2010年7月11日 聖霊降臨後第7主日 「イエスに従うこと・・・救いの3時制」

ルカによる福音書9章51-62節

説教: 五十嵐 誠牧師

テキスト ルカ9:51-62   (マタイ8:19-22)
サマリア人から歓迎されない
9:51 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。9:52 そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。9:53 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。9:54 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。9:55 イエスは振り向いて二人を戒められた。9:56 そして、一行は別の村に行った。

◆弟子の覚悟

9:57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。9:58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」9:59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。9:60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」9:61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」9:62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

私たちの父なる神と主イエスキリストから 恵と平安が あるように アーメン

イエスの弟子はいろんな人がいました。職業から見ても、漁師、取税人、国粋主義者(熱心党)、商人(会計係)などです。性格も様々です。短気でせっかちな者、怒りっぽい者、疑い深い者などです。ですから、時には感情が出ます。今朝の福音書にもありました。私はせっかちですし、仕事が早いほうです。

イエスとその一行はエルサレムに行く途中、サマリアを通りました。「しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである」。サマリアの住民がイエスを歓迎しないのは当たり前でした。付き合いがなくて、交際をしていなかったからです。歴史的、宗教的反目がありました。まして、イエスがエルサレムへ行くと聞いたからです。サマリア人は自分たちの神殿をゲリジム山に持っていたからです。イエスが自分たちの神殿に参拝するなら歓迎したでしょうが。(参考・わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」(ヨハネ4:20)。この山とはゲリジム山です。

それを見て、イエスを歓迎しないのを見て、ヤコブとヨハネは「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言いました。「主よ」と言い、忠義立てしたつもりです。旧約聖書のソドムとゴモラを心の中で考えたと思います。「主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ」たのです。(創世記)19:24)。罪深い町でした。旧約の故事を思い出してのことです。

*「ソドムとゴモラ、および低地一帯を見下ろすと、炉の煙のように地面から煙が立ち上っていた」。「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされた」(9:28)。「ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。)(9:26)で有名です。あるいはエリヤがサマリアのの王の部下を天からの火で滅ぼしたことからでしょうか。(列王記下・1:10,12,14)。

*「エリヤは五十人隊の長に答えて、「わたしが神の人であれば、天から火が降って来て、あなたと五十人の部下を焼き尽くすだろう」と言った。すると、天から火が降って来て、隊長と五十人の部下を焼き尽くした」。

ヤコブとヨハネとはあだ名を「雷の子ら」といいました。「ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた」。(マルコ3:17)。おそらく性格を現しています。激しい気性のゆえでしょう。イエスは「振り向いて二人を戒められた」。イエスはなんと言われたか不明ですが。イエスは昔の人のように天罰を下さず、弟子たちをたしなめて、そこを立ち去りました。性急は判断を避けたのでしょう。

次に、イエスは弟子の覚悟について語りました。有名な所です。3人の人がイエスに従いたい、あるいは呼ばれています。弟子志願です。従うとはギリシャ語で「アコルーテオウ」ajkolouqevwと言います。3人とも同じ言葉でイエスに語りかけています。意味は「誰かの弟子として従うこと」です。ですから、3人は「イエスの弟子となりたい、弟子としてきなさい」と言う願いや呼びかけでイエスに出会っています。イエスの名前を聞いてでしょう。

日本では牧師の所や教会に明白に「クリスチャンになりたいのですが」と言う明白な理由で来る人はあまりいない。私もあまり経験ありません。教会に来る理由はなにか。私は英語への関心でした。昔は(と言うと何ですが)、教会は若い人がいましたから、結婚目当てもいました。お金や物品を目当てもいました。やがて、教会に来ていて、キリスト教を学びませんかとか、洗礼を受けませんかというと、そこでイエスかノーが出てきます。今日の人のようなことが起こります。私がこの教会の前身の目黒教会の牧師の時、高校生の女の子が、親に相談してきますと言って、結局、断ってきました。理由は結婚が出来なくなるという親の心配でした。カトリックの修道女が親の念頭にあるようでした。ミッションスクールや幼稚園、保育園に人気があるのは、しつけとかに重点がありまして、信者になるのは困るのです。

