2009年5月24日 昇天主日 「天」

ルカ24章44~53節

 
説教  「天」  大和 淳 師
イエスは彼らに言われた、「わたしがまだあなたがたと一緒にいた時、あなたがたに語ったわたしの言はこうである.すなわち、わたしについて、モーセの律法と預言者の書と詩篇とに書かれているすべての事は、成就されなければならない」。
それから、イエスは聖書を理解させるように、彼らの思いを開かれた.
イエスは彼らに言われた、「こう書かれている、『キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中から復活する.
そして、罪の赦しを得させる悔い改めが、彼の御名の中で、エルサレムから始まって、すべての国民に宣べ伝えられる』。
あなたがたはこれらの事の証人である。
見よ、わたしはわたしの父が約束されたものを、あなたがたの上に送る.ただ、あなたがたは、高い所から力を着せられるまで、都にとどまっていなさい」。
イエスは彼らに言われた、「わたしがまだあなたがたと一緒にいた時、あなたがたに語ったわたしの言はこうである.すなわち、わたしについて、モーセの律法と預言者の書と詩篇とに書かれているすべての事は、成就されなければならない」。
それから、イエスは聖書を理解させるように、彼らの思いを開かれた.
イエスは彼らに言われた、「こう書かれている、『キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中から復活する.
そして、罪の赦しを得させる悔い改めが、彼の御名の中で、エルサレムから始まって、すべての国民に宣べ伝えられる』。
あなたがたはこれらの事の証人である。
見よ、わたしはわたしの父が約束されたものを、あなたがたの上に送る.ただ、あなたがたは、高い所から力を着せられるまで、都にとどまっていなさい」。

   東京にいますと、東京には空がないという智恵子抄ではないですが、空と言っても、ビルなどの建物に区切られた、本当に背景の一部でしかなわけです。そういう風なところで生活していると、自然、視線は上を向かない、やっぱりどうしても下、うつ向いて生きてしまいますね。せいぜい水平にしか視線は行かない。あるいはむしろこう言うべきだと思うのですが、ともかく空と地上が完全に区切られた世界である、と。

   それで、天を見上げることのない生活ということ、それは、ややもすればどうしても下を向いていく、あるいはうつむいていってしまう生活となっていうのですけれど、けれども、本当にこうして空があるということ、わたしたちの上には、わたしたちが見上げることのない天があるということ、そのことを思うわけです。わたしたちの上には天、空がある、これは勿論、全く当たり前のことです。自然ではないか、そう言われるかも知れない。でも、現代の人間は、果たして、本当に空のもとで生きているか、空を見上げながら生きているか、そういうことを思います。空と一体となっているか、と。

   そういうことを思いますと、あらためてわたしたちが水平に見ている町並みとか、道とか、山並み、そういう地上のもの、景色、それは実は本当にこの空の模様を反映しているということを思うのです。明るいまぶしいような太陽の光が降り注ぐ、そうして抜けるような青空、その光がどんなにこのわたしの居る地上と一体になっているか、あるいは曇り空、その柔らかな光、その下にあって見ている、それがこの地上であるということ、その光によって、一本一本の木がいろんな色に、それぞれ違って染まっている。まさに空無しにはないのだ、ということ、そういうことを思うのですが、勿論、この聖書が語るキリストは天に昇られたという、その天というのは、そんな風に目で見えるところの空ではなく、あるいはこの空の向こう、はるか彼方のどこかということではない、むしろそれは、最早わたしどもの考えを超えてしまっているのですが、端的にただ神のいまし給うところ、そういう意味です。そういう天、キリストがおられるところ、それはわたしたちが意識していようといまいと、使徒書の日課、エフェソ書が「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。・・・」、そう語っている、そのようにわたしたちのこの地上は、このキリストの下に今やあるのだ、ということ、つまり、本当に、今やこの世界、そして何よりもこの教会、それはこのキリストと一体なのだ、ということ。そのことをもっと端的にパウロは、こう語るわけです、「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8章34~39節)。

  「キリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる」、そして、パウロは、それを「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」、キリストが天に昇られたということ、それは、それほどにわたしたちと一体となられたのだ、そう語っている。

   そのことをルターは、1525年5月14日の昇天主日説教 ― わたしは毎年この説教を読み、また毎回のようにこうして紹介しているのですが ― その中でこう語っています。「キリストは上にましそしてそのはるか上からここにいる我らを治め給うために、天に昇られた、そのように考えてはならない。そうではなく、キリストはそこでこそ最も多くのことを創造し、治めることが出来るが故に天に昇られたのだ。何故なら、もし彼がこの地上に人々に目に見える仕方で留まり続けられるとしたら、彼はこれほど多くのことを創造したりはできないであろう。全ての人々が彼の傍らにあり、彼に聴くことはできないであろう。・・・だから、彼は今や我々と遠く離れてしまっているのだと、くれぐれも考えないようにしないさい。むしろ、事実は全く逆に、彼が地上におられたとき、彼はわれわれと遠く経だっていたのだが、今や彼はわれわれの近くにいまし給うのである。」

