2010年7月25日 聖霊降臨後第9主日 「愛の表し方と必要なことは一つであるを考える」

ルカによる福音書10章38-42節

説教: 五十嵐 誠牧師

◆マルタとマリア

10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安が  あるように アーメン

今朝は二人の女性信者に目を向けて見たいと思います。マルタとマリアの姉妹の話です。どちらが姉で、どっちが妹か不明です。これは結構有名で、また論議のある所でもあります。よく、あなたはマルタ型、マリア型ですかと聞かれます。血液型と似ています。私はA型ですから、その特徴を満たしています。几帳面で、固いとか、規則を守るとかです。マー自分はそんなタイプかなとも思います。意外と当てはまること多いです。女性の方もいろんなタイプがあります。で、マルタ型は活発で、働き者 、マリアは静的なタイプと言われます。ここにお出での方はどうですか。自分はどのタイプかです。

論議のある話と言いましたが、昔から解釈が難しいのです。どちらかと言えば教会はマリアタイプを重視してきました。女性は教会では静かにしているべきだと。しかし、現代のような時代・・特に女性の地位や権利が向上している時代、男女共同参画社会では教会でも、男性と同等の権利を持つべきという意見が強くなりました。

子どもの聖書物語の挿絵にこんなのがありました。イエスとマルタとマリアの絵ですが、イエスの足下にマリアがいます。イエスの話を聞いている様子が出ています。しかし、イエスの背後の女の人が立っています。その目は不機嫌で厳しい目つきで、マリアを見ているのです。イエスやマリアに対して、不満で、気づいて手伝って欲しいという目です。我慢が出来ずに、遂に、イエスに言いました。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と。こんな情景ありますね。私たちも経験しています。三角の目をして、不満を現して、以心伝心で悟ってほしいと思います。口で直接言えないからです。なんて気のきかない人間だと思います。マルタは気が強い性格でした。

また、イエスがマリアを弁護していますから、しかもマルタを非難しているように見えるからです。マルタは先に言いましたが、活動的、現世的、勤勉で有能な面が大きい。マリアはどことなく高貴で、控えめで、人の言葉に耳を傾けると言うような面を思います。

ある先生はマルタは役に立ち、なくてはならない人ではあるが、模範的で心なぐさむ理想的な女性はマリアの方なのでと言いました。

こんなに評価が異なる受けとりをされている物語を見ましょう。さっき読んだ福音書を思い起こして下さい。

イエスが、ある村ですが、ベタニアです。ベタニアはギリシャ語では 「悩みの家」「貧困の家」という意味であると考えられています。エルサレムの南東約3キロ(ヨハ11:18によると15スタディオン),オリーブ山の東麓にあった村(マコ11:1,ルカ19:29)です。イエスはこの村をよく訪ね,特にその生涯の最後の週には,ここからエルサレムへ通われたと思われる(マタ21:17,マコ11:11‐12等).この村にはラザロとその姉妹マルタとマリヤ(ベタニヤのマリヤと呼ばれている)が住んでいました。ここが今日の舞台です。

イエスはマルタとマリアを訪ねました。マルタは・・女主人は客をもてなすために、準備のために、台所に立ちました。一方、マリアはイエスの話を聞くために、イエスの足下に座っていました。(因みに、当時はイス生活でなく、座って、体を支えるものに寄り掛かり、、横になっていたようですから・・ゆったりした風景ですから、宗教絵画でイスで座っている絵は違っていると言われます)。 マリアが手伝わないのの気がつき、イエスに不平を言った。するとイエスは「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」と言ったのです。

で、一見すると、マルタのやっていることが価値が低く、マリアの態度には見習うべきであるように思われたのです。  イエスは本当にそう言ったのでしょうか。考えたい。

牧師はどんなタイプの女性がいいのかと思いましたら、ある牧会学の本に「牧師の妻とは、マルタであると同時にマリアである者」とありました。牧師の妻はこれが理想だと言うのです。私の亡くなった家内は・・と思いましたが、仲間の牧師を見ると、どちらか一方が強いと言えます。余り活動的だと出しゃばりとか言われますし、静かだとなにもしないとかになります。しかし、どちらかと言えば、マリアタイプが教会では好まれました。これは一般社会でも見えますが、男性はおとなしいタイプの女性が好みです。

教会の歴史で、どちらかと言えば、マリアタイプが好まれました。これは一般的に男性優位の考えがあるからです。男性原理の社会だからです。女性は教会の中で活発に振る舞うことは歓迎されませんでした。ですから、女性の教会の主要な役員とか牧師は認められませんでした。私たちの教会も宣教師がいた頃はそうでした。今は女性の役員がいますが、それは例外的な意味だと言えます。会員が少ないという原因です。また、女性牧師も認めていません。女性牧師を認めようという動きもありますが、聖書解釈や教会の伝統などから実現は難しいと思います。ともすれば、時代の動きや思想で、女性の権利の向上や男女平等主義などの考えで、後に聖書解釈を変えるのは難しいからです。聖書にこう書いてあるというと、それで「判断停止」になります。「原理主義」的な傾向が教会にあります。

私は聖書解釈をパラダイムで便宜的に変更のは反対です。パラダイムとは最近に良く聞きますが、思想史でしばしばいわれる「パラダイムの転換」とは、思考のパターンの転換のことを言います。今までの聖書解釈を、現代の考えで解釈し直す・転換と言うことです。同じことを「ポスト・モダニズム」と言います。時の流れに流されるのはどうかなと思います。私はどちら言えば、古いタイプの考え方の牧師です。かといって男性優位を盾にとって、女性を低く見る気はありません。

