2004年7月25日 聖霊降臨後第8主日 「<だけ>から<も>のわたしへ」

ルカ10章38~42節

 
説教  <だけ>から<も>のわたしへ  大和 淳 師
  今週もルカ福音書の物語の中ではよく知られているマルタとマリアの姉妹の話です。自分の家に来られた主イエスの「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」姉のマルタが、何もせず主イエスの「話に聞き入っていた」マリアに腹を立て、「主よ、わたしの妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」、そう主イエスに訴えた。訴えたと言うより、マルタは明らかに主イエスに対しても腹を立て、非難しているわけですけれど、しかし、主は「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」とお答えになったという大変短いこの物語ですが、それで、ここで主イエスがおっしゃった「必要なことはただ一つだけ」ということ、これはよく奉仕と御言葉を聞くことを対比して、御言葉を聴くことが無くてはならないことだ、と、イエスはそう言っている、そう解釈される訳です。つまり、主イエスはご自分の「話に聞き入っていた」マリアをかばい「立ち働いていた」マルタを諫めた、そういう風に。でも、ことをそう単純に理解してしまっていいのでしょうか?むしろ、問題は、御言葉を聞くことか、奉仕かということにあるのではなく、ここで大事なのは、何よりマリアに、そして主イエスに対しても不満をぶちまけざる得なかったこのマルタを、主イエスがどう受け止めておられるか、見ていらしたかでしょう。  とは言え、そもそも、10章1節に「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」とあり、その72人は17節で帰ってきていますから、そうすると、主イエスの一行は少なくとも百人近い人たちがいたことになります。つまり、限度を超えた数の人びとを客として迎え入れたマルタは、決して心の狭い、利己的な人であったので

はありません。わたしは4月に行ったおこなった献堂式のことを想い出します。たくさんの来客をもてなす、迎えるために婦人会の方々が、まことに、まさに「せわしく立ち働いて」いました。そうした苦労を、また奉仕を主イエスがお分かりにならない、お認めにならないでしょうか。ところが、マルタは、「接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った」(口語訳)、、マルタは忙しさに心をとりみだしてしまった訳です。
  それで、あらためて、このマルタの言っていることをみますと、彼女は「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。」、まず、そう主イエスを非難するのですが、ここで「わたしだけにもてなしさせて」と<わたしだけ>と言う訳です。
  それで、この<わたしだけ>、これは等しくわたしたち一人ひとりにもあることではないでしょうか。わたしだけ、わたしひとりがやっている、わたしひとりだけにやらせておいて、あの人は、この人は・・・・・、家庭の中で、仕事場や、学校で、そして教会の中で、そう思って憤ってしまう。しかし、そもそもそういうわたしどもがしている奉仕、働き、それは、わたしどもが最初はほとんど<わたしも>したい、させて欲しい、そういう思いではじめるわけです。わたしも何かしたい、わたしもできることがあれば、と。マルタも、<わたしも>主イエスや、その一行のためにもてなしたい、そういう思いで働き始めたのでしょう。しかし、まことにせわしく立ち働くうち、何で<わたしだけ>が、そうなってしまう。<も>から<だけ>に<わたし>がなってしまう。もっと正確に言えば、<わたしも>したいから、<わたしが>した、している、そうしてこの<わたしだけ>となってしまう、そういうこと。
 
