2009年6月21日 聖霊降臨後第3主日

マルコ2章23-28節

 
説教    大和 淳 師
それから安息日に、イエスが麦畑を通られると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。
すると、パリサイ人は彼に言った、「ご覧なさい! なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをしているのですか?」
イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデが欠乏して飢えた時、共にいた者たちと何をしたか、読んだことがないのか?
アビアタルが大祭司であった時、彼は神の家へ入り、祭司のほか食べてはならない供えのパンを食べ、共にいた者たちにも分けてやったではないか」.
イエスはまた彼らに言われた、「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。
だから、人の子は安息日の主でもある」。
 
先週の木曜のクラスは、ジャン・フランソワ・ミレーの『落ち穂拾い』の画を通して、聖書の学びをしました。ミレーの代表作であり、誰もが知っている画ですが、この画が、申命記24章19節の「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される」、この旧約聖書の戒めに関わっていることは、あまり知られていないかも知れません。そもそも旧約聖書の掟、律法には、寄留者、孤児、寡婦、弱い、貧しい小さな者への配慮に満ちていました。
 さて、ある安息日に道すがら、イエスの弟子たちが、歩きながら畑に実っていた麦の穂を摘んでいた、それをファリサイ派の人々に咎められるというところから今日の福音書は始まります。しかし、今述べた申命記の、収穫のとき、落ち穂まできれいに刈ってはならない、むしろ、刈り残せといいう戒めと同様、そもそも畑に実っている穂を、通りかかった人が摘んで食べてよいことは、申命記23章26節に「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」とあり、旅人や貧しい人への配慮として、飢えた人が手で摘んで飢えを満たすことまで禁じてはならないというのです。つまり、貧しい人々のためだ、空腹の旅人のために気配りを持て、そういう優しさ、命へのいたわりを求めているわけです。

 しかし、この福音書において、ファリサイ派の人々が非難したのは、それが安息日であったので、許されない、律法・聖書に反する行為であったというのです。そもそも、ユダヤ教の安息日は、金曜の日没から、土曜日の日没までですが、その間、会堂に行って礼拝する他の労働行為は一切の労働が禁じられていました。この安息日は、わたしたちにとってはそれは日曜日にあたるわけですが、欧米諸国にならって、この国でも日曜日は休日なわけです。それで日曜日は休日、休む日だ、そうわたしたちは当然考えているわけですが、ところが、このユダヤ教の安息日というのは休みの日、つまり、仕事をしなくてもいい日ではなく、厳密に仕事・労働をしてはならない日、休まなくてはならない日なのです。そこで、彼らはイエスに「なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」そう問うた訳です。

 ファリサイ派の人たちは、この安息日の掟を厳密にまもるために、どの程度までが仕事であり、仕事でないか、詳細な規定を作りました。急病人が出たときはどうするかとか、我々の目には、実になんと杓子定規、不自由なんだろうと思うほどです。たとえば、その急病人が出たときはどうするか、時代によって多少変移があるようですが、命に関わる場合には、治療は認められる。しかし、そうでない場合は安息日が終わるまで待たなくてはならない。つまり、どんなに歯が痛くとも、骨折しても我慢するわけです。そんなことから、たとえば花瓶が倒れてしまったとき、それを直したら、それは違反となるとか、前日調理したものを食べるのはいいが、安息日にそれを暖め直してもいけない。つまり火をおこすのは労働にあたるわけです。現代で言えば、電気のスイッチを入れることも火をおこすと同じ労働と見なされています。

 もちろん、現代のイスラエルの大分の人々は、そのように厳格に守っているわけではなく、むしろ厳格に守る人々は少数であると言ってもいいでしょう。しかし、今でもこの安息日規定は生きていて、そうした人々が住む地域には、安息日に車で通行することもできないし、金曜の日没までに、一切の公共機関、商店は閉まってしまい、交通機関も止まってしまうそうです。火を炊いてもいけないし、売買してもいけない。何かを書くのもよくない。その火を炊いてはならないという規定は、更に暗いからといって灯りをともしたり、調理をしたり、煙草を吸ったりもできないこと意味します。電気は火の一種と考えられるので、厳格に安息日を守ろうとすれば、電気製品のスイッチにさわることもできない。事の運転もだめだし、電話もだめです。冷蔵庫を開けると明りがつくので、その明かりをつかないようにしない限り、開けてはいけない。またホテルや病院には「安息日用」エレベーターがあって、ボタンに触らなくても昇ったり降りたりできるようにはしていますが、その代わり自動で一階ずつ止って行くわけです。イスラエルに旅行された方はそういうことを体験されたかも知れません。わたしたちの眼には、何とも理解しがたい、何と不自由なと思ってしまうわけです。

