2010年10月10日 聖霊降臨後第20主日 「この人はサマリア人だった」

説教:柴田 千頭男 牧師

ルカによる福音書17章11〜19節
イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」


ルカによると主イエスは、最後にエルサレムへ上られた時、サマリアとガリラヤの間を通っていかれました。その途上、ある村に入った時、十人の者たちがイエスを出迎えたのです。しかし彼らはイエスに近寄ろうとしません。ただ遠く離れて立ち止まっていました。今日の話はそこから始まります。彼らは全員重い皮膚病をわずらっていたのです。この病気にかかっていた者については、ユダヤ人社会では、徹底した規制がありました。レビ記13章45
節から、その規制が記されています。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口髭を覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人はひとり宿営の外に住まねばならない。」彼らは他の健康な人に接することを禁じられ、社会からは隔離され、他の人と擦れ違う時には病気について黙っていてはならなかった。これがこの十人がイエスから遠く離れて、声を張り上げ、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ理由なのです。彼らは、人間としての存在すら認められていなかった、と言ってもよい。そういう人々がイエスに出会ったのです。イエスはその彼らにこう言われました、「祭司たちのところへ行って、体を見せなさい」。これはレビ記の規制を守った彼らに、イエスもレビ記の指示に従って対応したということです。レビ記14章によれば、重い皮膚病を患った人の管理、監督をするのはひたすら祭司の役割でした。人がこの病気に罹っているか、どうか、またその病気が治ったか、治っていないか、といった判断の一切が司祭にゆだねられていたのです。彼らはイエスの言葉どおり、祭司のところへ行ったが、その途中で奇跡が起こったのです。彼らは突然自分たちが清くなり、病気から解放されたことを知りました。もちろん彼らはそこから引き返さず、清くなった体を祭司に見せ、清められたという判断を下され、夢にまで見ていたに違いない社会復帰を許可され、喜びに小躍りしたでしょう。ここまではイエスの奇跡の話です。しかしそれが終わりではなく、ルカはここから重要な本題に入るのです。

彼らは自分たちを社会から締め出していた憎むべき病から解放された。その喜びはいかばかりか。しかし彼等はその喜びと感謝を癒してくださったイエスに伝えようとはしなかったのです。それをしたのはたった一人、しかもそれはユダヤ人ではなく、サマリア人だったというのです。だからイエスは「清くされたのは十人ではなかったか」とおっしゃり、このサマリア人に対してだけ、「立ち上がって、いきなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と宣言されたのです。ここはよくよく注意しなければなりません。救われた、と声を掛けられたのは、このひとりの人間であって、他の9人病を癒されたけれど、救われたとは言われていないのです。病は癒された、しかし彼らはその癒し手イエスと無関係に生きる道を歩んでいったのです。

ヨハネ14章19節でイエスは言われている、「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」と。これがクリスチャンの命の内実、内容です。イエス抜きでは、人は生きていても、それは死ぬべき命を生きているということが真相です。コリント第二の手紙の5章4節にパウロの、「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまう」という言葉があります。これはまことに凄い言葉です。人は病気であろうが、なかろうが、100%「死ぬべき」ものとして生きているは否定しようのない事実ですが、その死ぬべきものが、最後に命に飲み込まれてしまう、とパウロは言っているのです。そういう考えられない逆転が起こる、と言っているのです。そういう死を飲み込んでしまう命はただ一つしかない。十字架上で人類の罪を全部引取り、死なれたイエス、しかもその死に打ち勝って復活したイエスしかない。それが死を飲み込む命なのです。そしてそのイエスのものとされることが本当の救いなのです。表面的にはこのサマリア人と9人のユダヤ人との間になんの違いはないでしょう。だが人生の内実がすっかり違ってしまったのです。イエスと共にあるか、ないか。それは天と地の違いです。ここをさらに考えていきましょう。

