2009年5月3日 復活後第3主日 「Jubilate! たとえ悲しくても、喜べ!」

ヨハネ21章15~19節
大和 淳 師

彼らが朝食を済ませた時、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこれら以上にわたしを愛するか?」。ペテロは彼に言った、「はい、主よ.わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの小羊を養いなさい」。
イエスはまた二度目に彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはわたしを愛するか?」。ペテロは彼に言った、「はい、主よ.わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
イエスは三度目に彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはわたしを愛するか?」。ペテロはイエスが三度目も自分に、「あなたはわたしを愛するか?」と言われたので、悲しんだ。そして彼はイエスに言った、「主よ、あなたはすべての事をご存じです.わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
まことに、まことに、わたしはあなたに言う.あなたが若かった時には、自分で帯を締めて、望む所を歩いた.しかし、年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、他の人があなたに帯を締めて、あなたの行きたくない所へ連れて行くであろう」。
イエスはこう言って、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示されたのである。こう言ってイエスは彼に、「わたしに従って来なさい」と言われた。

今日、復活後第3主日は、古くは「喜べ Jubilate」と呼ばれた主日です。「喜べ」、イースターを迎えたわたしたちは今日そのように呼びかけられています。しかし、今日ご一緒に聴く福音書に登場するペトロにとって、キリストの復活と「喜び」、それは決して、当然のことではありません。何より、彼は、復活の主を前にして決しておおよそ喜べる人間ではなく、むしろ、それどころか、悲しんだ、悲しみに目を真っ赤にしている人間なのです。その「イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」(17節)。この「悲しくなった」と訳されているこの動詞のもともとの言葉は、強い心の痛みを表わす言葉です。たとえば、この言葉は、こういうところところで使われています。

マタイが記す、イエスが十字架にかかる直前、最後の晩餐のときのことです。主イエスは、「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」、そうおっしゃった、そのとき、「弟子たちは非常に心を痛めて、『主よ、まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」(マタイ26:21-22)。その「非常に心を痛めて」と同じ言葉なのです。それは、いわば、良心の咎めによって引き起こされた心の痛みです。そして、まさにその時と同じ様に、ペトロは心を痛めているのです。しかし、その十字架の前のときの悲しみと、今ここでのの悲しみについて、決定的な違いがあります。今ここでのペトロの悲しみは、まさに復活のキリストの前での悲しみであるということです。すなわち、「わたしを愛しているか」、端的に愛のゆえに、愛によって引き起こされた悲しみであるということです。パウロは、この悲しみについてこう記しています、「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(2コリント7:10)。「神の御心に適った悲しみ」、その復活の主の御前での悲しみは、Jubilate「喜べ」と呼びかけられる悲しみなのです。

そもそもペトロは何故悲しんでいる、何を心に痛めているのでしょうか。それはただ単に二度ならずも三度まで「愛するか」と問われた、それ故「主は、自分の主への愛を信じてくださらない、・・・自分の言葉を、わたしを信じてくださらない」、そう思ってのことでしょうか。もしそうだとしたら、それは、むしろ傲慢な思いがそこに潜んでいると言わなくてはならないでしょう。つまり「わたしは愛している、それなのに、自分を信じてくださらない・・・」、結局は自分の正しさに固執していることになるでしょう。もちろん、ペトロは、主イエスのこの「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」に対して、また彼もまた率直に「はい」と答えているように、他の誰よりもイエスを愛していると言えるのです。それは、このヨハネ福音書6章に記されていることからも確認できます。それはこの主イエスから「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(6:66)ときのことです。そもそも主を愛するとは、旧約聖書を含めて、聖書では信ずることと同じですが、いわば、その代表として、あなたがたもわたしから離れ去りたいかと問われたのに対し、ペトロは直ぐさま「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」と答えたのです。そして更に、主が、ご自身の受難、十字架の死を予告されたとき、即座に「あなたのためなら命を捨てます」(13:37)と言ったのもペトロです。ペトロは、その時ただ自ら命がけに愛する、そのことを誓ったのです。全く激しい誓い、誰にも負けない愛であったのです。しかし、その結末は、何より、その時、主ご自身が「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(13:38)、そのように言われた、そのとおりになったのです。

