2009年7月12日 聖霊降臨後第6主日 「芥子種のわたしだから」

マルコ4章26節~34節

 
説教  「芥子種のわたしだから」  大和 淳 師
イエスはまた言われた、「神の王国はこのようなものである.ある人が地に種をまき、
そして夜昼、寝起きしていると、その種は芽を出し伸びていくが、どのようにしてそうなるのか、その人は知らない。
地は自ずから実を結ぶのであり、初めに葉、次に穂、次に穂の中に十分実った穀粒ができる。
しかし実が熟すると、直ちに人はかまを入れる.刈り入れ時が来たからである」。
イエスはまた言われた、「神の王国をどのようにたとえようか、またどんなたとえで言い表そうか?
それは一粒のからし種のようなものである.それは地にまかれる時、地上のどの種よりも小さい。
それがまかれると、伸びてどの野菜よりも大きくなり、大きな枝を出して、空の鳥がその陰に宿ることができるほどになる」。
イエスはそのような多くのたとえで、彼らの聞くことができる力に応じて、御言を語られた.
彼はたとえによらないでは、何も語られなかった.しかしご自分の弟子たちには、ひそかにすべての事を解き明かされた。

 マルコ福音書の4章には主イエスの譬話がまとめて記されていますが、今日の日課は神の国が成長する種にたとえられています。今日は特に後半の譬、30節以下の「からし種の譬」を中心にみ言葉を聴いてまいりたいと思うのですが、「神の国を何に比べようか。また、どんなたとえで示そうか」、主イエスはまずそう言われます。

 さて「神の国を何に比べようか。また、どんなたとえで示そうか」 ― 恐らく主イエスはそう切り出されて、そしてここでいったん言葉を切られたのでしょう。イエスは静かな間を置いて、そうしてしばらく聴いている弟子たちや人々をじっと見つめられておられる ― そんな光景が浮かんできます。そして、その主イエスに耳を傾けている人々も、今や神の国が、どんなものにたとえられるのか、また、かたずをのんで主を見つめていたことでしょう。

