2009年6月7日 三位一体主日 「風は愛するままに吹く」

ヨハネ3章1節~12節

 
説教  「風は愛するままに吹く」  大和 淳 師
ところが、パリサイ人の一人で、名をニコデモというユダヤ人の指導者がいた。
この人が、夜イエスの所に来て言った、「ラビ、わたしたちは、あなたが神から来られた教師であることを知っています.神が共におられるのでなければ、あなたが行なっておられるこれらのしるしを、だれも行なうことはできないからです」。
イエスは彼に答えて言われた、「まことに、まことに、わたしはあなたに言う.人は新しく生まれなければ、神の王国を見ることはできない」。
ニコデモは言った、「人は年老いてから、どうして生まれることができるでしょう? もう一度、母の胎内に入って、生まれることができるのでしょうか?」
イエスは答えられた、「まことに、まことに、わたしはあなたに言う.人は水と霊から生まれなければ、神の王国に入ることはできない。
肉から生まれるのは肉であり、その霊から生まれるのは霊である。
わたしがあなたに、『あなたがたは新しく生まれなければならない』と言ったことを、不思議に思ってはならない。
風は思いのままに吹く.あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない.その霊から生まれる者もみなそうである」。
ニコデモは彼に尋ねて言った、「どうして、そのような事があり得るのでしょう?」
イエスは答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師であるのに、このような事がわからないのか?
まことに、まことに、わたしはあなたに言う.わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。
わたしがあなたがたに、地上の事柄を告げても信じないとしたら、天の事柄を告げたところで、どうして信じるだろうか?

 子どもの頃、故郷では山の向こうに富士山が見えました。晴れた日に、その美しい姿が見えると何か憧れのような思いでじっとよく見つめていたことを覚えています。そして、曇りや雨で見えない時も、ふと、ああ、あそこに富士山があるんだ、そう思ってその方向を見ていたことがありました。さて今日、ご一緒に読む福音書、そこには、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」、そういうキリストの言葉が記されています。大変不可思議な言葉であると言っていいでしょう。「新たに生まれる」 ― 私たちもこのニコデモのように、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」、あるいは「どうして、そんなことがありえましょうか」、そう困惑しながら問うてしまうでしょう。けれども、わたしたちは、これらの言葉の上に、ちょうどあの富士山のように高く聳え立っているキリストの言葉を仰ぐことが出来ます。それは、今日の福音書の日課の後3章16節以下に、こう記されている言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(3:16-17)。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」、したがって、このニコデモもまた「愛された」者であり続けるのです。そして、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」、わたしどもは、ここでこのキリストが語っておられること、それはまさにそこから語っておられるのであり、そのようにニコデモに相対しておられるのだということを知るのです。

  もちろん、「夜」、キリストの下に訪れたニコデモの眼にはちょうど夜には見えないあの富士山のように見ることができないのです。したがって、「どうして、そんなことがありえましょうか」と声をあげてしまう彼なのです。そのように「新しく生まれる」、それはこの地上に生きるわたしたちにとっては、全く疑わしく思えることです。だが、ニコデモ、そして、わたしたちの眼にはたとえ見えなくても、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである・・・」、この御言葉は、常に富士山はそこにそびえ立っているように、いや神の言葉は永遠であるが故に、それ以上確かに、そして吹いてくる風のようにわたしたちに働きかけてくる、そのことが心にくっきりと浮かび上がってくる出来事なのです。そして、この3章16節以下のこの御言葉と今日の個所の真中には、こういうことが語られています。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」(3:13-14)。わたしたちが、まさにニコデモのように、この地上で、わたしたちは誰一人「失われていく」「滅びていく」、そのようにこの眼には写るこの現実、まさに「夜」そのもののような生活、「どうして、そんなことが」とため息をもらす、苦悶している私たちのこの現実、だが、見上げるものがそこにある、「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」 ― キリストは、ご自身の十字架をはるか指差しておられるのです。復活の命、そして、昇天の出来事を!ペトロはその手紙の中で、この富士山のようにそびえる私たちの希望についてこう記しています、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(1ペトロ1:3-4)。この望みのもとにある生活!

