2009年7月19日 聖霊降臨後第7主日 「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」

マルコ4章35節~41節

 
説教  「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」  大和 淳 師
その日の夕方になって、イエスは彼らに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。
そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスが舟に乗っておられるのを、そのまま連れて行った.他の舟も彼と一緒であった。
すると大きな突風が起こって、波が舟に打ち込み、そのために舟は水浸しになりそうであった。
ところが、イエスはともで枕をして眠っておられた。そこで、彼らは彼を起こして言った、「先生、わたしたちが滅びても構わないのですか?」
イエスは目を覚まして、風をしかりつけ、海に「黙れ! 静まれ!」と言われた。すると風はやんで、大なぎになった。
イエスは彼らに言われた、「なぜそんなに臆病なのか? 信仰のないのはどうしたことか?」
彼らはひどくおびえて、互いに言った、「この方はいったいどなただろう.風や海でさえ彼に従うとは?」

 今日の福音書は主イエスが嵐を鎮め給うたという出来事です。聖書は、この弟子たちが夜、湖を舟で渡っていて、突然嵐にあった、しかし、イエスがそれを一言で鎮めたというこの不思議な出来事を通して、一体、何を伝えようとしているのでしょうか。それは単にイエスは嵐を静めることができる、そういうことを聖書は私たちに伝えようとしているのではありません。あるいは、何か人生の困難に直面した時、神に頼れば切り抜けられるというようないわば便法のようなものを語っているのでのありません。そうではなく、嵐を鎮めるという出来事を通して、聖書はわたしたちに対して今もこのキリストはどのようなお方であるのか。わたしたちの人生の根本的意味を、わたしたちに伝えているのです。そのように、この福音書の語るところを見ていきたいのですが、それは「さてその日、夕方になると、イエスは弟子たちに、『向こう岸へ渡ろう』と言われた。そこで、彼らは群衆をあとに残し、イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した。ほかの舟も一緒に行った。」(35、36節)、そのように始まります。既に日が暮れている。その夜の暗闇の中へ舟が漕ぎ出されていきます。「すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。」(37節)そこで弟子たちは、思いがけない危機に直面したのです。

  この弟子たちは漁師でした。つまり、海について誰よりも知っている彼らであったのです。だから、主イエスが「向こう岸に渡ろう」と言われたとき、彼らはすぐさま「イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した」と言えるでしょう。しかし、「すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」。それで、そもそも、ことここに至るまで、ペトロをはじめ、弟子たちは、イエスの存在を忘れていたのではないか。漁師の彼らにとって、舟の中、それは、まさに彼らの生活そのものと言っていい訳ですが、海に関する知識、技術、経験を持っている彼らには、イエス、先生は忘れていい、何の役に立たない無用の存在でしかなかったのではないかということです。そうして「イエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた」(38節)。
 しかし、突然の嵐に漁師の彼らは、自分たちが直面している事態から、どのような恐ろしい結末が起こるのかを直感した。「そこで、弟子たちはイエスをおこして、『先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか』と言った。」(〃)何と言ってもわたしどもは、この物語で主イエスが、「風をしかり、海にむかって、『静まれ、黙れ』と言われると、風はやんで、大なぎになった。」(39節)、そのことに目をやり、驚いたり、また訝しんだりするわけですが、しかし、そもそもその嵐の中で、「舳の方でまくらをして、眠って」いたと記されていること自体、何よりまず驚くべきことなのではないでしょうか。実際誰も嵐の海の中、沈みかけている舟の中で全く眠っていることなど出来ないはずです。誰もが助かろうと懸命になっている。必死に闘っている。ところがあろうことに、このお方は無神経にも眠っておられた。みなさんも経験があるでしょう。もう切羽詰まって、どうしてよいか分からない、そういうようなとき、その傍らに我関せずとばかりにしている人がいたら、腹が立つ。何だ、この人は!と。弟子たちもまさに、そのように主イエスに腹を立てているわけです。
 しかし、ここでこそ何より、最も大事なことを、福音書は我々に告げています。それは、単に主が嵐を鎮めることが出来たということより、もっと大事なことと言えるかも知れません。それはこういうことです。ここで弟子たちが自分たちの身に及んだその危機の中で、そのように怒って訴えることができる方がいるということ自体、既に彼らには希望があり、救われているのです。つまり、彼らは決して孤独ではない。何で自分たちがこんな苦しまねばならないのか、まことに腹ただしい、恨むような思いであっても、その苦しみのそこから見つめることのできる、それどころか、それまで全く眠るままにしていた、無用の存在としてたにもかかわらず、こうしてくってかかることの出来る方が既におられるのです。(イエスと弟子たちとどちらが無神経なのか、わたしたちは考えずにはいられません。)

