2004年8月8日 聖霊降臨後第10主日 「今夜命が与えられる」

ルカ12章13~21節

 
説教  「今夜命が与えられる」  大和 淳 師
 今日は、ある金持ちの譬えからみ言葉を聴きたいと思いますが、「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」一人の人のこの願いから始まります。ところが、それに対して、主イエスは「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」、そうお答えになった。これは実にとりつくしまもない程厳しい拒否です。主イエスがこれほどまでに厳しく拒否なさったのは実に珍しいことです。そして「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」、そのように警告され、この金持ちの譬えを話されるわけです。
  ここで、「貪欲」という言葉が出てきます。貪る欲と書いて貪欲、必要以上に欲しがることと辞書には出ていますが、そのような貪欲、しかも「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と主イエスは言われています。そうすると、主イエスは、わたしどもの貪欲さ一切を誡めるために、つまり清貧の生活、禁欲的生活を勧めるためにこの譬えを語られ給うのでしょうか。
  それで、この譬えを見ていきますと、この譬えは非常に分かり易い、いわばすっと読める、分かる気がするのですが、しかし、あらためてよく読みますと、もし、主イエスが単にここで、ただ単に貪欲さを誡めるためにこの譬えを話されたと考えますと、この譬えの結末は非常に不自然なことに気が付きます。
  この譬えでは、最後に神さまが登場します。そもそも、主イエスの話されたたくさんの譬えの中で、神さまが父とか主人とかではなく、神そのものとして直接登場してくる、介入してくる譬話は、この譬えだけです。第一、神さまが父とか主人に、旅人にたとえられるから、<たとえ>話なのであり、直接、神が神として登場してきたら、<たとえ>話とは言えないわけですけれども。

  けれども、もし単に貪欲への、道徳的な戒めであったら、あえてこのように直接神が登場し、語りかける必要はないでしょう。つまり、もし、貪欲さへの警告だけを主イエスがここで語ろうとされていたのなら、この金持ちが、たとえばその晩、火事に遭い、すべて焼けてしまったのだとか、天災が起きたとか、と言うように、そう言う災害や思いがけない事故の方がこれを聴いている当時の人びとにとってもはるかにリアリティーがあるでしょうし、貪欲な生き方の空しさがはるかによく伝わるでしょう。
  そして、更に細かいことを言いますと、「神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた」(20節)、譬えはここで終わっているのですが、この結末は、何と言っても、決して、彼への罰、報いとして語られていません。「今夜、お前の命は取り上げられる」、それは彼の思いや、あるいはしたこととは関係なく、ただまったくいわば寿命が尽きることになっていた、言ってみればそういうことなのです。
  なるほど聖書の中には、貪欲は確かに罪のひとつです。むさぼりの罪です。しかし、ここで彼は「愚かな者」と呼ばれるのであり、決して罪人、悪人、神に逆らう者とは呼ばれていないのです。つまり、この金持ちが、考えたことが、あるいは彼がともかく大金持ちだったからとか、それを貧しい人に施そうとしなかったからだとか、いわば彼への罰として命が今夜取られるということを(倫理、道徳を)イエスは語っているのではなく、ただ命が今夜取られることになっていると言うのであり、そして「お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」という問いかけで終わり、実際、この金持ちがどうなったかは一切語られていないのです。これは人生、生き方、その根に迫る言葉なのです。
  そうすると、ともかく言えることは、あえて主イエスは神さまを登場させた、ここは直接神でなければならないからだ、そう言っていいでしょう。何故なら、ここでまさに問題は死、死の宣告、しかもいつかではなく、まさに今夜、今の死だからです。「今夜、お前の命は取り上げられる」、それはまことに神にしか言えないことだからです。しかも、全くそれまでのこの金持ちの生き方をことごとく打ち砕くように、神の突然の介入が起きてくる。人生がぶち壊しになるかのように。
  それ故、ともかく何よりこの主イエスの言葉を理解する鍵は、この異常な神の介入の言葉にあります。これをわたしたちがどう受け止めるのか。この一点です。この一点を、わたしの人生においてどう受け止めるのか。然り、というのか、あるいは否(もちろん否と言っても、否とならない、事柄から言えば、最早然りしかないのですが)、それでも否を言うのか。つまり、それでもわたしたちは希望があるのか、あるとすればどこにあるのか、ということ。

 それで、まず「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた」。この「愚か者よ」と言われる、わたしたちはさしあたって、その愚かさとは、何にあるのか?何故、主イエスは愚かと言われるのか、そのことから考えていきましょう。
  実はその神の宣告、「今夜、お前の命は取り上げられる」と訳されたその「命」の元の言葉は、プシュケーという言葉なのですが、「今夜、お前のプシュケーは取り上げられる」、そう言っていますが、この「命」と訳されているプシュケーという言葉は、既にこの金持ちの台詞の中にも出てきているのです。