   だが、しかし、ニコデモはそこを見上げることが出来ません。ただ下を、地上を見続けるのです。ニコデモは、そのときこの方イエス・キリストご自身を見る代わりに、自分自身を見つめてしまうのです。それが、神が、したがって、この方が愛されておられるこの世の姿なのです。しかし、キリストはそんな彼の不可能さに対して更に助け舟を出すようにご自身を示されます、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。「水と霊とによって生まれる」。つまり、「新しく生まれる」それは全く雲をつかむようなことではなく「水から生まれる」ことなのだ、と。もちろん、この水とはわたしたちにとって洗礼の水のことですが、「ファリサイ派に属する」、「ユダヤ人たちの議員であった」この「イスラエルの教師」ニコデモ、したがって、聖書を熟知し、人々を教え続けてきたニコデモ、その彼もまた、生まれた赤ん坊が産湯につかるように、水から生まれなければならない。今や彼に必要なのは、この地上のことにどれだけ熟知しえるか、ということではなく、またどれだけ確かな、そして豊かな知識と経験があるか、そういうことでもなく、まったくに子どものように、「水から生まれ」なくてはならない。彼に必要なのは、根本から必要なこと、それは霊、霊から裸で生まれることなのです。

   ところで、福音書は、このニコデモがキリストを訪れたのは「夜」であったとわざわざ記しています。それが夜であったというのには、色々な意味が込められているのでしょう。ある人は、その立派な肩書き、そして指導者と呼ばれる地位も名誉もあるニコデモが、夜、キリストを訪ねたのは、彼がそのような特別な地位にあるが故に、人目を避けてのことであったからと述べています。確かにそのような皮肉な眼をもって読むことも出来るでしょう。けれでも、また別の人は、彼がキリストを訪ね、そして、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」、そう告白するのは勇気がいったことであろう、そう言うのです。すでに彼の属するファリサイ派の人々は、このキリストと対立していたからです。ニコデモが勇気のある人であったのか、あるいはそうでないのかはともかく、そのようにわたしたちが考える「勇気」とは、何かに敢然として立ち向かい、征服・克服していこうとする、逆境に負けない気持ち、変えていく力、それを勇気と考えます。つまり、ともかく何かを変えようと立ち上がることです。若い時はそれでいい、と言うより、そのような勇気こそ若さの特権であり、向上心ということでしょう。

   けれども、人生にはもっと違った勇気が必要です。それは、一言で言えば、受け入れがたいものを受け入れる勇気と言ったらいいでしょうか。それで、このニコデモのことですが、彼は、結局、人は生まれ変わることは出来ないと言う。そういう意味では自分は変われない、そう言っているのだと言えるでしょう。では、そのことをニコデモが自分自身に本当に受け入れているかと言えば、むしろ、そうではないのではないか。ニコデモがここで受け入れられなかったこと、それは、キリストのこれらの言葉以上に、彼自身が言う他ならないこのこと、わたしは自分で新たに生まれることはできません、それを本当に率直に受け入れてはいない、本当にはできなかった、結局そういうことではないでしょうか。

   でも、キリストは、決してあなたは、あなた自身で変われ、そうおっしゃってはいないのです。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」、あなたは肉から生まれたものに過ぎないのだ、と。なるほど、そうなのです。しかし、その「母親の胎内」から生まれたのも、決して、わたしたちは、わたしたち自身で、自分から生まれたのではない。そのようにして母の胎を通して命を与えられたもの、だから同じように、霊から生まれる、同じように命を与えられる、キリストはそうおっしゃっている。
そして、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と。これは確かに全く禅問答のように捕らえどころがないように思えるかも知れません。しかし、そのような者であることをただここで率直に認める、受け入れるしかない。ありのままの姿で、このキリストの前に立つ以外にない。でも、それは決して、恐らくニコデモにとって承伏しがたかったように、いわば情けないことではないのだ、むしろ、そのような裸の自分、何々に属して、何々をしている、出来る人間であるとか、こういうことを知っている、分かっている、そんな背伸びをもうしなくていいのだ、ということ。

   更にそれをもっと身近に言い換えれば、どんな姿の自分も嫌うことなく、その自分と仲良く生きる勇気といったらいいでしょうか、他人の助けなしには結局生き得なくなっていく、情けない自分を受け入れる勇気、年と共に休型が変わり、背も丸くなったり、しわが増えていくような、そんな自分を惨めに思わない勇気、そしてあれこれの病に無力になっていく自分を、しかしそれでも生かされていることを喜ぶ勇気、そのように、さまざまに味わう悲しさを一つひとつ〝我が物″として認める、受け入れがたいものを受け入れる勇気、キリストは、まさにそれをニコデモに与えようとしている、そう言えるのではないでしょうか。

  なるほど、「風は思いのままに吹く」、わたしたちがこっちだ、あっちだ、そう定めようとしても、決してその通りにならない。ではどうするのか、風の吹くままに生きる、ありのままにその風に身をさらす以外にない。そのように言うと、まことに無責任といいうか、心許ない思いをなされるかも知れません。吹けば飛ぶような自分を思わざる得ないのです。しかし、その「風は思いのままに吹く」、その風の思い、あるいは、「、それがどこから来て、どこへ行くか」、風の心 ― キリストは、そのことについて、はっきりとこう語っておられるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