この出来事はイエスの約3年間のガリラヤ伝道が終わり、エルサレムに向かう途上で起きました。ですから、充分イエスについて評判があったのでしょう。で、志を持って来たのが3人の若者?かも知れません。

まず、ある人がイエスに言いました。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と。立派な、崇高な決心です。普通は歓迎するものですが、しかし、「イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(イエス)には枕

する所もない」。なにか出鼻をような言葉です。私でしたら「そうか、よく決心した

、頑張れ」です。考えてみれば、信仰は一生涯の付き合いです。よくカトリックの修道女は(よくは知りませんが)キリストと結婚する意味で指輪をされるそうです。生涯の結びつきをいうのでしょう。ですから「誓願」まで時間がかかります。思いつきでは出来ないことだからです。イエスは、その人の覚悟を試す意味で、鋭い言葉を掛けたと言えます。弟子になるというのは、いわば、今歩いている道をなげうってもかまわないという覚悟が求められます。信仰に入ることを「悔い改め」とか「回心」と言います。英語では(conversion)ですが、ギリシャ語ではメタノイア)ですが、それは人生における考え方の根本を変える・・180度転換して歩くことです。罪と古い生き方から絶縁を意味します。じゃ、信仰は苦しみだけではないのです。苦しみなら、止めたくなります。今までの生き方を捨てても、それに優る喜びがあるのが、キリスト教信仰です。凄い苦労したパウロは「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」。それは「キリストを得」たためですと。

私が牧師になる時、当時の教会の指導者のTさんが「牧師は食えなくなることを覚悟せよ」といわれたことを思い起こしました。

最近の教会は年配者が多くなりました。牧師は自分の教会は高齢者ばかりでと、こぼしますが、それは間違いです。そうではないのです。その人たちは、信仰の素晴らしさを、豊かさを、喜びを証ししている大切な教会の宝なのです。その生き方で証しをしているからです。信仰に進みたい方がその高齢者を見て、信仰に生きて欲しいと思います。

次にイエスは、ご自分から「別の人に、「わたしに従いなさい」と言われた」。その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言いました。すると「イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と。この答え誤解される言葉でした。親の葬儀なんかほっといて、伝道しろに聞こえるからです。キリスト教は親不孝な宗教ですねと言います。しかし、ユダヤ教は父母の葬儀は大事でして、安息日の規定は免除された程です。もちろん、十戒も父母を敬うことを命じています。(第四戒)。日本では「弟子」とは先生の教えを習い、それを覚えて、独立します。有名なのは内村鑑三の「無教会」です。弟子は先生の教えを受け継ぐものです。イエスの弟子とはイエスの教えにならうというより、イエス自身が中心であり、(だから、イエスの教えをすべて暗記しても、それは弟子の目的ではないと思う)。

イエスの弟子とはイエス自身を信じ、期待し、イエスを弟子の心の中心に置くことなのです。ここでイエスが言いたいことは、この世の常識とされていること要求されたとき、福音のために、私に従うかという問です。キリストの兵士として出征出来るかでしょうか。

3番目は、家にいっていとまごいをしたいからと言うことでした。「別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と。人間的には理解できます。後顧の憂い無く出発したいです。旧約時代、預言者エリヤはエリシャが弟子になるとき、父母へのいとまごいを願うエリシャを赦していました。ですから、この人はイエスに願ったのでしょう。しかし、イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた」。イエスはその願いは「神の国にふさわしくない」でした。弟子にはふさはしくないです。イエスの弟子たちはイエスに呼ばれてすぐ従ったようです。ペトロとアンデレはガリラヤ湖でイエスに呼ばれたときそうでした。「イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 二人はすぐに網を捨てて従った」。(マタイ:19)。)ヨハネとヤコブもそうです。

「別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」。(マタイ)4:21-22)。マタイ(レビ)の場合もそうでした。「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。(ルカ5:27)。

