは焼き滅ぼされてもいいのではないか、そういうことでしょう。ともかく、それがあなたのご意志でしょう、弟子たちはそう問うているわけです。しかし、主イエスはその提案を拒否します。55節「イエスは振り向いて二人を戒められた。」この「戒められた」という言葉も大変強い言葉で、叱りつけたと、実に厳しく戒められたという。つまり、ここでイエスの怒りは、サマリヤ人ではなく、この弟子たちに向けられたのです。

ともかく、サマリヤ人は非がある、悪である、弟子たちはをそう思っていたわけですが、しかし、主イエスはサマリヤ人を裁かない、サマリヤ人を悪としなかった、むしろ、他者を裁くご自分の弟子たちを悪としたということ。福音書は、それが、主イエスのご意志である、そのことが明らかにされます。わたしたちは、さしあたってここで正義ということを考えさせられると言っていいでしょう。そして、主イエスはわたしたちの持つ拠り所、その「正義」としてあらわれるものを厳しく戒められる、放棄することが求めているのです。何故でしょうか?

今日、丁度今日参議院選挙の日ですけれど、連日、新聞マスコミが取り上げる政治経済の混乱、無秩序、まさに正義の失われた社会のように言われます。そのこの国を救うものは一体何なのか。正しいことが正しいとされ、悪が悪として裁かれる、そのように私たちの間で正義が行なわれることである、多くの人がそう思っていると言っていいでしょう。それがない故に、わたしたちは怒り、憤る、あるいは、救いようのなさに絶望したり、また諦めたりしているだ、と。実に悪人が栄え、正しい者が見棄てられるかのように、この現実を感じてしまうわけです。悪を放置していいのか、ここで、弟子たちが提案していること、それは、まさしくそういう問題であると言えるでしょう。

そもそもそのような私たちの拠り所としている「正義」とは何か。私たちが、現実に、先のように、社会悪や不正に対して、悪に対して、正義を考える、そこでは、実は、正義を結局力の原理によって考えていると言えます。まさにこの弟子たちの提案、それは少々極端な提案ではありますが、実に、わたしたちは、正義を力の原理によってしか考えられない、そういうことを語っていると言えます。
ともかく、この弟子たちの提案が背景にしているのは、その極端さはともかく、力をもって報いるということに他なりません。主イエスよ、あなたはその力をもっているでないか、ということ。神の力の支配を望む。しかし主イエスは力に対して、力をもって報わなかった。それがイエスの固い決意であった。

正義とは、わたしどもにとってはそのように第一に力の問題となるのです。わたしどもが現実に感じている、悪に対する、正義に対する焦躁感、それは、悪を悪として裁く力に対する、正義を正義とする力に対する期待、待望です。力の原理によって考え、頼っているということ。この選挙でも、そう言う論理が、生き方がまさにむき出しになっています、あたかもそれだけが政治であるという風に。
そもそも、わたしの子ども時代のヒーローであったのは月光仮面ですが、月光仮面や鉄腕アトムから始まって、昔からあるこどものヒーロー、正義の味方は、端的に力でした。最近は、どんどんそのテレビなどのいわゆる「正義の味方」の力はエスカレートして、どっちが、悪だか正義たか分からないほど残虐な場面が展開されることがしばしばですが、それは、悪が、単に弱い悪であっては、現実にはこどもたちに訴えるものがないからでしょう。それ故、悪がますます力をつけていく、それに従って、当然、その悪を克服する正義も、それ以上に力を持たなければならない、そういう意味では、子ども番組というのは、大人社会のいわば縮図ですから、そうして正義が、より力を持つもの、力の権化と化していくわけです。つまり、正義と悪は、結局力の優劣の問題であるが故に、結局、最終的には、見分けがつかなくなるまで、エスカレートしていくわけです。だからそれは何も子どもの番組だけに限らない。時代劇とか、あるいは、いわゆる刑事を主人公とした大人の番組でも同様です。何故そうなるのか。もちろん、社会的な、われわれの時代の価値観の変容とか、そうした時代の反映と言えるのだけれども、しかし、いずれにしても、結局は、いつの時代も変わらないのは、悪も正義も、それは力の原理、本質的に、そこにあるということです。いつの時代も、この世はこの力の原理によってきたと言えます。力のない、無力な正義は考えられないのです。そのような現実主義。テレビの水戸黄門の印篭が端的に象徴するように、正義とは権力、力でなければならない。安心できないのです。もちろん、そのようなわたしたちも愛すること、互いに信頼し合い、愛することの大切さは知っています。しかし、悪に対してまず排除、裁き、それが先立たねばならない、そう考えるのです。それで非を認める、悔い改めるなら許してやっていい、と。力が先立つ正義です。

それで、一歩踏み込んで、このイエスの出来事を通して明らかにすることは、わたしたちは、今や、この聖書の前で、そのような力の原理ではなく、全く力の原理以外のものによって生きる、そのような生き方があるということです。イエスの決意とは、今や、そのような力の原理とは全く異なるものであるということ。しかし、私たちの眼からは、すなわち、力の原理によって考え、力の原理を拠り所として生きる私たちからは、このイエスの道は、まったく無力な、従って、愚かな、役に立たないものに見えるのです。
そのイエスの道 ― 力の原理によって生きる人間が、役に立たない、愚かしいものとして、侮り、見棄てたもの、それが、キリストの十字架です。聖書は十字架こそ、神の義であることを明らかにするのです。主イエスは、今やそこだけにはっきりとお顔を向けられているのだ、福音書はそう語るのです。