  それで、ちょっと横道にそれることになりますが、旧約聖書の列王記上19章にこういうことが記されています。そこは、預言者エリヤの異教バアルの預言者たちとのすざましい最後の戦いが記されているのですが、異教バアルの預言者をことごとくやっつけたエリヤは、しかし、そのバアル神を信じるイスラエルの王アハブの妻イゼベルの怒りに触れて、荒野に、そして山の中にひとり逃げ込みます。そうして、エリヤは精根尽き果ててしまうのですが、そのとき、主なる神が「エリヤよ、ここで何をしているのか」(列王上19章9節)、そう彼に問いかけた。そして、エリヤはこう答えるのです。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています」(〃10節)。つまりエリヤもそこで「わたし一人だけが」と、<わたしだけ>しかいない、と言ったというのです。確かに彼はただ一人と言っていい、孤独の戦いをしてきたのです。たとえば、列王記上18章22節には、「エリヤは更に民に向かって言った。『私はただ一人、主の預言者として残った。バアルの預言者は四百五十人もいる・・・・』」と、そう言っています。エリヤはまさにそういう戦いを生涯してきた人でした。しかし、ここでそのさしものエリヤも遂に疲れ果て「・・・自分の命が絶えるのを願って言った。『主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。』」(列王上19章4節)、そう言うのです。
  しかし、そのエリヤに対する神の答えはいささか厳しいのです。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と。神は、お前一人ではない、わたしは七千人も残してある、と言うのです。それはこういうことです、エリヤよ、おまえはそういうが、おまえは七千分の一だ、と。これはある意味で厳しい言葉です。つまり、あなたはその七千分の一に過ぎないのだということになります。しかし、けれども、それは本当は真に神のユーモアに満ちた、エリヤへの励まし、慰めの言葉なのです。と言うのは、聖書の七は完全数で、また千という数は膨大な数を象徴するのですが、そして、その後、列王記には、いよいよそのような七千人が実際に登場したという訳でもないので、それは完全なる圧倒的多数が働く、したがって七千とは、途方もない膨大な力という意味ですから、この七千とは、まさしく神の力に他ならない、したがって、お前はわたしの七千分の一に過ぎないという以上に、エリヤは確かに七千分の一という圧倒的小さき、いわば七千からみれば取るに足らないような存在である、しかし、そのエリヤが小さければ小さいほど、しかし、あなたは七千分の一、その神の圧倒的力の中の一、その神の力の中の一人だ、あなたはあなたの七千倍の力の中にあるということです。それ故、エリヤ ― そこで「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」と絶望しきっていたそのエリヤは、再びそこから立ち上がるのです。一人最後の戦いに出ていきます。彼は本当に、この主の言葉によって、ひとりに立てた。七千分の一、神の七千と共にある一として立っていったわけです。
 