信仰で家族というしがらみとの葛藤はかってよく聞きました。内村鑑三は父親との凄い闘いがありました。武士階級ですから、刀を突きつけられたと言うことです。この教会の前牧師下舘先生は本の中で、自分がキリスト教に入るというと、お母さんが大変かなしまれたと書いていました。(マタイ説教集)。私は幸いありませんでしたからさいわいでした。皆さんは同ぢいしたか。信仰で息子、娘を取られたと言って、親が教団に押しかけている情況が前にTVにありました。(オーム真理教、イエスの箱船集団など)。イエスもこんなことを言いました。

「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。・・一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる」。信仰は分裂かですが、違います。

でも、考えると信仰を持ってこそ、家族の結びつきが強まるのです。キリスト教はまさにそうです。なにか誤解や噂で、信仰を恐れているような気がします。もちろん、信仰に入った人の生き方、姿が大事なことは言うまでもありません。家族は自分のことをよく知っていますから、なかなか信用されない点はありますね。

私はよく歴史のある教会に行きましたが、羨ましいと思うのは、信仰の二代目、三代目、四代目が多くあることでした。多分、はじめは問題があったと思いますが、苦労したと思いますが、家族が信仰で固く結ばれているのです。このことを忘れてはならないと思います。

この厳しいイエスの言葉がいつ語られたかを見ると、ある程度情況が分かると言います。イエスはエルサレムでのご自分の十字架の死を見ていましたから、差し迫った言葉だと言えます。ですから、厳しいとも言えます。現在はそういう緊迫や差し迫った情況ではないと考えると、余りにも厳しい問・・イエス(YES)かノー(NO)を迫るのは・・は理解でき無いと言う人がいます。ヨハネはこんなエピソードを書いています。イエスが永遠の命について語ると、「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」。(ヨハネ6:60)。

しかし、信仰は遠い将来にその決着がつくものではないのです。中世時代、多くの貴族や王たちは、洗礼を死ぬ間際に受けました。そこで救われる・・天国にはいると考えたのです。生きている間は自由に生きるのです。カトリックは「煉獄」という教えがありますから、それを恐れて、避けるためと言われています。「煉獄」とはカトリック教で説く、天国と地獄との間にある所。死者の霊が天国にはいる前に、生前の罪をここで火によって浄化されるという。ですから、煉獄での苦しみを軽減し減免する「免罪符」というお札が売られました。結果、ルターによる「宗教改革」が起こりました。

信ずるか、信じないかは、今、現在の問です。あなたは将来に救われるでしょう(You shall be saved・・未来形でなく)ではなく、あなたは今、ここで救われています(Yuo are saved・現在形)が、聖書の教えです。ヨハネははっきりとイエスの言葉を書いています。「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」(ヨハネ6:47)。また、「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」。(ヨハネ3:16)。さらに、「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」。(ヨハネ3:18)。これらは皆現在形です。信仰とは過去のことでも将来・未来のことではありません。現在・今のことです。だから、イエスかノーかを問われるのです。

聖書を見ると「救いの三時制」(three tennses of salvation)が分かります。英語の時制・テンスの問題ですが、過去、現在、未来のことです。私は救われた。私は救われている。私は救われるでしょう。英語では I was saved.  I am saved.そして、I shall be saved.です。私たちはイエス・キリストによって、キリストを信じる信仰によって救われたのです。(洗礼を覚えていいでしょう)。そして、今、私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって救われている。さらに、私たちはその信仰のゆえに、必ず救われる。(聖書の未来形は確実にそうなるという未来形です)。これは覚えておくことです。

信仰は理論や理屈・知識ではないと言われます。信仰は生き生きした力・パワーです。

大分前に、TVで大々的に宣伝していたCMがりました。「Power for living」と言う本のプレゼントでした。北海道日本ハムファイターズ監督トレイ・ヒルマンさんが文を書いていました。そうしたら、ある方(おそらく、ファンでしょう)が、それに対して抗議をしたと報じていました。キリスト教が嫌いな人でしょうか。おかしな人です。信仰なんか害あって、益はないと思っているのでしょう。でも、「信仰は生きる力」です。ヒルマンさんはそれで、ファイターズを優勝に、日本一にしたのです。

イエス・キリストは「私はあなたに、それを与えるために来た」のだと、私たちの前に立っているのです。「私について来なさい」と言われます。どう答えますか。キリストは答えを待っています。  アーメン