 さて実は聖書の中で「眠る」ことは、特に旧約聖書では多くの場合、死に関わっています。そしてここでのイエスの「枕して」は、わたしたちが直ぐ想像するように、安らに寝入っている様を表しているというより、イエスは完全に横になっていた、そこ、舟の後ろの方で頭を横たえていた状態をそのまま表現し伝えているとも言えます。つまり、言葉を換えて言えば、全くの無力でおられた、もっとはっきり言えばイエスは死んでいる、死んだも同然の状態であったということを暗示しているのです。それは、また弟子たちがそのようにしたと言えるわけですが、まるで墓の中にあるように横たえていた、と。弟子たちの「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」というこのイエスへの非難の言葉、弟子たちの叫びは、そのイエスの無力、死が、まさに自分たちの滅びに関わっているということを言い表しているのです。
 と言うのも、この「おぼれる」と新共同訳聖書が訳しているもともとのギリシャ語は、本来、滅びる、死ぬ、消滅するという意味の言葉で、たとえばヨハネ3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とこの「滅びる」と同じ言葉です。あるいは、マルコ8章35節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」の「失う」、また3章6節では「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」という「殺そう」と訳されています。昔の文語訳聖書は「師よ、われらの亡ぶるを顧み給はわぬか」となっていました。つまり大変強い表現を聖書はここで使っています。ここでイエスの眠りとは、彼ら自身の滅び、死に関わっている、そう言い表されているのです。ですから、彼らは、そこで苦しいときの神頼みのように「助けてください」と願ったというのではないのです。キリストの無力に耐えられなくなって「我々が滅んでもかまわないのか」、なりふり構わずそう訴える。真に福音書は全く赤裸に人間の姿を描き出しているのです。それが、十字架を前にしたわたしたちの等しい姿である、と。
 ここでわたしたちが聴くのはこう言うことです、夕方、すなわち、暗闇のとき。そして嵐、荒波。沈みかける舟。すなわち、滅び、死。つまりそれはそのまま私たちの現実なのです。ところが4章1節以下によれば、この弟子たちは、「神の国の奥義」を既に聞いていたのです。そうです。私たちと同じようにみ言葉を聞いてきたのです。いわば、その礼拝からこの世へと、自分たちの生活の中へと出ていったのです。イエスと共に!
 だから、ここで大事なことは、わたしたちがイエスについて何かを、教義、聖書の教えを納得している、知っているということではない。ただ、このイエスがこのわたしという舟、現実の中に、信仰のないままに共におられるということなのです。しかし、そのイエスこそ、まさに十字架で死なれたキリストなのです。わたしたちは既にその十字架のイエスと共にいるのだ、そういうことです。だから、苦しみの中でイエスは眠っておられる、少なくともわたしたちの眼にはそうとしか見えない。いや、実は、わたしたちがそうしたのです。だあから、イエスと共にいるということはだから、イエスと、神と共に生きるということは、何も人生に重荷がない、教会の中に問題がないということではない。むしろ、問題がある、しかしそこにこの十字架の主がおられる。
 それで、弟子たちの叫びに〈イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。〉(39節)この起きあがると言う言葉も、実はまさに復活すると同じ言葉が使われています。そして、ここでもわたしたちは、この海ということに特別な意味が聖書にあるということを読みとらなければなりません。旧約聖書において、荒れる海、嵐の海は、神の怒りを象徴しました。旧約聖書の中のヨナ書では(これも不思議な物語ですが)、神の怒りをかったヨナは海に捨てられることによって、嵐、波が収まった、そのように、この方イエスもご自身を捨てて神の怒りを収め給うのです。眠っておられたとは、実はそのように全くご自身を捨ててわたしたちの中に、共にいるということ、 まさにいつもわたしたち一つ一つの舟が重荷を抱え、大きな問題を担っているのです。しかし、問題がないこと、重荷がないこと、苦しみ、悲しみはないこと、それが平安ではないのです。むしろ、わたしの重荷、苦しみ、悲しみを通してじっと耳を傾けるものがある、そこに十字架の主がおられる、それが、わたしたちの人生なのです。
 だから、わたしたちが、また人生の嵐に遭うとき、この弟子たちのように、主イエスが眠っておられるのを見る、つまり、この人生の真ん中で「イエスよ、わたしたちが滅びてもかまわないのですか」、そうわたしが叫びたくなる、叫んでしまうようなとき、それは、そもそも、わたしたち自身がまた、この弟子たちのように、この方が共にいてくださるのに、この方をただ心に留めていなかっただけ、忘れ去っていただけ、中心ではなく片隅に追いやっていたのです。そうして、わたしどもは、この方を十字架につけたのです。そのようにして、このイエス・キリストは、わたしたちの苦難、滅びの中で、わたしたちのために十字架にかかっておられるお方なのです。
 イエスは言われます。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」これは聖書の私たちへの問いかけです。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」あなたがたが、ここから自分の生活に出ていく、そこに共におられるのは誰か。この週も、私たちは嵐に出会うかも知れません。イエスよ、わたしたちが滅びてもかまわないのですか、そう叫びたくなることが待っている。わたしたちのこの眼には、もう滅ぶしかない、それしか写らない。でもあなたには、あなたのためにご自身を棄ててまであなたと共におられる、十字架の主が共におられるのだと。力強くあなたと共に。だから「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」、わたしたちにそ語りかけてくださる、この主の言葉を心に刻んで重荷、苦しみ、悲しみの中を歩み通していけるのです。