2010年4月11日 復活節第1主日 「イエスを信じて生きる・・・エマオの道から」

ルカによる福音書 24章13-35節
五十嵐 誠 師

◆エマオで現れる
24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、24:14 この一切の出来事について話し合っていた。24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。24:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。24:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。24:33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、24:34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

(説教要旨)

先週はイエスの復活を祝う「復活祭・イースター」でした。それぞれ各自、その喜びを受けられたと思います。その復活の日の夕方の出来事を今日の福音書は伝えています。普通は「エマオへの途上で」というタイトルで知られています。二人の弟子の復活の日の夕暮れの失意と驚き、そして、喜びが書かれています。そこからの学びをしましょう。

この日の二人の道は悲しみと失意の歩みでした。彼らは一切の出来事を話し、論じていたのですが、それはイエスのこと、特に十字架と死、復活についてでした。でもそれは彼らにとっては分からないことでした。イエスに信頼して、希望と期待を寄せたが、失望に終わった。復活の出来事も・墓が空であったが、その意味を悟らなかった。

彼らが話しあっていると、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言いながらよってきた方がいました。二人は驚いています。あの大きな出来事を知らないなんて!二人は自分たちが話していたことを・とまどいと失望を語りました。するとその人は 「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」のでした。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」とその人、つまりイエスは言いました。

彼らはイエスの復活を話しながら、悲しそうな顔をしていたのです。イエスの復活が彼らにとって力にならなかったのです。自分と関係ないと出来事として、また理解できない出来事と話している時は、復活はなんの喜びにもなりません。信じることの出来ないそんな弟子たちをイエスは嘆いたのです。そしてイエスはなにが事柄の中心・核心かを、彼らが再確認するようにしています。イエスは十字架と復活こそ、まさしく救い主キリストの受難と栄光をあらわすものではないか、「聖書」(旧約聖書)に記されている内容そのままではないかと「説明された」のです。聖書は素晴らしい内容に満ちています。だけど自分とは関係ないという人は、悲しい顔をして立ち止まります。しかし、本気で信じる者には希望が与えられます。うれしい顔して踊り出す力になります。

私はイエスの十字架と復活の意味を初め理解しなかった弟子たちが、その意味を知り、その後、十字架と復活を、堂々と力強く述べ伝えていますが、その理由がここにあります。イエスは弟子たちに聖書・・旧約聖書からご自分のことを説明したのです。イエスは復活後、40日間地上におりましたから、その間弟子たちを教育された思いますし、弟子たちも旧約聖書やいエスの生前の言葉を思い起こして、イエスの意味を学んだと言えます。今はこう言えるのです。実に「新約聖書は旧約聖書に隠されており,旧約聖書は新約聖書に現されてい」という緊密不可分の関係にあるのです。ですから聖書は・・旧約と新約は共に、イエスキリストを証しするといえるのです。旧約聖書39冊がイエスを指し示すことを、弟子たちは知ったのですが、一方、新約聖書はその弟子たちが、その旧約聖書が示すキリストこそ、まことに神からのキリスト・メシア・救い主と言うことを示すために、証言するためにかかれたのです。

キリスト教とは何か。変な質問ですが、どう答えますか。それはこう言えます。「キリスト教とは、救い主・イエス・キリストにおいて、キリストを通して、神がいのち・命と救いを与えらるものです」。このいのち・命とは、今の肉体の命ではなく、それを超える命・いのち、普通には「永遠のいのち・命」です。現代は救いなどと言いますと、人気がありません。救いはいらないとか、そんなに弱くないとか言います。「救いとはなにか」ですが、ある先生は救いとは「変えることchange」と言いました。あなたをイエスは変えるのです。変えられるのです。ギリシャ語では救うという言葉は「変えるという意味があります。私たちはいろんな思い、悩み、恐れ、希望などで、心が揺れ、定まりません。そんな私たちを造り変えてくださるのです。イエス・キリストは・・死から復活して、その力があることを明白にしたのです。だから、復活祭・イースターは喜びなのです。聖書はその神・キリストの言葉です。

今日のエマオへの出来事に目を向けます。彼らはなにか引かれたのか、強いてイエスに一緒に泊まるようにお願いしました。イエスは泊まるために家に入りました。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」のでした。イエスの言葉か仕草かで彼らはイエスと悟った。道々語ったイエスの言葉が彼らの目を開いたと言えます。

それを彼らはこう表現しています。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と。 聖書は私たちに、心が燃えるような思いをあえるのです。

イエスは今も私たちと共にいるし、歩いています。人生の歩みをしているとき、近付いてきて、一緒に歩いてくださる。聖書を通して、私たちの問題に解き明かして、私たちの内の心を燃えさせてくださるのです。今日は、今日の聖餐式でも私たちは、イエスが共にいて、祝福しくださるのを知るのです。イエスは約束を守られる方です、私たちの信頼に十二分にお答えくださるのです。

聖書はなにを書いているかですが、それは「イエスに出会った、キリストは生きています」ということを書いているのです。生ける主キリストに出会ったという証言・証しが聖書です。生けるイエスに出会いさえすれば、聖書は読めるし、分かります。その時、聖書が本当に分かったと言えます。そのキリストは今も生きていて、私たちに力を与えます。そのイエスに信頼して生きて生きなさい。そう勧めています。「イエスさま、あなたを信じて生きて生きます」と今朝も告白したい。