   みなさん、これが、風の思い、キリストの風なのです。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」、「一人も滅びない」、まことにそれが今日、わたしたち、吹けば飛ぶようなわたしに向けられた言葉、風なのです。つまり、こういうことです、「風は思いのままに吹く」、それは風は勝手気ままに、ということではなく、まさに風は〈愛するがままに吹く〉。それ故、「一人も滅びない」、決して滅びることはない、この風の中に、わたしもあなたもあるのだ、ということ。そして、単に「滅びない」というだけでなく「永遠の命を得る」。命、このわたしが生きるものとされている。

   まことに自分自身を真に見つめれば、情けない自分、みじめな自分、しかし、今やそのわたしに「風は思いのままに」〈愛するがままに吹く〉、生きるものとされている、そのような力を与えられるのです。わたしどもは、新しく生まれる、生まれ変わる、それを、まさにニコデモのようにまことにとてつもない、途方もないことのように思うのです。あるいは、あのまことに小さな自分、この平凡な生活、つまり、今わたしたちが実際に生き、そこで愚痴をこぼしたり、途方に暮れたりしながら、自分のわがまま、情けなさを感じているその生活と切り離して考える、あるいは、その自分がまことに見事な、堂々たる自分に変わるかのように。

   しかし、キリストのおっしゃることは、実は本当にささやかなこと、全く確かに目立たないことです。何故なら、このわたしたちのその平凡な生活、小さな自分を受け入れることだからです。そのようなわたしに途方もない大きな愛が注がれている、失われてはならないかけがえのないものとして慈しみ、命につないでくださっているからです。それを信じること!この受け入れがたいものを受け入れること!何故なら、神こそ、この受け入れがたいもの、受け入れがたいわたしをあるがままに受け入れてくださっておられるからです。それは具体的に言えば、たとえば人を笑顔で迎えようとか、あるいは他人と比較しないで自分の生活を大切にするという決意、実はそのようなほんのささやかな勇気、決意ではないでしょうか。日常生活の中でどんな自分も受け入れる、受け入れていこうとする勇気です。この大きな愛、命の流れの中に生かされているからこそ、わたしどもは、まことにこ些細な、小さな、取るに足らないと思えることにも忠実に生きていくのです。

   それ故、わたしたちに与えられている永遠の命とは、単に死後のことではありません。今をわたしたちが生き生きと生きていく力、希望です。希望は、常に誰か自分以外の者と共に持つもの、愛し、愛されているが故に生まれるものです。共に苦しみ、共に喜ぶこと、それが希望です。そのように永遠の命とは、わたしひとりの命のことではありません。キリストが与えてくださるように、キリストと、神と分かち合って生きる命のことです。そして、あなたなしにわたしが生きるのではなく、<一人も滅びない>と言われるように、わたしもあなたも共に生きる命です。一緒にキリストと共に生きることです。そこに教会の原点があるのです。共に生きるからこそ、苦しみもある、悲しみもあるでしょう。だからこそ、かつて旧約の民は、モーセが主の命令に従って造った<炎の蛇>を見上げて<命を得>ました。わたしたちは今、このキリスト、十字架を見上げましょう。主はこう言われるのです、「あなた自身の中を見下ろすのはではない。耐えきれないときに、憎しみに負け、不安、恐れに戦くとき、もう歩けないと立ち止まり、崩れ落ちてしまうとき、わたしの十字架を見上げよ、あなたは滅びてはならない、あなたはわたしと共に生きるのだ。<わたしが生きるのであなたがたも生きる>」と!

   今日も、あの富士山のように、わたしたちにこの御言葉が聳え立っているのです。だから、見えなくても、いや、見えないからこそ「新しく生まれる」― わたしたちはそれを信じる!この世の力がわたしたちを今わたしたちを脅かし、苦しめるこのとき、たとえ、わたしの眼には何も見えなくても、あのニコデモのように、「どうして、そんなことがありえましょうか」、ただ出てくるのはそのような結論だけだとしても(実際、わたしたち自身からはそれ以外の結論はないのですから)、そうであるが故に、そのニコデモの前に立っておられる方、共に立ち続ける方、見捨てることのない方、イエス・キリストを仰ぐのです。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」、まさに、わたしたちはどこへ行くかをなるほど知らない。この身が明日どうなるか知りません。すでに齢を重ねてきたわたしにはできないことがある。しかし、そうだとしてもわたしには今なし得ることがあるのです!何故なら「風は吹いている」のです、わたしに、あなたに!キリストの風は、愛するままに吹くからです。