 しかし、ただそういう眼で、ここでのイエスの言葉を考えると、誤解が生まれるまでしょう。主イエスはそういう杓子定規さ、不自由さを否定しておられかのように、わたしたちは受け取ってしまうわけです。けれども注意して読むと、イエスは、そういう些細なことに目くじらをたてるな、と言っているのではありません。あるいは、もっと大目に見ろと言うのでもないし、規則には例外があるのだというように論じておられるのでもないのです。ダビデの例をあげて答えられるのですが、問題はその後の27節以下の言葉です。

 「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」
「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」、確かにこれは、わたしたちにとってはそのままでよく分かるような言葉、なるほどそうだと思える言葉と言えるでしょう。確かにファリサイ派の人たち、彼らは、結局人間を十杷一絡げにしてしまっているからです。 彼らはこのたいせつなことを見落としてしまっている、気がつかないのです。ですから、そういう意味ではこのキリストの問いは、「あなたがたに、本当に安息があるのか。安息、安んじる、そういうものがあるか」、そう逆に問うておられると言っていいでしょう。

 ここで主イエスが問いかけ給うこと、それは言い換えれば、ファリサイ派の人たちは、安息日が疑心暗鬼で人を見るようなものになってしまっていることではないでしょうか。イザヤ58章13節には、こんなことが言われています、「安息日に歩き回ることをやめ、わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日と呼び、これを尊び、旅をするのをやめ、したいことをし続けず、取り引きを慎むなら、そのとき、あなたは主を喜びとする」。安息日は、本来、喜びの日と呼び、尊ぶべき日と呼べる日なのだ、とイザヤは言うのです。しかし、まさしく、どこかで誰か、こっそり料理しているのではないか、隠れてうまいものを食ってる奴がいるんじゃないか、そういう目で他人を見てしまっている、あるいは、そういう眼で他者をいつのまにか見ている人間がいる。けれど、そういう目の中で、安息日を守ったところで、そこに本当に安息があるのか、主イエスの問いはそこにあるのではないか。逆に言えば、他人の目を気にし、恐れながら、そういう風に休めと言われたって、そこに本当に自由はあるだろうか。安息があるでしょうか。まるで、縄で縛られ、鞭で叩かれて、無理矢理休まされているようなものです。つまり、このキリストの言葉の背後には、あの麦の穂を積んでもいいぞ、あるいは、飢えた人々、貧しい人々のために収穫のときには、わざと刈り残せ、落ちた穂はそのままにしておきなさい、という神の優しさ、貧しい者、飢えた者への配慮、あるいは命への無条件のいたわりがあるのです。人間を十杷一絡げに扱うのではない、自由があると言っていいでしょう。

 しかし、わたしたちは、ここで言われている主イエスのもう一つの言葉を忘れてはならないのです。「だから、人の子は安息日の主でもある」。それは、決して「だから、人は安息日の主でもある」ではない。そうではなく、「人の子」、このお方、主イエスが「安息日の主」である。そして、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから・・・・・」、この「だから」を見落としてはならないのです。「だから」、「そのためにこそ」、「人の子」、ご自身は「安息日の主でもある」とイエスは言われる。だから、キリストは安らぎの主である、と。つまり、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」、「人の子は安息日の主でもある」、この二つは決して切り放せないと言っていいでしょう。どちらか一方だけであるのではないのです。このふたつの言葉を結ぶ、この「だから」、この「だから」に、あの腹がすかした人に、そっと麦の穂を残しておく神のあわれみが注がれている、わたしたちにあふれ通っていくのです。