  新共同訳は大変読みやすくならして訳していて、同じ言葉、プシュケーだとは分かりにくいのですが、19節に「こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と」は、直訳すると「そしてわたしは、わたしのプシュケーにこう言ってやるのだ。『プシュケーよ、お前は多くのものを長年に渡って得ている。さぁおまえは安らげ、食べよ、飲め、そして喜べ』」、そのようにわざわざ「プシュケーよ」と自分が自分のプシュケーに呼びかけているのです。ともかくこの金持ちは、まったく自分で自分に言う、自分で自分に言ったという構図がとてつもなく強調されているのです。おおよそ不自然な位、この金持ちは一人芝居を始め、一人舞台で幕を閉じようとする。そして彼はその自分のプシュケー、すなわち自分の命、魂に、つまりまるで神のごとく、「さあ、・・・楽しめ」と命令した、しかしその「プシュケー」こそが今まさに取り去られるのだと。
  それで、ある人がこういうことを言っています。「(この金持ちが愚かと呼ばれるのは)、それは彼は彼の熟慮のためのパートナー、神も人も持たないが故に、それ故に、あたかも彼が彼自身を自由に処理し得るかのように、自分自身のまわりを巡り回っているだけなのである」(E.シュヴァイツァー)。
  つまり、この金持ちが考えたことそのもの、それは貧しい人に施そうとしなかったから、いわば罰として命が今夜取られるということを主イエスはおっしゃっているのではなく、この金持ちは、自分で自分のプシュケー ― プシュケーはそのように命とか、魂などと訳される、いわば肉体的存在を除いた人間の心というか、つまり自分自身ということ、自我、哲学的に言えば主体とも訳す言葉ですが ― その自分自身について一人ですっかりお膳立てしてしまって、主イエスが「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(11章9節)、そうおっしゃった、そのような自分・自我ではない他なる存在、神、自分の真の主に願い求める必要は彼の人生に最早あたかも一切必要ないかのようになってしまっている。つまり彼はもう自分の人生に神様の出番の余地がなくなってしまった。そういう風に自分で自分をふるまっている。真に問題はすっかり自分で自分を用意してしまったことにあるのではないでしょうか。
  つまり、こういうことです。それなら、もう神さまの出番は、この「命が今夜取られる」、死ということしか残っていないではないか、そう主イエスは問いかけているのです。そのような生き方に対して、それなら最早神とは、命を今夜取る、そのような冷酷、無慈悲な暴君のような役割しか残されていないではないか、と。確かに自分が自分の主人となってしまった人間に対して、神は、そのような自分と真っ向から対立してくる。それどころか、その自分、わたしを砕くように登場するのです。汝、忘れるな、汝は有限なり、と。
  ともかく、一人芝居を演じている、自分が自分の主人公になってしまっているが故に、この金持ちは愚かなのです。ところが、これはわたしたちの眼から見れば、本来賢い生き方に見えるのではないでしょうか。むしろ、賢い生き方とはこういう生き方だというように。
  それで18節で共同訳が「思い巡らし」と訳している元々の言葉は、よーく考える、熟考する、つまりこれは本来賢い行為です。そういう風に、人生を熟慮する ― もっともその人間の熟慮の目的が、要するに「ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」という「怠け」であるところに、主イエスの鋭いユーモアがあると思うのですが、しかし、これは実にそうで、わたしなどはまことに耳が痛いわけでして、わたしたちも人生をよーく考える、そして計画を立て実行していく、これは大変大切なこと、欠くことに出来ないことなのですけれど、でもその目的が、うかうかするとただ老後を楽に過ごすためとか、ただ好きなことをして過ごすというような、この金持ちのような単なる怠けになっていってしまう・・・。これは実によくあることで、あえて言えば、個人のことのみならず、たとえば教会の将来計画などというものも、「よーく考えないと」、自分たちが楽をしようとするものになってしまう。
  つまり、貪欲というのは、何も眼をギラギラさせてモノや何かに執着していく様だけを言うのではなく、むしろ、全くそう気づかずになっていく、うかうかすると結局気が付いたときには貪欲というしかない、そういうものになってしまう、そう言っていいでしょう。だから、本当によーく考える、よくよく考える、今を自覚して真剣に考える、主イエスの語られていることは、まさにそこにかかっていると言える。ぬるま湯につかって、のんべんくだりと人生を考えていいのか、一方でそう言うことな訳です。汝は有限なり、ということ。
  ともかく先々をよく考え、計画・準備する、これは本来賢い生き方なはずです。ところが、わたしどもにとっては、先々をよく考えるとなると、確かに神を信じるという生き方より、神なんて信じない、あるいは信じられないもの、その方が実に賢く思える(あるいは楽だと言う方が合っていますが)、そうなるわけです。しかし、主イエスはそれが愚かだ、と言われる。何故なら結局、ただ独り芝居を演じてしまっているからだ、と。「パートナー」がいない。全く独り芝居、独り舞台を演じている。あなたの人生に真の「パートナー」を持っているのか、そう問うている。