  つまり、わたしたちが、そういう風にキリストのおられる天を見上げる、仰ぐということ、それは即わたしたち凡てのものの足下、土台、それがどれほど確かなのもであるか、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」、そのことを知ることだ、そう言っていい。

   けれども、そうであればあるほど、本当にわたしどもは、それにも関わらず、本当に自分自身の弱さというものを実感せざる得ないわけです。揺れ動く。あるいは、こんな風に疑いを抱く、もし、そのようにキリストが今やわたしたちと一体となっておられるなら、何故、わたしの生はこんなにも脆いのか、と。その中で感じるのは、ややもすると、あの天と区切られ、切り離されたようなわたしどもの生であるわけです。あるいは、そういう風に、わたしたちの中、互いにまた、このキリストの愛によって、わたしたちもまた一つとされている、まさにパウロは「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ2章27,28節)、そう語っているのに、やはり現実には教会もバラバラではないか、と。

  そういうとき、わたしたちは、それはやはり自分たちの信仰の弱さなんだ、と、そう考える。信仰が弱いから揺れ動く、と。でも、本当にそうなのか。信仰が強ければ、たとえば、あの愛する長谷川さんの死は、悲しくないのか、痛みとならないのか。勿論、聖書の中には例をあげるまでもなく至る所で、そういうわたしたちの姿を不信仰、信仰の弱さであると、確かにそういうことも語っています。だから一面、そうなのですけれど、たとえば、あのパウロはまた、「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」、そう率直に語り、「もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」(ローマ7章15-19節)と。ここで言われていることの厳密な意味はともかく、パウロもまた、自分のしていることが分からない。あるいは、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」、悪を行っている、つまり、それほど逃れようもなく自分は不信仰なのだ、そう言っているわけです。あるいは自分は罪人の頭であるとまで言うのです。

   しかし、同時にその弱いパウロは、また「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(2コリント12章10節)、まさにそのように「強さ」についても語り得るのです。あるいは、「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」(〃11章29-30節)。一体それはどういうことなのでしょうか。

   「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」、それほど確かな土台に据えられているということ、それは、だから即わたしたち自身がもう決して揺れ動くことはない、どんなことにもびくともしない、そういうものにキリスト者はなったということではないのです。むしろ、揺れ動く。いや、揺れ動いていいんだ。いや、土台がしっかりしているからこそ揺れ動くのだ、ということ。

   だから、本当に悲しいことの中で、本当に悲しむ、それどころか、何故、神さま、こんなことがあるのですか、あなたはあなたの右に座しておられるキリストによって、この世を支配されているのではないですか、と叫んでいい。痛ければ、痛いと泣いていい。でも、信仰とは、その揺れが大きければ大きいほど、まさに土台はびくともしない、全く強い力で、わたしを支えているのです。わたしどもは、自分の弱さを知れば知るほど、そのキリスト、その愛の強さを知るのです。まさに「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(2コリント12章9節)ということ、「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(〃)そうパウロは呼びかけているのです。

   それゆえ、それは全く自然体、キリスト者の生き方は自然体の生き方である、そう言い換えた方がいいかも知れません。まことに苦難がある、あるいは行き詰まるようなことが起こる。まことに揺り動かされる、けれども、そういう時にこそ、この土台、キリストの昇天とは、まさに土台となられたということですが、その強さを仰ぐ、つまり堪え忍ぶということ。その時、わたしたちは、本当に驚くほど揺るぎないもの、力を知るのです。

   このキリストの昇天という主日、昇天、それは、なるほど、わたしたち自身は、痛み、悲しみ、苦しみに揺れ動くかも知れない、しかし、「神を愛する者 凡てのもの相働きて 益となる」、キリスト者はそのことを知り、また仰ぎ望んで生きる者であることを。
ルカ福音書は、キリストが天にあげられていく、いわば別離であるはずなのに「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」、彼らは悲しむどころか、大喜びで帰っていったのだ、とそう伝えています。

   それはまったく今やわたしどもの命はしっかりとこのキリスト、その命につながっている。そして、またこのキリストを通して、わたしたち一人ひとりとしっかりとつなげられているのです。わたしたちは今ここで既にありのままに一つの命に生きている。だからこそエフェソ書が語るように教会が生まれたのです。そこに教会があるのです。それが、キリストが天に昇り、父の右に座し給うということの意味です。自らは揺れ動くとも天を仰ぎつつこのキリストを証し続ける、それが教会なのです。だからこそ、あの弟子たちは彼らは喜んだのです。
さぁ、わたしたちもまた、今あるがままに大喜びで帰り、絶えず神をほめたたえていきましょう。