2010年5月16日 昇天主日 「主の証人となる」

ルカによる福音書24章44-53節

聖書では「なぜ」と感じる事がたくさんあります。
同時に、聖書は自分の疑問に直接答えてくれない、と感じる事もあります。
たとえば、マグダラのマリヤはイエスの昇天後どうしたのか?
バラバは許されて後、どんな生活をしたのか?
カナでのワインの残りはあったのだろうか?
復活したイエスの肉体はどんな風だったのか?

ドアーを開けずに部屋に入り、エルサレムに現れたと思えばエリコの途上に 現れる。しかし、聖書はイエスの肉体の様子には少しも触れていません。 どうしてなのでしょうか?

聖書には書かれていない部分が多くあります。
何故、と思っても、書かれていないのですから。
それで、何故、かかれていないのかを考える他はありません。

師といわれる人は一体何をその弟子に求めるでしょうか?
一般的には忠誠を求めるのではないでしょうか。

主イエスキリストは、あの有名なエマオへの道で、ご自身を、聖餐の再現を示 して、証明されました。
それは、私達の受ける聖餐が私達の思いではなく、主の恵みとして与えられて いるからです。その聖餐により、私達は、聖霊の助けを受けて主を見る事が出来るようになるのです。

この出来事の後で師であるイエスが弟子に何を求められたのでしょうか?

それは忠誠ではなく、信仰です。信仰無くしては、許しも救いも無いからです しかも、主イエスはその信仰を弟子の中に認めておられるからこそ、全権をその弟子に委譲する事を明言されています。 復活の主イエスの証人となれ、これが主イエスが弟子に求められたことです。

24:44  イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書 いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒に    いたころ、言っておいたことである。」

予言の成就の意味は、ただそのことが起こり、成就するということにとどまりません。 主イエスは究極的には十字架において、また、その復活によって人々に救いをもたらして下さいます。それは 言い換えると、主イエスは人々に奉仕の業をされたと言うことです。この同じ意味での人々への奉仕の業が私たちにも求められています。

24:45  そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、聖書が予言している内容を、弟子達に、復活のイエスから示されました。

イエスの復活の経験に重なる出来事としての予言の成就です。復活の出来事の中で、復活の出来事の経験として、弟子達に悟らせて下さったのです。イエスは弟子たちに、当人として、または別人として現れて下さいました。見える、触れることの出来る弟子たちと共に居た、あのイエス(当人として)は、ご自身を肉体的に生きている者として弟子たちに証明されました。 同時に別人として、時間と空間から完全に独立した存在として、自然に束縛されず、超越している存在としても弟子たちに現れて下さいました。この別人としての イエスを聖書では 神の栄光に入る、神の本質に属する者として表現しています。聖書では、復活のイエスの新しい肉体の秘密をだれも語ってはいません。また関心も示してはいません。それは弟子たちに取り、十字架に付けられた主は、今私たちと共にここで生きておられる、という確信を与えられたこと、その確信で十分なのです。自分達の生きる意味をこの確信にかけたのが、当時の弟子達です。

この確信が与えられたことにより、ほかの要因や疑問は弟子たちにとり、何の意味も無いものとなってしまったのです。

同じように私たちも、主イエスの弟子として、主が求められる信仰に立ち復活の主イエスの、昇天の主イエスの証人になろうではありませんか。