  それで、ここで最初の「あるの人」の願いに対するあのイエスの拒否、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」にかえりたいのですが、それは実は単なる拒否ではなく、主イエスは、まさにわたしたちの「裁判官や調停人」ではなく、人生のパートナーとして立っておられたからではないかということ。つまり、主イエスは遺産相続なぞの次元の低い問題に巻き込むな、と言うのではなく、この金持ちのように人生の独り舞台を演じて、そうして最後には暴君のようにしか神を感じなくなってしまう、そうした人生ではなく、そうしてビクビクして暮らす ― それ故、人は貪欲になってしまう訳ですが ― そうではなく、言ってみれば、「命が今夜取られる」、たとえそうでも、いわばどうどうと生きる、限りあるわたしの生を生きることができる、つまり本当の自由への招きを語られようとされている。
  そもそも自由とは、自分独りでなれるのではなく、いつも必ず誰かと、自分を愛し、また自分も愛する人、存在と共になるものです。つまり自分一人が望むように、人生、事が進む、自分の思いが実現する、つまり人生の一人芝居を演じる、それが自由なのではなく、それはむしろ、いわば欲望の奴隷に過ぎない、まさにそれが「貪欲」ということなのだ、と。ですから、ここで言われる「貪欲」とは、繰り返し申しますがモノや何かへの執着ではなく、いわば自分で自分の人生の一人芝居を演じることです。パートナーのいない、したがって喜びのない人生のことです。これが聖書のいう「罪」なのです。
  でも、それに対して神さまは「命が今夜取られる」、ただそこで単なる暴君なのか、冷たい運命や宿命のようなものしか、あなたの人生に登場しないのか、そういう風にしか神さまの出番がなくなってしまっていいのか、主イエスは、そうわたしたちに問いかけておられる。
  確かに心配事、厄介ごとの中で、いつのまにか自分ひとりで、わたしの人生を演じてしまって、本当の神さまの出番、パートナーをなくしてしまっている人生、それをうかうかと歩んでしまう、隙間だらけのわたしどもになってしまうのです。そうして結局そこでは全く暴君のように、冷たい運命のようなものしか、神を考えられなくなる。本当の人生のパートナーが、わたしの傍におられることを忘れてしまうのです。
  だが、たとえ今どんなに素晴らしい、恵まれた人生を歩んでいると思えても、一瞬にして一切が愚かとなる、あの一点が誰にもあるのです。わたしどもは性懲りもなく、この金持ちのように一人芝居を演じてしまう、そのようなとき、まさに神は敵として登場してくるのです。しかし、この譬えの後、主イエスのこのような言葉が後に続きます。「・・・あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」(29-32節)つまり、こういうことです。なるほど、神と相容れない、神の介入の余地のない、そのようにまさに神に敵対してい歩むわたしどもには、だから思い悩みがある。今どんなに素晴らしい、恵まれた人生を歩んでいると思えても、一瞬にして一切が愚かとなるあの一点!だが、その一点、それは、全く逆から見れば、つまり、この主イエスから見れば、この信じるという生き方からは、それは今どんなに惨めで、辛い困難な人生を歩んでいるのだとしても、そのわたしの惨めさも辛さも本当に喜びに満ちた、豊かな人生となる一点があるのです。その一点を主イエスは指し示すのです。神からわたしに歩み寄り、和解し、わたしを伴っていく一点を。すなわち、十字架を!
  十字架とは、この一人芝居をしてしまう、自分で自分の主人になろうとするわたしが砕かれることです。ルターはもっと端的に、我々は日々死ななければならない、と言うのです。死ぬ者、神に、キリストに打ち砕かれた者こそ生きるのだ、と。つまり、このわたしが打ち砕かれた時、つまり、神がわたしの敵となる時、そうしてわたしが死ぬ、死ななければならない時、つまり、一人芝居をいやでも止めなければならない時、しかし、そこでこそ真に暴君、情け容赦のない「裁判官や調停人」ではない、真の神、憐れみの神、このキリストが、わたしと共にいる神が、わたしの命がそこにこそある、おられる。「必要なことをご存じである」神、わたしの「裁判官や調停人」ではない、愛する神が!このキリストに実は本当にわたしが生かされている、わたしが生きているのではなく、わたしは生かされている。
  主は、こうわたしたちに呼びかけてい給うのです、「そんな無意味な人生は愚かだと思わないか。あなたのプシュケー、人生、魂、命はそんな無意味なものではない、あなたの人生はそんな無駄なものではない。死を貫いて、あなたと共にあるものがあなたにあるのだから・・・・・・」。だから、まさに「今夜、お前の命は取り上げられる」、だが絶望しない、いやそれどころか、そのような限りある人生だからこそ、そのままに、あるがままにこのお方にことごとく生かされる、まさに全能の神がわたしの全てを支配しておられることに委ねて、信頼して生きていくことができる、そのような一点、真の命が誰にもある、このキリストにおいて、全ての人に今やある。「今夜命が取られる」、だが「今夜命が与えられる」!限りあるこのわたしが、そのままに、あるがままに生かされる!何故なら、ことごとく、この命、このわたしのプシュケー、わたし自身は一切、主のものだから!主イエスをわたしの人生のパートナーとしていくとは、そいうことなのです。そのような力が、わたしの力ではなく、主イエスの十字架を通して、わたしの中に必ず起きてくるのです。