 ですから、キリストは、わたしたちにも問うておられるのです。あなたは本当に安んじているか。そうではなくて、先入観というものにからめ取られたように、他人の目を恐れる恐れの中で、かんじがらめになってはいないか。結局人の考えることは分からない、あの人だってこうに違いない、ああに違いない、そのように疑心暗鬼になって、十杷一絡げに人を見てしまうような恐れの中にあなたはいないか。だから、わたしがあなたの安らぎの主となろう。あの麦の穂を摘むことが許される心のゆとり、安らぎを与えよう。あなたが苦しんでいるのなら、わたしが苦しもう。あなたが痛んでいるのなら、わたしが痛むのだ。だから、わたしは主である。そのような主である。あなたは一人ではない。あなた一人の苦しみ、あなた一人の痛みでは最早ない。あなたの苦しみ、あなたの痛みはわたしの苦しみ、痛みとしよう。そのように、わたしはあなたの主となろう。だから、恐れではなく、愛することを、あなたはこの日、知りなさい、と。

 とは言え、それ言われても、それでもわたしたちは本当に納得するということがないかも知れません。むしろ、そうは言っても安らげないのです。もちろん、つかの間の安らぎなら、わたしたちにもあるでしょう。何か責任ある仕事を終えたとき、あるいはやっかいなこと、問題が解決したり、病気が直ったりする、気にかかったいたことがなくなるとホッとする。問題がなくならない限り、あるいは忘れない限り、本当には安らぐことのないのです。しかし、わたしが言うまでもなくそれ以上に人生は過酷です。また直ぐに予想もつかない事態が起きてくる。親であれば子どものことが、あるいは病気のことが、責任が重ければ重いほど、気になればなるほど際限もなく不安にさせるのです。

 そういう自分をあらためて見つめると気づくことがあります。不安、安らぐことのないとき、大概わたしは、ともかく何もかも自分ひとりで考え、ひとりで何かをしよう、成し遂げようとしているのです。「もしかしたら、自分に出来ないことまでしようとしているのではないか」、そういうゆとり、先のことを考えたり、あるいは周囲を見回すゆとり、心の余裕をなくしているのです。一見がんばってとても健気なわけです。でもそのとき他者が見えない。自分しか見えない。だから、ひとりでパニックになり、あるいは誰もわたしのことを分かってくれないとひがんだりしている。そうして、疑心暗鬼で物事を見出すのです。

そうすると、見えてくることがあります。見えるというより、わたしたち一人ひとりに注がれているこのキリストのまなざしに気づくのです。「すべて重荷を負うている人は、わたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」、そのように言い給うキリストのまなざしが、重荷を負うたわたしたちを包んでいるのです。苦労が耐えない、不安のなくならないわたしでも、それがどんなに重荷でも、それがなくなったのではないのに、安らぐときがあります。それは、そのわたしを思いがけず喜んでくれる誰かがいるときです。痛みも苦労も、そのときすっ飛んでいくのです。それは、わたしの人知れぬ、見えない、隠れた苦労を見ていてくれる、ああ、見ていて、知っていてくれたんだ、それが苦労を吹き飛ばすのです。

 安息日、わたしたちにとってのこの日曜日は、主イエスが、そのようにわたしたちを知り、喜んでいてくださる日だと言っていい。あの麦の穂を積んでもいいぞ、あるいは、飢えた人々、貧しい人々のために収穫のときには、わざと刈り残せ、落ちた穂はそのままにしておきなさい、という神は、わたしたちのそのような人知れぬ働き、その心を、隠れたところを見ていてくださるお方なのです。そして、誰よりわたし自身を、あなたそのものを慈しみ、喜んでくださるのです。安息日は、その喜びの日なのです 。

 そして、この福音書で、この主イエスが何をなしておられるかで、更に気づくことがあります。これも、何をなしておられるかと言うより、キリストだけがしておられないことです。それは、こういうことです。弟子たちは麦の実を食べました。ダビデも、その共の者たちもパンを食べたと言われています。しかし、キリストは、ダビデは食べても、主イエスは何も食べておられないのです。それが「安息日の主」なのです。この箇所でまるで弟子たちは、そのような主イエスにさえ何も気づいていないかのようです。

 しかし、何より、そのように主イエスが、わたしたちを支えてくださっているのです。わたしの重荷、苦しみ、人知れぬ苦労、しかし、主はそこにもそのまなざしを注ぎ、そこに、ご自身の愛を注ぎ込んでくださっているのです。