2004年7月18日 聖霊降臨後第7主日 「先立つのは愛」

ルカ10章25~37節
大和 淳 師

この「よきサマリア人の譬」は、イエスさまの譬えの中でよく知られた譬えのひとつですが、一人の「ある律法の専門家」がイエスに質問したことから、今日の譬は始まっています。この人は「イエスを試そう」とした。その「イエスを試そう」とした、ということが、既にこの人が、その律法・聖書をどのように受け止めていたのかを告げています。彼は「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と、「永遠の命を受けるために何をすべきか」と問います。ところが、主イエスは「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と、逆に問い返された。そして、「彼は答えた。『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」しかし、それに対して、「イエスは言われた。『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる』」、そうお答えになる。ここで共同訳聖書では「そうすれば命が得られる」、そう訳されています。しかし、これは、原文を直訳すると、「適切にあなたは答えた。それを実行しなさい、そうすればあなたは生きるであろう(実際、英訳聖書では”You have answered correctly; DO THIS AND YOU WILL LIVE.”)」となります。つまり、この人は、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と問いましたが、イエスはそれに対して、「それを行えば、永遠の命を受ける」と言うよりも「そうすれば、生きるであろう」、まるで、今主イエスの目の前にいるその人が死にかかっている病人であるかのように、つまり、この譬の中の「追いはぎ」に出会って「半殺し」にされた人であるのように、そう言われるのです。ともかく、この「生きる」、生きるため、イエスの語り給うことは、そこに向けられています。