確かに、正しいことと悪とは、全く厳密に区別されなければならないし、裁かれなければならないでしょう。それ故に、キリストは、その悪を、御自分に担い、十字架において、人間の代わりに裁かれ給うのです。神は、十字架において正しさと悪を峻厳に区別し、悪を裁き給うのです。しかし、神は、十字架において最早正しい人間と悪き人間とを区別し給わないのです。何故なら、あの力の論理、力の原理は、決して人間を、正しいことをなす人間も、悪を行なう人間も救わないからです。力による正義は、決して人間を救わないのです。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26章52節)のです。先立つのは、力、裁きではなく、愛、愛すること。そのようにして悪に打ち勝つ方、それがキリスト、わたしたちの神。

何より主イエスご自身、その力ある方であり給うのに、最早、その力の原理によって、人間に臨まれないのです。それ故、主イエスは、この世からみれば、もっとも無力と、最も愚かになり給う。そのように力を放棄する力、それが端的にこのイエス・キリスト、すなわち愛なのです。この愛だけが、人間を悪から救い、罪から救うのです。
力としての正義を超える正義、神の義、それはただ愛のみなのです。イエスは愛によって悪に打ち勝ち給うのです。そして、それ故にこそ、この力の原理にでしなく、その力の原理以外の義、愛によってそ生きることを、イエスは促し給うのです。それは、私たちがいわば「正しい人間」になろうとすることではありません。そのような敬虔な人間になることではない、そう言っていいでしょう。と言うのも、実にあのヤコブとヨハネ、この二人は敬虔に、そして自分たちこそ「正しい人間」であるとして、そのように神の力、イエスの力を信じているからです。

1999年の春に、コロラド州カロンバイン高校、デンバー郊外のカロンバイン高校で起こった、2人の高校生が学校に爆弾を仕掛け、自動小銃などで生徒と先生13人を殺害し、自分たちも自殺をした事件が起き、全米のみならず、世界中に衝撃を与えました。マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画「ボーリング・フォー・カロンバイン」のきっかけとなった事件ですが、その犠牲者の一人にレイチェル・スコットという女の子がいました。彼らの事件前に作成したビデオの中で、レイチェルは既に名指しで殺したい相手に挙げられていたということですが、それは彼女がクリスチャンであったからと言います。ある日、その2人がフィルムのクラスで学校でみんなが殺されるという内容の映画を作ろうと言い出した時、先生も、だれもそれを止めようとしなかったそうですが、彼女がただ一人穏やかに、しかしはっきりとした態度で、彼らを止めようとしたのだそうです。そして、彼女は彼らの怒りの犠牲となったのです。3発の銃弾が彼女の急所をはずした後、犯人の一人が彼女の髪の毛をつかんで、「これでもおまえは神なんか信じるのか?」と聞いたそうです。しかし、彼女は”You know that I do”と答えた瞬間、犯人は最後の一発を彼女の頭に撃ち込んだのです。

それで生前彼女は「わたしの倫理基準」という題でエッセイの宿題を書いていた。その中で彼女は自分の倫理基準を「正直であり、人の痛みがわかり、すべての人の中によいものを見出す」といっています。そしてこう書いています。「私の基準はみんなのとは全く違うかもしれない。私の基準なんて絶対に実現しないおとぎ話みたいなもんだと思えるかもしれない、けれども、あなたからはじめてみてください。そして、それがあなたの周りの人々の人生にどんな影響を与えるかを見てください。あなたは一つのchain reaction“連鎖”をはじめることになるかもしれないのです」その彼女の言葉どおり彼女は自分の死を通して人々に大きな影響を与えました。そして、今、彼女の両親をはじめ、彼女の教会の牧師や信徒の方々のみならず、そしてたくさんの人々が彼女のメッセージを携えて全米の中学高校を回っているそうです。