この人がサマリア人であったことがここでは特に強調されています。イエスも「この外国人」と彼を呼んでいます。これはどういうことでしょうか。このルカ17章から少し戻って9章に行ってみますと、驚くことがそこに記されています。エルサレムへ向かう決心をされたイエスのため、弟子たちが準備、恐らく宿泊の準備のためでしょうか、サマリア人の村に入ったという話が出てきます。ところがサマリア人たちは、イエスがエルサレムへ行く途中と知ると、イエスを迎えることを拒否してしまった、のです。弟子のヤコブとヨハネはこれに激怒して、「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」というような、とんでもないことを口にしています。それだけ冷たくあしらわれ、腹がたったのでしょう。だがこれがユダヤ人とサマリア人の現実でした。エルサレムの神殿とサマリアのゲリジム山は敵対関係にあり、同じ神を信じながら、彼らの宗教は二分されていました。ご存知のように、この時代、聖書ですら三つありました。ヘブライ語聖書、ギリシア語の七十人訳聖書、それにサマリア聖書と言われるものです。なぜそのような分裂があったのか。列王記下17章によると、紀元前8世紀にアッシリアによりサマリアのある北の王朝イスラエルは滅んでおります。その時、アッシリアは人々を大挙連れ去り、そのかわり他民族をサマリアに植民したのです。その後、アッシリアが滅亡しましたが、この植民された人々はその地に残っており、当然しこりの原因になっていました。有名なヨハネ福音書4章のイエスとサマリアの女の話がそのあたりを語ってくれています。そこではイエスが女に水を所望していますが、女はイエスに「あなたがたユダヤ人はサマリア人とは交際しない」と9章で言っています。交際と訳されたスンクロマイσυγχρωβαιという言葉は本来一緒に物を使用する、例えば「同じ桶で水を飲む」といっている言葉ですから、ここではもう同じ釜の飯は一緒に食べない、という意味なわけです。だから隣合わせに生きていてもこれでは「外国人」です。それがサマリア人とユダヤ人の現実でした。

にもかかわらず、ここではこの現実に逆転が起こったのです。まずこの外国人に、「あなたの信仰があなたを救った」とイエスは宣言されたのです。これは「あなたはわたしの永遠の命にあずかったのだ」ということとまったく同じです。これが福音なのです。そしてこの福音が、人間がもたらした罪の現実に、価値の転倒をもたらすのです。ここではもう、重い皮膚病を病んでいるか、いないか、という区別も、ユダヤ人か、サマリア人かという区別も、身内か、身内でないか、という区別も無くなってしまう。信じるというだれでも可能な、平等の地平にすべての人が立つことを許されるのです。それなのに、そういう区別に固執するなら、その人はもうイエスが何であるか全然わかっていない人です。今日のこの話では、天から火を降らせ、焼き殺してもよい、とイエスの弟子ですら思ったサマリア人のひとりが、あなたの信仰があなたを救ったと言われたのです。これが福音なのです。

10月は宗教改革記念日の月です。信仰がすべてだ、という真理を再確認したルターが、その福音をかかげて教会の改革運動に乗り出したという出来事、厳密に言うなら、この原理への回帰運動を起こしたことを記念する月です。この真理を教義的には、信仰義認とパウロは呼びました。人間はイエスを信じることによってのみ、神によって義と宣言され、神に受け入れられるという真理です。この真理を教会が見失うなら教会は単なる建物か、親睦会のような人の集まりになってしまいます。なにを言おうと教会ではなくなってしまいます。しかし、この聖書の真理は、今の世界に対して、聖書の時代、あるいは宗教改革の時代と同じようなインパクトを持っているのでしょうか。最近、ある報道番組に本当に心をうたれた出来事がありました。いま敵対するイスラエル人とパレスチナ人との間に起こった出来事ですが、イスマエルというパレスチナ人の子供、アメフド君といいますが、その子がイスラエル兵に頭を撃たれてしまった。しかしその手当はパレスチナ側の病院ではどうしようもなく、アメフド君はエルサレムの病院へ運び込まれました。だがすでに脳死の状態になって治療はできない状態でした。そこで医師は父のイスマエルさんに臓器の移植はできないか相談を持ちかけたのです。父親は子供の死を無にせず、他の人を救うことになるのなら、といって臓器移植を了承しました。アメフド君の臓器は、なんとイスラエルの5人の人々に移植されたというのです。そして日本と違い、その移植を受けた女の子、サマハさんとその家族に、父親は会っているのです。元気になったサマハさんを囲んで、二つの家族がお互いに親族のように交わりを始めたというのです。互いに人間であるという共通の地平に立ち、憎しみの壁を超えた家族がそこに生まれたのです。この報告をしたのは医師の鎌田実先生です。これは政治ではない。これは愛の問題です。そしてそれこそ神は愛なり、神のわざです。信仰義認をかかげたパウロの信念は、イエスにあってもう男も女もない、ユダヤ人もギリシア人もない、自由人も奴隷もない、ということでした。なぜか。イエスはすべての人のために死に、そして復活し、それをすべての人に保証しているからです。これがまた、教会に委ねられている福音なのです。だから教会は信仰義認の声を上げ続けなければならない。なぜか。そこに現代の宣教もあるからです。