さて、そのように主イエスに言われて、この人は、「彼は自分を正当化しようと」、「では、わたしの隣人とはだれですか」と再び問います。隣人を愛する、それが実に正しい答えだと、彼は主イエスにそう評価してもらったわけですが、ともかくそれで彼は喜べなかった。尚彼は問わねばなりませんでした、「わたしの隣人とはだれですか」と。主イエスは無条件で、彼の答えを正しいとし、無条件でそれを行え、と言ったからです。彼は主イエスによって根本から揺り動かされます。それ故、彼は言うのです、人間の愛には限度、限界がある、いや、限界をひかねばならない。「イエスよ、そうは言っても、隣人を愛するということにも限度・限界はあるでしょう?」、イエスの前で、彼はそう自分を正当化しようとするのです。イエスは、その彼を見つめておられます。
それで、ここで全く正面から語られてないことがあります。最初に主イエスに、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問われて、この人は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」(27節)と、神を愛すること、そして隣人を愛すること、この二つのことが最も大事なことなのだ、ということを答えたわけです。そうして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と再び問うのですけれど、しかし、彼にとって、第一のこと、神を愛することは問題にならず、ただ、第二のこと、隣人を愛することだけを問題とするわけです。つまり、「では、わたしの神とはだれですか」とは問わない。それは分かりきったことだったからと言えば、そうかも知れません。でも「では、神を愛するとはどういうことですか」、本当は、このことは決して分かりきったことではない。むしろ、この人は本当には神を愛することが分かっていない。いや実は、彼は神を知らない、「神を愛する」ことを欠いている人間なのだ、福音書はそれを描いている。だから、真っ先に「では、わたしの隣人とはだれですか」と問うのだ、と。何故なら「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」 (1ヨハネ4章8節)。つまり、「自分を正当化しようとして・・・・」という、このことが、実は、「神を愛する」ことを欠いている人間であることのしるしである、と言っていいでしょう。「神を愛する」ことを欠いているが故に「自分を正当化しようと」する人間なのです。
それで、このイエスの前で、自分を正当化しようとする人間、それはまた生身のわたしたちであると言えるかもしれません。わたしたちが、隣人を愛せない、なかなか愛せない、そう思っている、それは自分を正当化する、そのことに関わっていると言っていいでしょう。つまり、これで結構人前では隣人を愛する、そういうこともする人間である。困った人を助けたり、配慮する、そういうこともできる人間、そんな風に自分を正当化している、英語では、この言葉はjustify himselfと訳されているように、自分で自分を正しいとする、義とする、そう言う言葉ですけれど、もっと砕けて言えば、自分で自分を良い人間とする、そういうことだと言っていいでしょう。これで自分は結構良い人間なのだ、そう自分で思っている、あるいはそうふるまうこと。それ自体、別にそれほど罪なことではない、大した問題ではないように思えるかも知れません。けれど、先ほど述べた神を知らない、「神を愛する」ことを欠いている、そのとき、この自分を正当化することが起こる。そして、それはあなたは気づいていないけれど、実に本当は深刻な事態なんだということ、それが明らかにされていきます。何故なら、自己正当化は、結局自分が傷つくことを恐れている、そんなことをしたら「生きられない」、そう思うからです。失われることを恐れる人間、だが主は言われます、あなたは生きる!
そもそもこの物語が、どういう背景にあるのか、はっきりしませんが、いろんな人がいる前で、この人はイエスに問いかけたのだろうと思います。つまり人前で、神ではなく、あの人、この人の前で良く思われたい、そういうことで、結構人間は一生懸命になれる。人に良く思われたい、そう言う一心で、結構これで人間は人に親切になれる。でも「誰も見ていないところではどうなのか」、つまり、神のみが見ておられる、隠されたところを見ておられる神。イエスのこの話は実はそこに向けられているものなのです。つまり、「神を愛する」、そのことが問われる場所を示すのです。
つまり、まさに一対一で、誰も見ていない、そう言う意味では、この祭司やレビ人のように、傷ついた人を見て、まさに「道の向こう側を通って行った」、通り過ぎていくことができる場所、そういうところです。この「エルサレムからエリコへ下って行く」道というのは、その間にはワデ・ケルトの峡谷があり、大変険しく、また人通りのない寂しい道なので、そういう道ですから、実際しばしば強盗も出没したと言います。ともかく、そういうところでは見て見ぬふりをしても、相手も気づかないし、誰にも分からない、まさにそういうところで、のことです。更には、彼らが祭司やレビ人であったということは、たとえば、彼らは神殿に仕える者として、レビ記21章1節の戒めにあるのですが、死人に触れて身を汚してはならないという掟もあったのですから、それを理由にして、「道の向こう側を通って」行った、そう抗弁することもできるのです。そういう風に、誰も見ていないところで、誰も見ていないと思うからこそ、自分で自分を正当化し得る、していく。つまり、人間いくらでも言い訳、自己正当化できるのです、神をぬきにすれば。この「道の向こう側を通って行った」、祭司もレビ人にも、「道の向こう側を通って行った」、としつこいように繰り返されています。何より、それは、あの「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、その神への愛を避けて通っていく道、神を通り過ごしていく道なのです。それが「自己正当化」の道なのです。
それでこのサマリア人について見てみましょう。ここで主イエスは非常に具体的に事細かにサマリア人がしたことを描いています。それは確かに、隣人愛そのものの行為です。しかし、それは何より、あの「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」を思わせます。サマリア人は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして」、この追いはぎにあって死にかかった人を助けるのです。更にもう一つ大事なのは、このサマリヤ人は、宿屋の主人にお金を渡してこう言っていることです。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」つまり、このサマリヤ人は、彼が癒えるまで、自分の仕事を放り出して、つきっきりで看病したと言うのではないのです。彼は、むしろ翌日、自分の仕事、商いに戻っていきます。彼はただなし得ることをなし得るままにしたに過ぎないのです。「隣人を自分のように愛する」、つまり、わたしたちが、この自分を離れて、なくして、いわば神のごとくなって、今より向上した人間になって愛するのではないのです。まさに「自分のように」、この不完全なわたし、この「自分のように」、したがって、わたしがわたしであるがままに、この限界そのものの中でなすことなのです。完全な愛、完璧な愛が要求されているのではないのです。だから、その限界のある「自分のように」であることを正当化する必要はないのです。
ですから、大事なことはただ一つです、「道の向こう側を通って」行かない、ただそれだけです。わたしどもは、このサマリア人の至りつくせりの行為に眼を止めてしまいます。そうして、「行って、あなたも同じようにしなさい。」というイエスさまのお言葉にひるむ、自責の念にかられていくのです。しかし、先に見たように、その彼も、自分のなしえることをしたに過ぎないのです。「あなたも同じように」、というそれは、「道の向こう側を」通り過ぎない、ただそのことだけ、「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると・・・・・」、傍に寄ったことだけです。そして、彼は寄り添えるだけ、その人に寄り添ったのです。もちろん、傍を通り過ぎない、そのことも決して簡単なことではないかも知れません。なぜなら、人間は本来、自己中心的に、自己正当化して生きようとするものだからです。愛とは、自分が求めているものを、あえて相手に差し出すことです。
ここでふと気づいたことがあります。「行って、あなたも同じようにしなさい。」というこの主イエスの言葉を、わたしは何の疑問もなく、あなたも行って、このサマリア人と同じようにしなさい、ただそのようにだけ理解していました。もちろん、それが第一の意味であると言っていい。でも、あえて、ここで<サマリア人と同じように>と言わずに、ただ「同じように」と、そうおっしゃっている。そこには、そのように傷つくことを恐れているわたしたちに、あえて、傷つくことを恐れるな、あなたは何も失われない、あなたは生きるだろう、そのような招きが含まれているのではないか。傷つくわたしたちを待っているのは、恐ろしい孤独ではない、わたしたちは傷ついたら見捨てられてしまうのではなく、そこでこそ、わたしたちは真のよきサマリア人に出会う、わたしに寄り添い、傷を癒し、手厚く包帯を巻いてくるサマリア人、すなわち、主イエス・キリストと出会うのだ、そういうことではないか、と。すなわち、あなたは生きる!主はそう言われ給うのです。それは、だから、あなたはわたしと共に生きる!そういうことです。
それで、最初に、主イエスに質問した「ある律法の専門家」は、神を愛すること、そして隣人を愛すること、この二つのことが最も大事なことなのだ、ということを言い、それに対して、主イエスは「適切にあなたは答えた。それを実行しなさい、そうすればあなたは生きるであろう」、そう言われた。けれども、この人は「神を愛する」ことを欠いて「では、わたしの隣人とはだれですか」と問うたということをお話ししました。ここで、この何よりその「神を愛する」、そのことが語られてくるのです。
それは何よりこのサマリア人を通して示されます。先も言いましたように、このサマリア人は、傷ついた人に何も言わず、後は宿屋の主人に託して去っていきます。自分がこの人を救うのだ、救わなければならない、そういうことから自由なのです。ただなし得ることをした上で、誰にもありがとうを言われることなく、自分の仕事に帰って行く。委ねていく。自己正当化することなく、まるで後は神に委ねるように、自分のなし得ること、自分の限界に留まる。そこに神を愛する姿がある。いや、本当にそこで、一対一で神さまに愛されている、支えられているからです。ここでもう一度、今日第一朗読で読んだ申命記の言葉に耳を傾けたいのです。「それは天にあるものではないから、『だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。海のかなたにあるものでもないから、『だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」(申命記30章12-14節)
だから、この主イエスの招きを心に留めてここから出て行きましょう。「行って、あなたも同じようにしなさい。傷つくことをもう恐れなくてもよい。あなたは何も失われない、あなたは生きるだろう!」