 そのそこにいる人々、それは様々な苦しみをもった人々でした。たとえばこの後5章25節に登場する「十二年間も長血に苦しめられていた」女性、あるいは、エルサレムの神殿で、全財産の「レプタ2枚」を捧げたやもめのような境遇の人がそこにいたことでしょう。またレビのような徴税人として誰より蔑まれていた人々もいたでしょう。そして、病や悪霊に苦しむ人々、つまり、そこにいる人々、この主イエスの言葉に耳を傾けているのは「神の国」とはほど遠い、少なくともそう思われ、そして何より自らもそう思っていた人々なのです。それらの人々に、いやそのような人々にこそ主イエスは神の国を語られようとされる、その一人ひとりに、主は神の国を語り給うのです。しかも、最も小さなもの、芥子種として・・・。
 主イエスは、よく吟味し、神の国にふさわしいものとしてここで一粒の芥子種を、地上の中で最も小さい種として、たとえに引かれます。つまり主イエスは、「神の国」を譬えようとされたとき、地上で何より最も小さいものを考えられたのです。何よりも最も小さなものを指し示されようとされた。そうして、真に種の中でも最も小さい、砂粒のような芥子種を選ばれたのです。しかも、最も小さなものでありながら、「どんな野菜より大きくなる」、最も大きなものとしての芥子種なのです。そのようにして神の国を示されるのです。神の国とは何と意外なものでしょう。何と想像もつかないものでしょうか。
 それ故、驚くほかはない神の国なのです。芥子種、わたしどもの目に最も小さく見えるそれは、よくよく注意して見なければ、見過ごしてしまう、なくしてしまうほどの小ささ、今は何の役にも立たないように見えるものなのです。だか、驚くことに、それは、巨大な木となる。
そのように神の国は、わたしどもの前に、わたしたちのうちにある。わたしたちが、気づかず、目にも止めない小さな、もっとも小さなもの、それが神の国なのだ、と・・・。「蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」もっとも小さな種が「どんな野菜よりも大きくなる」、あんな小さな種、目にも留めなかったのに、と驚く他ない大きなもの、それが神の国なのだ、と。
 主イエスは、人々を見つめながら語られたのです。誰一人神の国に相応しいとは思っていないそれらの人々を。神の国から閉め出されている、そう思わざる得なかった人々。真に神の国からほど遠い人生、そこにあるのは病、不幸、貧しさ、そして罪深さ・・・何処をどう探しても神の国など見あたらない、このわたしの人生・・・。それがありのままのわたしの人生。だから、このイエスの前にいる人々は、こう思っていたと言っていいでしょう。「神の国、主よ、一体何処をどう探せばいいのでしょう。そのかけらさえ、わたしたちにはないのです」と。
 だが、「神の国」、それは芥子種、わたしたちの眼には見えない程の小さな小さな芥子種、主イエスは慈しみを込めて、その人々に語り給うのです。何一つ相応しくない、全くそのかけらもないかのように見えるこの生活、だが、芥子種、神の国は芥子種、あなたに既に神の国は来ている。あなたの内に既に神の国はある、芥子種のように!と。
 しかし、その最も小さな芥子種、それは何と言ってもこのかた、何よりこの主イエス・キリストご自身ではないでしょうか。このかたは、いと小さきものとして地上を歩まれた方、キリストが世に来ておられることは、地上の最も小さなものであったのです。実際人々は貧しいこのナザレ人、十字架の刑死人が主であり給う事実に、誰も目をくれませんでした。まことに「見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解でき」なかったのです。地に落ちる一粒の芥子種と同じように、誰からも無視され、気にも止められなかったのです。そのようにして、神は、芥子種、即ち、主なるキリストを地上に植えられたのです。神の大いさ、その御心は、最も小さなもの、このキリストを通して、十字架を通して現されるのです。
 何よりこの世は、大きなもの、最大なものに向かっていくことを思います。最大を求めてやまない、そう言っていいでしょう。個人においても、また国家、社会の単位においても。誰もができるだけ大いなる者となろう、あるいは大きなものに目を向けてしまうのです。それ故、今もまた、この芥子種、キリストのいと小ささ、その貧しさを、今も誰も顧みようとはしないのだと言ってもいいでしょう。人は十字架の小ささ、その愚かさにつまづくのです。
 それにしてもこのキリスト、この神はなんと小さなものとなられたことでしょうか。なんと貧しいものとなられたことでしょうか。クリスマスの出来事を思い起こしてみましょう。この主がこの世に来られ給うときのその晩のことを。家畜小屋の飼い葉桶の中のキリストを。ただ羊飼いたちと、三人の異邦の人だけが訪れた、ベツレヘムの片田舎の出来事を。しかし、御使いは天上で歌います。「天にはみさかえ、地には平和」と。そして、何と言っても十字架、主の受難。打ち捨てられたこの神の栄光を・・・・・。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、そう叫んだこれ以上ないみじめな死。最も小さな者となられた神、主イエス・キリスト。 主は、わたしどもにとって、いつも最も小さなものであり給うのです。あなたよりもっと小さなものとなられておられるのです。あなたよりもっと小さなもの、芥子種に。
 そうです、主イエスこそ芥子種、わたしたちの芥子種、そのようにわたしたちの中におられるのです。何故なら、まことにわたしどもが、実際、この世において、真に小さなからし種であるからです。そうです、主は見ておられます、わたしたち一人ひとりを見つめておられます。まことに小さな小さな芥子粒のようなあなたを。ありのままのあなたを。
 だがしかし、わたしたち自身は、実はそのように自分を見ようとしないのです。大木とは言わないまでも、襲い来る嵐や風をしのげる位の安心を得られるような、せめてそれ位の太い幹を持ち、しっかりと根を張り、安らぐことの出来る枝と葉を茂らせるものでありたいとどこかで常に願っているからです。少しでも力を、あるいは数を多くしようと。それは、わたしたちの地位とか才能、能力というようなことだけではありません。たとえば、この信仰と言うことさえ、わたしたちはそのように願い、考えるのです。揺るぎない、強い信仰というように。それがあれば、苦しみなど無い、悲しみもない、平安が得られるかのように。
 しかし、主は見ておられます、わたしたち一人ひとりを、ありのままのあなたを見つめておられます。まことにあなたがたは小さな小さな芥子種。今は何もない小さな芥子種。しかし、そのあなたが神の国、何故なら、私が共にいるからだ。だから、自分の小ささを恐れなくてよい。何もないことに絶望する必要もない。たとえあなたの目には見えず、耳には聞こえなくても、理解できなくても、あなたは芥子種、苦しみを通して、悲しみを通して種は生きている、成長している。「成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
 いと小さき芥子種、それは、この主のほかに依るべきものを持たないもののことです。なにもないが故に、この主に愛されるもののことです。最早どうしようもないほどに、救われるすべがないが故に、ただこの主の愛、まことの愛だけが現れるために、もっとも小さなものとして、わたしどもは、この主の前に立っている、生かされているのです。この主のほかに依るべきものを持たないわたしたちなのです。なにもないが故に、主に愛さていれる、そこに、わたしたちの中に神の国は既にあるのです。
 それ故、それはその小さき者であるわたしたち、なにもないわたし、しかし、本当に何もないのではない。たとえ、わたしの目には見えず、耳には聞こえなくても、理解できなくても、まさに27節で「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」、そう語られているように、この芥子種は成長している、わたしたちの中で働いているのだということ。
 だから、何もない、小さなわたしであっても、生きていい、生きていくことができる、ありのままに生きる、つまり、どんなわたしであっても出来ることがあるのです。むしろ、自分がいかほどか出来る人間であると思っている限り、わたしどもは、この主によって今を生かされている、わたしたちの内に蒔かれてある芥子種のことを忘れてしまう、そう言ってもいいでしょう。そして、それはやがて、あれが出来ないこれが出来ない、そのような他者を蔑んだり、あるいは羨んだりしていく生活となってします。でも、キリストはあの十字架を通して、決して失われることなく、ありのままに、何もないわたしと共にいてくださるのです。
 だから、苦しみの中で、決してあきらめる必要はない。悲しみの中で絶望してしまう必要もないのです。自分の不信仰、罪に失望する必要はないのです。いいえ、主イエスはそのわたしの中でこそ、悲しみを通して、苦しみを通して働く、そのようにわたしたちは生かされていく、そのようにしっかりとこの方はわたしたちをつないでくだっているのです。