2009年9月6日 聖霊降臨後第14主日 「恵みのパン屑」

マルコ 7章24-30節 

 
説教  「恵みのパン屑」  大和 淳 師
イエスはそこから立ち上がって、ツロとシドンの地方へ行かれた。彼はある家に入って、だれにも知られたくないと思われた.しかし、隠れていることはできなかった。
汚れた霊にとりつかれた小さい娘を持つ女が、イエスのことを聞くと、すぐにやって来て、彼の足もとにひれ伏した。
その女はギリシャ人で、スロ・フェニキヤ族であった。彼女はイエスに、娘から悪鬼を追い出してくださるようにとお願いした。
イエスは彼女に言われた、「まず子供たちを満腹させなさい.なぜなら子供たちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくないからだ」。
すると、彼女は答えて言った、「主よ、そうです.しかし、食卓の下の子犬でさえ、子供たちのパンくずはいただきます」。
そこで、イエスは彼女に言われた、「その言でよろしい.行きなさい。悪鬼はあなたの娘から出て行った」。
彼女が家に戻って見ると、その小さい子供は寝床に伏しており、悪鬼は出てしまっていた。

 今日の福音書、「ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれ」の一人の女性が登場します。この名もない人は、ユダヤ人から見れば救いにもれる人、異邦人であったのです。この人が「すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した」と言いますが、それは、既にイエスの説教を聞き、またその御業を目撃した人から伝え聞いたからでしょう。と言うのもこの福音書のもっと前、3章8節を読みますと、このティルスの地方からも多くの人々が、既にイエスのもとに押しかけて来たことが記されています。「エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た」と。いわばそうした人々の噂話のような話を伝え聞いて、この人は、すぐにイエスの足下に平伏したのでしょう。噂話のような断片的な人々の言葉から、この人は何をとらえたのでしょうか。聖書は、その辺の事情については何も記していません。しかし、この女性はたとえ、噂話であったとしても、イエスのこと、まさしく福音を聞いたのです。つまり、この人自身、後にこの主イエスに言う「食卓」からこぼれ落ちた「パンくず」を既に拾っていたのです。わたしどもから見ればパン屑のような、福音の断片が、この人を立ち上がらせた。既に福音が、この女をとらえています。本当に小さな欠片のようなみ言葉がわたしたちの心を最初にとらえ、動かし、立ち上がらせる、それが福音なのです。

わたしどもは漠然とこんな風に考えているかも知れません。「もっと充分に豊に、あるいは力強く福音の言葉が語られ、聞かれなければ、この人のように立ち上がることは出来ない、人生を変えることは出来ない」と。そのような目でみると、この人の行動は実に驚くべきことです。しかし、そんな彼女が拾った、力となった言葉とは、それは6章35節以下の、あの五千人の人々を五つのパンと魚二匹で養った物語で、その後「そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の篭にいっぱいになった」と言う、そのパン屑、その後、嵐の湖上で、弟子たちは「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていた」(6章52節)と記されていますが、弟子たちは「パンの出来事を理解できなかった」、いわば、そのようにその弟子たちが食べ残したパン屑、そのパン屑のような福音こそが、この人を立ち上がらせたのです。

さて、この人は悪霊につかれた娘、子供をかかえて、深い絶望の底にいたのでしょう。マタイでは、この母親は、叫び続けたと言います。自己を取り乱して、切にイエスに願ったと言うのです。最早娘のためどころか、自分自身のために、助けて下さい、と泣き叫ばなければならないこの人です。しかし、イエスは何とこの女の願いを退けてしまうのです。しかも、拒否などというなまやさしいものではありません。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」、取り繕う間もないほどの拒絶です。マタイ福音書では、もっと徹底して、イエスは一言も語らなかったと言います。そして、弟子たちはまるで犬でも追い払うかのように、この女を扱っています。

何故、これ程まで厳しい拒絶をなされ給うのでしょうか。もう一度この物語の最初にかえってみますとイエスは「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった」(24節)、「だれにも知られたくないと思っておられた」と記されています。そういう意味では、イエスは、ここでは全ての人々を退けようとした、そう考えていいのではないか。人々は、イエスをもてはやし、追い求めています。病気を治して欲しい、悪霊を追い出して欲しい、そういう願いをもってくる訳です。しかし、今や十字架の時が迫っている、これらの人々、いや、わたしたち全ての命と向き合うために一人になり給う主イエスがおられるのです。

