2009年5月10日 復活後第4主日 「豊かに実を結ぶ」

ヨハネ15章1~10節

 
説教  「豊かに実を結ぶ」  大和 淳 師
「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫である。
わたしにある枝で実を結ばないものはすべて、彼は取り去られる.そして実を結ぶ枝はすべて、もっと実を結ぶようにと、彼は手入れされる。
わたしがあなたがたに語った言のゆえに、あなたがたはすでに清いのである。
わたしの中に住んでいなさい.そうすれば、わたしもあなたがたの中に住む。枝がぶどうの木の中に住んでいなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしの中に住んでいなければ、実を結ぶことはできない。
わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝である。人がわたしの中に住んでおり、わたしもその人の中に住んでいるなら、その人は多くの実を結ぶ.わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからである。
わたしの中に住んでいない者は、枝のように投げ捨てられて枯れてしまう.人々はそれを集めて、火の中に投げ込むので、それは焼かれる。
あなたがたがわたしの中に住んでおり、わたしの言葉があなたがたの中に住んでいるなら、何でも望むものを求めなさい.そうすれば、それはあなたがたにかなえられる。
あなたがたが多くの実を結ぶことで、わたしの父は栄光を受けられ、こうしてあなたがたはわたしの弟子となる。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛した.わたしの愛の中に住んでいなさい。
あなたがたがわたしの戒めを守るなら、わたしの愛の中に住むであろう.それは、わたしが父の命令を守って、彼の愛の中に住んでいるのと同じである。

   「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」、そう主イエスは、言葉を切り出します。今日のこの御言葉において、父なる神が農夫としてたとえられていることは、しばしば見過ごしにされるのですが、父なる神は、ここではぶどう園の主人ではなく、あえて働く農夫にたとえられています。そして、「あなたがたは、その枝である」。
 

 そして、わたしたちは、ここでもう一つ、父、神は主人ではなく農夫であることと並んで、しばしば見過ごしにしてしまうのですが、ここで主イエスはまず、「わたしはまことのぶどうの木」とおっしゃっているのであって、ただ「わたしはぶどうの木」であると言われていないのです。「まことのぶどうの木」なのです。、このイエスが「まことのぶどうの木」であるのは、まさに父である「まことの」農夫がおられるからなのです。この父、「まことの」農夫があっての「まことの」ぶどうの木、そして、その「まことの」ぶどうの木あっての実なのです。そして、「わたしにつながっていなさい」、キリストはここでわたしたちにそうお命じになっています。この「つながっている」ということが繰り返し何度も語られま
す。それがここで主イエスが語ろうとされている中心に関わっていると言っていいでしょう。すなわち、5節「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」のです。

 「まことの木」である「わたしにつながっていなさい」。命令なのです。枝であるあなたがたは木であるわたしにつながっている、という現在形、単なる状態だけを語るのではなく、尚わざわざつながっていろという命令、呼びかけ、勧告、訴えがなされます。もし、この農夫の存在を忘れると、それは実に奇妙なことをイエスは言っておられるに過ぎなくなります。つまり、そもそも、わたしたちが枝であると言われているのですから、あらためて、その枝に向かって「わたしにつながっていなさい」と言うのは奇妙です。

  しかし、ここで大事なことは、このぶどうの木には、父、真の農夫がおられるということ、このぶどうの木を通して慈しみ、丹精こめて働いてくださる父、その父である神が、他のどれでもない、このイエスという「まことのぶどうの木」の農夫であるということなのです。この父にこそ、わたしたちはつながっていなければならないからなのです。つまり、このぶどうの木につながってさえいれば、あとは放って置いても、わたしたちは実を結ぶのだというのではないからです。このイエスというまことのぶどうの木には父と言うまことの農夫が働くからなのです。つまり、この枝がこのぶどうの木につながっている、わたしたちがこのキリストを信ずる、信じていることができる、いや、こうして生きているのは、それは枝であるわたしたちの業ではなく、実にこの農夫の業があるということ。イエスは、その父の働きがあるからこそ、ご自身、「まことのぶどうの木」であり、わたしたちは実をむすぶのだから、「わたしにつながっていなさい」と言うのです。ですから、枝が木につながっているのは当たり前のことなのに、その当たり前のことが当たり前でなくなっているのだ、それがわたしたちなのだ、そう言っていいでしょう。「まことの木」である「わたしにつながっていない枝は、そのまことの木から離れれば、最早枝ではなく、枯れ木、薪にするしかない存在になってしまう、ということです。つまり、木から離れても枝はしばらくは生きているかも知れない。だがやがて枯れて死んでいくのです。そこにあるのは死の世界、それがわたしたちの言う当たり前の世界なのです。あるいは、こう言い換えていいかも知れません。わたした
ちは、やがて枯れて枝にすぎないのに、あたかも、自分がぶどうの木そのものであるかのように錯覚しているのだ、と。