他ならないこの主ご自身の言葉、「鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(13:38)、その主イエスが今あらためて三度、「わたしを愛するか」と問うた時、それはまた同時にこの「あなたは、三度わたしのことを知らないと言う」、その主の言葉が重なってペトロを揺り動かしているのです。それは、ペトロがただ単にあの夜の自分のしたことだけを思い起こして、ただそれを悲しんでいるのではありません。そうだとしたら、ペトロは「わたしを愛するか」という主の問いに直ぐに「はい」とは答えられなかったし、むしろ、「いいえ、そんな自信はわたしにはありません」としか答えられなかったでしょう。

三度キリストのことを知らないと言ったペトロ、しかし、今彼は三度、「あなたはご存じです」と答えるのです。彼は、たとえ悲しくても「はい、あなたはご存じです」と答えるのです。つまり、ペトロの悲しみは、ここでこういうことを語っているのです。〈主よ、他の誰でもない、あなたが、あなただけがご存知でした、わたしのすべてを。あなたはすべてを知っておられ、それでもあなたは、わたしを見捨てず、わたしから離れず、こうして今、わたしと相対してくださっています。主よ、わたしは誰にも負けないほどあなたを愛します。・・・。しかし、悲しく情けないことにわたしはあなたから離れてしまいました。でも、わたしは今分かります、わたしがあなたを愛したからではなく、あなたがわたしを最初に愛してくださったことを。あなたはご自身、そんなわたしの愛を少しも必要がないのに、そうして十字架にかかられたのに、今、まるでわたしの愛がなければならないかのように、わたしの愛を、わたしを求めてくださっています。主よ、あなたが一切をご存知です、わたしがあなたを愛していることを!主よ、あなたが知ってくださっている、それだけで十分です!主よ、あの夜のわたしであるからこそ、わたしはあなたを愛さずにはおれない、あなたと共に生きていきます!〉そのようにペトロは、たとえ悲しくても、ジュビリターテ「喜べ」の人間となったのです。復活の主と向き合って、主の愛に捉えられて生きていくのです。

それゆえ、このペトロが、ここで主イエスによって「わたしを羊を飼いなさい」、そのように立てられるのは、このペトロ自身の自らの後悔に由来するのではないのです。そうではなくて、まさにこの復活の主、キリストととの出会いだからこそである、そうヨハネ福音書は語る、このペトロの涙を、この復活の主との出会いの喜びの中で記す、わたしたちの心に刻み付けるのです。悲しみを抱く者よ、心に痛みを持ち続ける者よ、この主のみ前で泣け、思いっきり泣くが良い、そして「喜べ」、その復活者の招きを伝えるのです。
ですから、復活の主と向き合って生きる、それは、最早これまで熱心さがどれほど足りなかったかを主は問うのではなく、また、わたしたちがどれほどこれから勇気が必要か、どれほど信仰が強くなければならないかでもないのです。むしろ、おおよそ、逆なのです。そのようなわたしたちがなし得るかなし得ないか、もっと言えば、わたしがそのために死ねるか死ねないか、にあるのではないのです。むしろ、そのとき主から離れた人間 ― つまり、かつての彼自身に過ぎないのです。

要するに、キリスト教信仰とは、わたしたちが思いつめて、いちかばちかのようなことではありません。思いつめれば、いや思い詰めればこそ人間は愛するもののために死ねるでしょう。あのかつての特攻隊の若者たちは本当に真剣に、祖国のために、いや、実際はそうではなく、彼らは親や兄弟、妻や恋人、家族のために、少なくともそう信じて死んでいった、まったく純粋に!その純粋さは本当に心を打ちます!しかし、わたしたちの思う純粋さ、熱心さとは、またあの十字架の夜、ペトロのその愛が剣を抜いたように、他者の命まで奪うということもある、そのような悲しさを伴っているのです。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(2コリント7:10)、パウロの言葉を思い起こさずにはいられないのですが、わたしたちの純粋さ、熱心さはしばしば、わたしたちを思いつめさせ、思い込みへと駆り立てる、その時、人はそこでどれほど非人間的になるのかを、わたしたちは経験します。昨今、耳にするどうしてこうも簡単に人が人の命を奪うことも出来るのか。そして他人事ではありません。わたしの日常生活の中で、いや、教会の中でも、自分の思いつめ、思い込みから逃れられず問題が起こる、自分に対してのみならず、家族に、他者に、非人間的にふるまってしまう。だが、それは一見強いように思えても、ペトロがあの夜身をもって体験したように日常性の中では音もなく倒れ、崩れ落ちていくのです。死、罪の力とは、そのようにわたしたちに忍び寄って来るのです。