だから、少なくともこの人自身、あるいはこの母親一人を拒否したのではない。そういうイエスの否、拒否、マタイの記すところの沈黙、この女は、いわば代表のようにして、この命に向き合う方に相対している訳です。もちろん、それはこの人が、他の人々と違って、どこか優れている、見所があるという訳ではない。やはり、イエスを追い求める他の人々と同じような不幸を背負い、それ故に必死でイエスにすがるわけです。もっとも、他の人々とは違って、この女は、イエスの足下にひれ伏した、ひれ伏す信仰をもっていた、そう言えるかも知れません。けれど、そのようなひたむきささえ、どこか、最早てこでも動かないような頑固さを感じないでしょうか。切羽詰まれば詰まるほど、わたしどもは、どうしようもないエゴ、自己中心になっていくのです。熱心になればなるほど、最早そのこと以外に考えられなくなる、自己を押し通してしまうのです。イエスは、そのような人間、一人の生身の人と向き合っているのです。このイエスの激しいというより、これ以上ない拒否は、女がひたむきであればあるほど、そのひたむきさ、その切実さ、その彼女の苦しさと真剣に向き合っているイエスなのです。

確かに、「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンをとって小犬に投げてやるのはよろしくない」。それは本当に耳を塞ぎたくなるような言葉です。だが、それは、形や状況を変えてわたしたちもまたこの人生の中の様々な苦しみの中でそれぞれ等しく体験することです。そして、多くの人は、大抵そのような拒否に出遭うと失望してしまうのではないでしょうか。そして、失望や疑いの中で、孤独に耐え切れず、願いや望みを、いいえ、自分自身を放棄してしまうのです。「所詮、救いなどないのだ」と。しかし今この人が相対しているこの主との一対一の世界、この深い孤独は、本当に冷たい放棄された、見捨てられた者の孤独なのでしょうか。何よりこの人の命、救いがかかっているのです。今、単なる情けが、一時の気休めが必要なのではない、この方は、ご自身の命をかけてこの人に相対しています。

そして、このイエスの拒否に、この人はふてくされたり、かんしゃくを起こしたりするのではなく、本当に素直に対しています。つまりイエスの沈黙、拒絶、それは、冷たい岩のようなものでは決してないということです。「主よ、しかし・・・」と言える自由がある。「なるほど、お言葉通りです。あなたの仰るとおり、わたしの願いは、どこまでも筋の通らぬもの、エゴそのものです。犬と劣らぬものです。・・しかし、主よ」と。確かに熱心になればなるほど、頑なまでに自己中心になるわたしどもです。正しければ正しいほど、エゴに深くからみ取られるわたしたちです。だからこそ、断固とした厳しいまでの拒否の中で、イエスは、しかし、真剣にわたしたちと向き合ってくださるのです。

裁かれて、地獄の火に真っ先に投げ込まれても致し方がないわたしなのです。でも、信仰とは何でしょうか。そのようなエゴを自分で捨てていくことでしょうか。そうではなく、そのような自分が、あえて、「しかし、主よ」とこの方に向き合っていけることではないか。図々しいのは分かっています。虫のいいのは分かっています。「でも、食卓の下にいる子犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。この「主よ、しかし」の「しかし」を支えるもの、「でも」を支えるもの。それは、この人のエゴ、わたしのエゴではないのです。では、何がそこにあるのでしょうか?

確かにこのイエスは、あたかもこの人の人間のエゴに説得され、打ち負けたかのようです。しかし、福音書には、そのようにイエスが本当に説得されるところがあります。「ゲッセマネの祈り」です。あの十字架、それを目前にして「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り」給うイエスです。しかし、イエスは、神に説き伏せられるように、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と受け入れるのです。父なる神の沈黙、拒否を受け入れ給うのです。そこではイエスご自身がこの女性なのです。いえ、この方だけが、この女性の立場に立ち給うのです。神の否を、この人、わたしに対する否を、ご自分の死をもって受け入れ給うのです。この方の死をもって、わたしたちの命が始まるために。

先ほど、「信仰とは何か。そのようなエゴを自分で切り捨てる、切り捨てていくことではなく、そのような自分が、あえて、「しかし、主よ」とこの方に言うことではないか」と申しました。だから、わたしは罰せられても仕方がありません。拒否されても仕方がありません、と去っていくことではないのです。そのような自分でありながら、尚、「しかし、主よ」と、この方に迫っていける、信頼していいのです。この方は、わたしどもを拒絶の壁の外に冷たく放り出すのではないのです。信仰とは、この「しかし」を、「でも」と言える自由をもっているということです。自分の正しさ、主張をあっさり捨てられる自由をもっていることです。だから、この女の答えは輝いています。自分を犬にまでなぞらえるような低きに立ちながら、しかし、卑屈になるのでなく、しっかりとこの方を見つめています。