マルタとマリアの問題も、私は二つの方法で考えたらいいと思います。一つは神が人間を創造したときの意味です。神が創造の六日目に、人間を・・「男性」を造りました。「神は神にかたどって創造された」のです。アダムでした。その後に「人が独りでいるのは良くない。彼に合う(ふさわしい)助ける者を造ろう」と言い、「女性」を造られたのです。(創世記1:27など)。この場合「女性」は男性の助け手・Helperに取れます。女性が男性より劣り、低く、また、恵みを男から頂く者と言うように取れますが、そうではありません。旧約聖書はヘブライ語で書かれていますが、その翻訳がよくありません。その原文をある英語訳はこう訳しました。「I do make to him  a helper as his counterーpartner」で、日本語では「私・神は彼に合う(ふさわしい)助け手を・・彼のカウンター・パートナーとして造る」です。ヘブライ語の原文の意味はこうなのです。「カウンター・パートナー」とは「面と面とを合わせる、向かい合う、同じ平面に立つ」相手という意味です。(日本語の聖書にはそれがない)。上から何かを与えると言うのではなく、悲しみは悲しみとして、共感してくれる相手、一緒に涙を流してくれる相手、誰かが側にいることは、人間存在にとって大事だという意味です。男と女もお互いに大事な存在としてあると考えたい。

二番目には、マルタとマリアの、行為・した業の優劣の問題としてでなく、「愛」の問題として見ることです。マルタはイエスのために甲斐甲斐しく働くいている。一方、マリアはイエスの足下に座ってその話を聞いている。単純に見ればいい風景です。端からも、いい姉妹だなと思います。マルタも喜んで台所仕事に、甲斐甲斐しくしていたと思いますし、仕事でイエスの側にはいなかったが、その心はイエスの側にいたのです。また、マリアも、仕事を手伝うのをしたくなかったから、座っていたのではなく、イエスの声を聞くのを喜んで座っていたのです。喜んで働く、喜んで聞くというのは、共にイエスを愛することの一つの表現だと言えます。愛する方、好きな方のために、一所懸命食事を作るというのと、そのかたの側にいたいというのとは、どちらも、女の尊敬し、愛する人への愛の表現だと理解したいと、私は思います。簡単に言えば、二人は「愛」を別な形で示したのです。ただ、マルタは愛の価値判断をしたと言えます。パウロは愛について書いています。愛は「寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。自分の利益を求めないと」。(コリントⅠ13:4-5・口語訳、新改訳)。正にそうです。

一見マリアを弁護しているように見えますが、イエスはマリアの行為がマルタより優っているとは言っていません。もしそうならイエスはマルタにも、座って聞くように言われたと思います。イエスに聞き入っていることが、マリアにとってイエス・主を愛する行為でし、それがイエスになすべきことでした。だから、マリアから取り上げてはならないのです。もし、マリアが自分の行為が接待より優っていると思ったら、マルタと同じことをしていることになります。自分の業を誇ることになるからです。

ですから、私は主の教会では、一人一人が自分の思いにおいて、主とともにいるために、自分にとって、最も主イエスのためになる思う働きをしたいと思います。自分は主イエスのためにしているのだという確信に立てば、比較して怒りをもち、ねたましく思うことがなくなります。

最後に「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」はどういう意味かを考えたい。私はイエスが単純にイエスの言葉を聞くことをほめてとは思いません。もっと大事なことを言ったともいます。それを、私は「神の言葉を聞くこと、神の恵みに生きていること」だと思います。だから、それをマリアから取り去ってはならないとイエスは言われたのです。信仰者という者は神の恵みと祝福の下に生きている者です。神と共に生きている者です。私たちは神の言葉・聖書から神の真理と力を頂くのです。イエスは、その信仰が「なくてはならないもの・必要な唯一のものだ」だというのです。ある牧師が私にいいました。「神と共にいます」信仰がなくてはならないものだ」と。正しいと思います。

私たちの現在の社会は、競争と能力社会に置かれています。弱肉強食です。失敗すれば格差が付く社会です。ですから、多くのことに思い悩み、心を乱しがちです。また、人を羨んだり、妬んだり、憎んだり、けなすようなことをしているのです。そんな中にいる私たちに、もっと大事なことがあるのでは・・という問をしているのだと思います。クリスチャンというのは、例え、つまずいても、失敗しても、倒れても、心にゆとりを持ち、明日もあるさと、新しい生き方に取り組む勇気を与えられるのです。

私は、西遊記で思い出しましたが、孫悟空はキント雲という高速の雲に乗って大空を世界中を走り回っていましたが、それはお釈迦様の手のひらの上でしたという話があります。

◆中国の長編小説「西遊記」で、孫悟空が乗る雲。ひと飛びで10万8000里を行く。

私は「信仰者という者は神の恵みと祝福の下に生きている者です。神と共に生きている者です。私たちは神の言葉・聖書から神の真理と力を頂くものだと言いましたが、「信仰者の人生が神の大きな両手の上に、保たれていることが、私たちの生きる上で、最も大切な、信頼すべき、なくてはならないもの」ではないかと思います」が、どうでしょうか。「なくてはならぬもの」を是非、見つけて欲しいと思います。

アーメン