そのような人間の純粋さがここで求められているのではないのです。実際、ここでの主イエスのペトロへの問いが、あたかもそのような純粋な殉教への招きとして解されたりします。確かに、ここには、このペトロ自身の殉教の死まで暗示されているからです。しかし、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」!そうです、「あなたは、わたしに従いなさい」、ただ従う、導く方に従う、問題はただそのことだけなのです。

今日の福音書は、先週の日課でありましたが、直前の21章1節以下の出来事と密接に結びついています。そこで復活の主は、そこでペトロたちにまず第一に、「子たちよ、何か食べる物があるか」と問われたのです。すると彼らは、「ありません」と答えざる得なかった。何もない、「ありません」とペトロたちは、この方に告白しなければならなかったのです、わたしたちは何も持っていません、と。つまり、ペトロは最早、あるかのようにふるまう必要はなかったし、ないことを隠す必要もない、役に立たないものであることを隠す必要はないのです。すべてはそこから始まるのです。わたしたちの無力、貧しさ、しかし、それは、「主の慈しみ」のもとにある無力であり、貧しさであり、無能さに過ぎません。そのようにして、わたしたちは、この復活の主、そのあふれる豊かさ、栄光の方の前に立っているのです。そして、ここでも同様にペトロを通して、わたしたちは更に深く主のみ前に立っています。ペトロはまた改めて、この主のみ前に今度は一対一で、まさに裸で、何もないままに立つのです。そして、できないことに思いつめてではなく、また出来ることに思い込んででもなく、まさにそのように、何もないわたし自身のままに!

そして、この前の出来事では「シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」(7節)ことが記されています。そして、今日のここでは「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(18節)と主は言われます。この「帯を締め」るという言葉は、もともとの言葉では、実は先の7節の「上着をまとって」と同じ言葉なのです。すなわち、彼は、今まで自ら「上着をまとって」「帯を締め」て今主の前に立っていました。しかし、主は言われます、「両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」と。他の人、すなわち、主イエス自らが、今何もない、裸になった彼の「帯を締め」、彼を携えていくのです。

それを実に不自由な生き方と想像するとすれば、それは違います。これは、むしろ、解放の言葉です。自由へとペトロは召されているということです。彼の行きたいところに行こうとした時、彼はキリストを三度も否んでしまったからです。わたしたちも自分の行きたいところにいけることが自由だと思っていないでしょうか。しかし、どんな勇気も、豪胆さも崩れ落ちていく。本当の自由とは、出来ない、何もない自分を受け入れるところにあるのです。否、正確に言えば、そんなわたしが、それにも関わらず受け入れられているところから生まれるのです。あなたも、わたしも、このあるがままで!わたしたちは、このペトロに命じられた主の言葉に驚かずにはいられません。「わたしの羊を飼いなさい」。このペトロを、今やご自身の代わりに主は牧者として立てられるのです。主は、その彼を用い、必要とし続けてくださるのです。この主はどこまでも人間と共にあろうとされ、人間を愛し、求める神、それが故に死を乗越え、勝利された方であり給うからです。

このペトロと同様、主はあなたのすべてをご存知です。主イエスはすべてを知っておられ、それでも、あなたを見捨てず、あなたから離れず、あなたと相対してくださっています。この方はご自身、あなたの愛を本来少しも必要がないのに、そうして十字架にかかられたのに、今、まるであなたがいなければならないかのように、わたしを、あなたの愛を求めてくださっています。主が一切をご存知です、あなたが主を愛していることを、いや、主が一切をご存知である、それだけで十分なのです!だから、わたしたちは、この主を愛さずにはおれない、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか!」tp。

たとえこのわたし自身は悲しくても、いえ、今は悲しいからこそ、「喜べ(Jubilate)」の人間、この復活の主の愛に捉えられて、わたしたちは生きていけるのです!