この方の拒否、否、それが厳しければ厳しい程、わたしどもには救いがあるのです。自分の救いようのなさ、そういうことをつくづく感じて、ここに座っている方がいませんか。こういう自分はどうしようもないんじゃないか、そういう思いでおられる方もいるかも知れません。自分でしてしまったこと、しなかったこと、あるいは、他人のしたことを許せないでいる自分であるかも知れません。キリストはまた否のお方、厳しく裁くことのできるお方です。しかし、それは徹頭徹尾こういうことです。わたしどもは、最早自分で自分を裁いてはならないのです。わたしどもは、他人を裁くことはできないと同様、自分自身も裁いてはならない、必要はないのです。それは、このキリストが独りなされることです。だから、委ねる。この方を知る者は、おどおどしつつこの方の前にでなくていい。そこにおられるのは、最早わたしたちを裁くのではなく、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、そのように十字架でわたしたちのために叫んだお方だからです。パン屑を拾ったこの人は、わたしたちはことごとくまさしく十字架と向き合うのです。突き放されたそこ、見捨てられたような瞬間、そこでこそ主イエスご自身が、苦しみの中でこそわたしどもを真正面に向き合っていてくださるからです。見捨てられるべき人間の前に、しかしこの方、真の神のみ子がおられるのです。

 みなさんも、これまで聖書、つまり、み言葉を聴いてこられたことでしょう。礼拝において、あるいは聖書研究や、また個人個人でも、中にはよく分からないままに、ぴんと来ないと心の奥にしまってそのままになっているみ言葉もあるでしょう。本当に自分を支えるものとは思えないままに。そして、このわたしたち自身、また教会は何と小さい、みすぼらしいのだろうと感じているかも知れません。まさにパン屑のような存在のように。

だが、そのパン屑を手にしてこそ、わたしたちはこの主と相対しています。いいえ、まさに「パン屑」を通してこそ、主イエスはわたしを受け入れ、今も働き給うのです。

 だから、この人は、あの見窄らしさの中で、取り乱した中で、自分を失ってしまうのではなく、何処までも低くなりながら、犬までに落されるような低みの中で、イエスと対等に「わたし」であるのです。何という自由の中にこの女はあるでしょう。「主よ、お言葉通りです」、「然り、主よ」。けれど、「でも、食卓の下にいる小犬も、子供のパンくずはいただきます」。この答えが見事なのは、この人の機智でも利発さでもなく、あの切羽つまった緊張感が、少しも失われることなく、更に一歩前に進み出て行くことができるからです。かつて、嵐の中で、イエスは弟子たちに「恐れるな。信じなさい」と命じ給うた、その信仰が、弟子たちではなく、この異邦の女の身に起きています。信じることのできないわたしたちです。常に身勝手さ、エゴの渦まくわたしたちです。拒絶されても当然の自分です。だが、恐れ戦くことはないのです。諦めてはならないのです。「然り、主よ」、と言える方がおられるのです。わたしの真正面に向き合ってくださる方がおられるのです。だからこそ、「けれど、でも」とこの方に言えるのです。どんなに自分が罪深く、相応しくない者であっても。

信仰とは、このかたへの絶対服従です。いわば、自分を捨て、自分の十字架をおうて従わなければならない、いわば子犬のごとく従う謙遜です。けれど、それだけでは信仰の一面なのです。それでもなお、と叫ぶ恵みの余地が、自由が開かれているのです。女は、「主よ、お言葉通りです」と、主に服従します。しかし、それは全く奴隷の服従、屈従ではありません。イエスと一対一と向き合っている「わたし」です。ありのままのわたしから火の出るような一対一のイエスとの関係から生まれてくるわたしです。この人は、このイエスによって、あの悲劇の中の自分、苦しみの中にある自分をさえ受け入れることができたのです。自分の境遇を、自分自身をありのままに受け入れているのです。もし、何でわたしがこんな目に合わなければならないのか、何でわたしだけが苦しまなければならないのか、そんな思いに女があったとしたら、この信頼は出てこないでしょう。言えば不平も言えたでしょう。語れば尽きない苦しみです。人知れず流した涙があるのです。しかし、「主よ、お言葉通りです」。女は、しっかりと自分を取り戻します。彼女は自分の十字架を負うことが出来たのです。このイエスに支えられて、十字架を負うのです。そして、それでもなお、という恵みの内に生かされます。何一つ失うことなく、こぼれたパンくずから、何と大きな確かな世界を受け取ったことでしょう。それ故、イエスはこの女の言葉を我がことのように喜んでおられるのです。それは、わたしたちすべてを喜んでくださるということ、誰一人失われてはならないが故に、「主よ、お言葉通りです」、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」、この女の告白をわたしたちも担っていい、それを喜ぶお方があなたと共にいるのです。