ここで今日の後半の物語を駆け足で見ていきたいのですが、デートリッヒ・ボンヘッファーは、ここについて、大事なことは、イエスはここで誰一人、あなたは従ってはならないともあなたは従えないともおっしゃっていないということだと言っています。そしてもっと言えば、ルカは、ここに出てきた三人の人々が結局従ったのか、従わなかったのか、その結果も記していないと。ただここで主イエスは今わたしが持つ、拠り所としているものをまず放棄することを求めているのです。主イエスに従う、それは自分を拠り所としては判断し得ないのです。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」(57節)、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」(59節)「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」(61節)、この三人に共通していることは、そういうことです。しかし、単にそれだけなら、たとえば「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(9章22節)、主イエスは誰に対してもそう答えればよかったのです。もちろん、結局は「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って」いく、そのことが求められていると言っていいでしょう。しかし、主イエスはここでその一人ひとりに違った答え方をされます。それはそれぞれ一人ひとり、違ったイエスへの服従、従っていく道があるということ。何故なら、また人それぞれ違った葛藤を持つからです。力を求め、力のもとに生きている限り、イエスに従っていくことはわたしたちに常に葛藤をもたらすものです。しかし、もう一度繰り返せば、イエスはここで誰一人、あなたは従ってはならない、あるいは従えない、とはおっしゃっていない。むしろ、そういう葛藤の中で、イエスはわたしたち一人ひとりを召し出す。ご自身のchain reactionに召し出す。自分のこと、この世のこと、その狭間にぶつかるわたしたちに声をかけて下さると言うこと。ということは、わたしたちもまた葛藤の中で召し出されている。葛藤があるから従えないのではない、葛藤があるからこそ、イエスはエルサレムへと進み、そしてわたしたちを召し出すのです。レイチェルさんの言葉を借りれば、「けれども、あなたからはじめてみてください。そして、それがあなたの周りの人々の人生にどんな影響を与えるかを見てください。あなたは一つのchain reaction“連鎖”をはじめることになるかもしれないのです」ということ。

それ故、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」、この主イエスの言葉は、何より常に、わたしたちの葛藤、苦しみがこの地上にあるからです。わたしたちが苦しんでいる、悩んでいる、不安に脅えているからです。そこでまた、わたしたちが尚力の原理により頼もうとするから、まず裁きを、そう考え、行動するからです。言い換えれば、思うようにならない生をわたしたちは生きている、そのことを主イエスはよくご存じだ、ということです。したがって、思うようにならない人生を勇気をもって生きる。思うようにならない、そこにわたしたちの苦しみや悲しみがあります。つまり、わたしたちは、この世にある限り、つまりこうして生きている限り、眼に見えるものに縛られている、どうしても手放せないでいる。でも、それが本当にわたしを支えるか、確かなものなのか?
それ故「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」 ― それはこの方の行く道はただ単に十字架の道、苦難の道だというのではないのです。それは、この方は、この地上では、まさに復活の主であり給うということです。誰もが、それぞれに十字架の道、苦難の道を歩む、自分の生の分だけ重荷があるのです。だが、それはただ単に、わたしどもは苦しみを負えばいい、重荷を負うのだ、ただ単にそれだけのことではないのです。そのわたしの苦しみ、重荷がある、そこで、いやそこでこそ復活、この復活の主イエス・キリストに出会うのです。そこでこそ、この方の復活が、わたしの命となってくださるのです。

わたしたちが悲しみにあうのは、あるいは苦しむのは、今まで確かだと思っていた、あるいは、そういう風に頼りにしていたもの、先に正義ということで考えましたが、それだけでなく、たとえば健康であれ、財産であれ、また家族であれ、そういうものが確かではなくなるからです。本当に信じられるものではない、そのことがはっきりしてくるからです。だから、そこで苦しむ、怖れ、不安にかられる、憤ったり、諦めたりする。しかし、わたしたちは、そこでこそこの方と出会っているのです。復活の主、永遠の生命である方の声を聴くのです。何より、その苦しみ、怖れ、不安を、悲しみを、傷みをこの方自身が担われ給うからです。復活、キリストの復活、それは、そのあなたを神は決して見捨て給わない、ということです。この弟子たちのように、何一つ信じることのできないままに、何の条件もなく、そのままに担われてい給うのです。使徒ヨハネは言います、「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです」(1ヨハネ4章18節)。だから、こんなわたしが従えるのか、もうそう考える必要はないのです。パウロも言います、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8章28節)と。勘定は、ちゃんと私の方でする、だから、お前は私だけを見よ、と。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」それは、わたしたちが、この主イエスによって伴われる生であり続ける約束なのです。だから、勇気をもって、このわたしの生を受け入れていきましょう。そう、「けれども、あなたからはじめてみてください。そして、それがあなたの周りの人々の人生にどんな影響を与えるかを見てください。あなたは一つのchain reaction“連鎖”をはじめることになるかもしれないのです」。

最後に、先日、北朝鮮による拉致家族の曽我ひとみさんが、ジャカルタで、北朝鮮に残された家族と再会されたことに触れたいのですが、あの再会の瞬間、家族を抱きしめる曽我さんがどんなに深く、夫を子どもを愛しているか、誰もが深く心打たれたと思います。わたしも涙を禁じ得ませんでした。一方でテレビ、マスコミは、それを引き起こした北朝鮮への憎悪をかき立てるかのように、ニュースを伝えます。でも、わたしは曽我さんが妻として、母として示してくれた、何ものにも消せない深い愛情、それこそ、いつか北朝鮮の人々の心をも動かす、いつか、この国と和解し得るのは、そのような行動だけである、そういうことを曽我さんは本当に教えてくれたと思うのです。愛とは勇気です。制裁、対抗、そのような力の論理が両国だけでなく、世界中に蔓延しています。でも、いつも静かに人を動かし、そして、人を救うのは・・・。みなさん、わたしが、あなたが「一つのchain reaction“連鎖”をはじめる」ために、このお方が「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もなく」今わたしの中で、あなたの中で生きておられるのです。