  さて、今日の福音書に戻りますが、「主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。・・・・」(41節)。イエスは、そうマルタに呼びかけています。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と。つまり、それはこういうことです。マルタよ、おまえは<わたしだけ>というが、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱しているに過ぎないのだ。おまえ自身を失っている。たったひとり、ただ一つの自分を受け入れられなくなっている」と。そして「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(42節)。この「必要なことはただ一つだけ」と主イエスがおっしゃている。それは、必要なものはただ一つ、失ってはならないただ一つのこととは、それはマリアから取り上げてはならないように、マルタよ、それはあなたも失ってはならないあなた自身なのだ、ということではないでしょうか。あのエリヤの七千分の一のその一であるということ。神、主のみ前でその一である「汝自身であれ」「あなたはあなたであれ」と。
  そして、この「マリアは良い方を選んだ」は、「マリアは」自分にとって、彼女にとって「良い方を選んだ」ということです。イエスは、マルタにそう語りかけている。マリアはマリア、あなたはあなた、かけがえのないあなたなのだ、と。イエスは、もてなし、奉仕に追われているマルタをしっかりと見ておられるのです。つまり、あのエリヤへの七千分の一というように、何よりこの方イエス・キリストが、わたしの七千なのです。<わたしだけ>ではない、<わたしも>なのです。
  だから、奉仕より御言葉だ、と主イエスはおっしゃっていない。つまり、どっちが大事かという問題ではないのです。あなた<も>このイエス、主と共にある。それは言い換えれば、わたしたちが日々選び取ること、わたしがなす一つのこと、わたしたちはいつも一つしかなし得ない。しかし、それはいつも神の七千分の一、そうたった七千分の一、でも神さまの七千分の一なのです。決して<わたしだけ>、<だけ>なのではない。そこから御言葉を聞くことも、奉仕、活動も生まれるのです。だから、むしろ、この主イエスのおっしゃっていることから言えば、マリアとマルタに優秀をつけるな!自分と他者を比べるな。他者を自分と比べるな。主イエスの前であなたはあなたであれ!あなたはわたしの七千分の一だ、ということ。わたし<も>七千分の一!
  だから、まことにわたし一人、そういときもある。誰からも顧みられないわたしであり続けなければならないときもあるのです。たとえそうであっても、あなたは、いえあなたも主の七千分の一なのです。何故なら、実際、このマリアもやがて御言葉を聞けない日が来るのです。マルタももてなしが出来ない日が来るのです。二人はどうしようもなくさめざめとその下、十字架の下で泣かなければならない日が来る。もう来ているのです。そのとき、この方、主イエスは弟子たちにこう言われたことを、ヨハネ福音書は記しています、「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」(ヨハネ16章32節)。主イエスは「あなたがたが<わたしだけ>にする時が来る。いや、既に来ている」と端的にそう言われます。それは、まさに弟子たち自身が、<わたしだけ>、自分だけ、そのような姿をさらした時ではないでしょうか。それは、またこのマルタが<わたしだけ>、そう言う人間になった時なのです。しかし、それは何より、主イエス・キリストご自身をわたし<だけ>に、「あなたがたが<わたしだけ>にする」のです。しかし、このお方はその中で、何よりご自身この<わたしも>に、神さまの七千分の一になられ給うのです。
  それ故、「しかし、必要なことはただ一つだけである」、それは御言葉を聞くことか、奉仕か、そのように主イエスは問うているのではないのです。あるいは、マルタを否定しているのではないのです。むしろ、マルタを積極的に肯定しているのです。あのエリヤへの神さまの答えのように。マリア<だけ>、マルタ<だけ>でない。マリア<も>、マルタ<も>なのです。多くの人が、ここで、この物語を読むと忘れてしまうことがあります。気づかずに思ってしまうことがあります。それはマリア<だけ>があたかも主イエスのみ言葉に耳を傾けたかのように考えるのです。しかし、マルタ<も>その奉仕のただ中で、主イエスのこのお言葉を聞いているのです。「マルタよ、マルタよ」(ただ一回マルタよ、ではなく、二度彼女に呼びかけている ― それはすでに、主イエスがマルタに対してどんなにいたわっておられたか、そして、決して彼女を忘れ去ったり、ないがしろにしていなかったことを物語っています)、そのように呼びかけられているのです。マリア<も>マルタ<も>、主イエスのもとにいるのです。
  あるいは、こう言えるかも知れません。マリアのように主イエスのみ言葉に耳を傾ける時がわたしにも、<わたしも>あるのです。必要なのです。礼拝です。「主の足もとに座って、その話に聞き入」る必要がある<わたしも>あるのです。だが、「せわしく立ち働」くことが必要な<わたしも>あるのです。キリストは、そのように常にわたしの<も>になってくださる、そう言っていいでしょう。つまり、わたしが、いや<わたしも>常に神さまの七千分の一であるということは、つまり、決して、<わたしだけ>になさらないということは、一切は必要なこととして、神さまがお与えになってくださるということです。そのことをパウロはもっと端的にこのように言います、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8章28節)と。「万事が益となるように共に働く」 ― そのために主イエスは立っておられ、何より働いて、あなたにも仕えてくださったのです。
  あなたも<わたしだけ>人間になっていませんか?いえ、<わたしだけ>、これが絶えず、わたしたちを孤独にし、あたかも自分のしていること、いえ、自分自身が無意味であるかのようにするのです。しかし、<わたしも>、そうあなたも、主イエスはそのようにわたしを支え、導いてくださるのです。<わたしだけ>人間になることは寂しい、いや辛いことです。マルタも<わたしだけ>と言いつつ、しかし、心の奥底では<わたしも>と叫んでいたのです。その叫びを聴いてくださる神、主イエス。だから、主イエスは決して、マルタを心の狭い人間だ、と決めつけたり、たしなめたりはなさらないのです。誰でも<わたしだけ>、この<だけ>にとりつかれる、自分を失うときがある。わたしどももつい忙しい、あるいは一度にあれもこれもしなくてはならない、そう考えると、何で<わたしだけ>、なんであの人はしないの、そうなってしまう。でも主イエスは、そんなわたしどもに、お前は心の狭い人間だ、駄目な人間だと言われるのではなく、そんなわたしたちに、あなたに<も>がある、そう言ってくださる。<わたしも>であり続けること、どんな小さなこと、いや、何もなし得ないときでも、<わたしも>がわたしにある。こんなわたしに<も>なし得ることがある、<わたしも>としてくださる。そして、それは言うまでもなく、たとえわたしの眼にどのように映ろうともあの人に<も>、この人<も>であるということ。だから、いつもあの人に、この人に<あなたも>と語りかけること。それはどんなにわたしの生活を、その一つひとつを豊にすることでしょうか。この神さまの、主イエスの<も>を携えていきましょう。そして、あなた<も>、と出会う人に、この神さまの<も>を伝えていきましょう。