  ですから、「わたしにつながっていなさい」、そう命じられているイエスは悲しみに満ちておっしゃっているのかも知れません。何故、命から離れて平気でいるのだ、命に帰れ!命から離れるな、父に帰れ!悲痛な思いで叫んでおられる、そう考えていいのではないでしょうか。それ故にの命令形なのです。いえ、それだけではありません。むしろ、このことこそ、わたしたちがここで見なければならないこと、知らなければならないことですが、この「わたしにつながっていなさい」という主の命令、そしてここでただそれだけを命じてい給うこの命令は、何より、このぶどうの木につながっている、否、あの農夫がこのぶどうの木から成長させ、手入れしてくださっている、このわたしたちを、このまことのぶどうの木、主イエス・キリストから引き離そうとする力があるからです。このぶどうの木につながっていても、尚、そのような力、この世の力、死の力、その世界にわたしたちがあることをご存知であり、そして今や、この方ご自身,その力と戦い、勝利され給うからです。それ故、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(5節)、そう言われるのです。「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」、これは強い言葉です。何も、です。

  ことごとく、一切なのです、Nothing!なのです。言うまでもなくそれが死、その力です!それがキリストから離れたところの世界なのです。 今、ここにいるみなさまの中に、この教会の群れにも、病や苦難を通して今まさにそのような死の力が襲ってきている、そして、その死の力と闘っている兄弟姉妹がおられのです。あるいは、肉親、ご家族がその最中にいて、共に苦しみ、闘っておられる兄弟姉妹がおられるのです。主はそれ故命じ給うのです、「わたしにつながっていなさい!」そして、わたしたち自身誰も、その力がこの肉体を、そして何よりわたしたち自身の心を蝕んでいこうとしているのを知っています。体が弱るとき、心も弱るのです。しかし、「わたしにつながっていなさい!」今やわたしたちが、それ故耳を傾けるのは、見上げるのは、そのように命じ給う方です。あなたがたは既にわたしにつながっている。父である農夫がおられるのだから。しかし、わたしはあえてあなたがたに言う、「わたしにつながっていなさい!」、命、目に見える死の力ではなく、命、わたし自身を見なさい!わたしは十字架にかかる、だがわたしは命、復活!農夫は最早農夫自身のためにあるのではなく、そのぶどうの木のためにあるように、今そのぶどうの木であるわたしが、その枝であるあなたがたのためにある。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(11章25節)。わたしだけが復活であり、命なのではない。復活とは、あなたが生きることなのだ!あなたがわたしと共に、そしてそれ故、父と共に!「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(15章5節)。

  「わたしにつながっていなさい!」、これは命の言葉なのです。何故なら既につながれているからです!たとえどれほど死の力がわたしたちを襲い来るとしても、それ故、「豊かに実を結ぶ」。命を結ぶ!今日、復活後第四主日、それは伝統的にはラテン語でCantate、「歌え」の主日。Cantate、「歌え」、それは詩篇98篇1節「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって主は救いの御業を果たされた」のみ言葉からきています。そうです、「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」からこそ、「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた」のです。先ほど、体が弱るとき、心も弱ると申しました。しかし、わたしたちは今は体が弱ればこそ、心を躍らせ、新しい歌を主に向かっていきましょう、この主につながっている一人ひとりの人生の、一人ひとりの命の歌を、主に向かって!「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって主は救いの御業を果たされた」!