2010年11月14日 聖霊降臨後第25主日 「生きるとは・・なにに対してですか」

ルカによる福音書20章27〜40節

説教:五十嵐 誠 牧師

◆復活についての問答

さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安があるように  アーメン


サドカイ派のグループがイエスと問答をしているところが出ています。サドカイ派とはイエスと論争をしたユダヤ教の一派です。新約聖書では14回出てきます。サドカイ派は紀元前・BC6世紀の第二神殿の再建から紀元・AD70年の神殿崩壊するまでの間、神殿でのユダヤ教の祭儀を執行していたグループで、社会的、宗教的な地位を持っていました。神殿での権益を持っていました。また、ユダヤ人の国会に相当する「サンヘドリン」(最高法院)の大祭司と多くの議員を持っていました。彼らは復や天使の存在を否定していた。(マタ22:23、 ルカ20:27)。

 

*◆最高法院(さいこうほういん) ユダヤ人の自治機関。イエスの時代には,大祭司を議長とする71人の議員で構成され、行政と司法の権限を持つ会議であった。ユダヤ教の律法に関する最高法廷として、死刑を含む判決を下す権限を持っていたが、最終的にはローマ総督の裁断を仰がなければならなかった(マタ26:57~27:26,使5:17-42,22:30~23:3。

*◆サドカイ派(Sadducees)・イエス時代のユダヤ教の三大教派の一つ。モーセ五書だけを正典とし、復活や天使を否認。祭司層が多かった。

復活を否定するサドカイ派は結婚制度を取り上げています。これはかっては日本でも、農村にありました。普通「レビレート・levirate」と言いますが、寡婦・未亡人・やもめの処遇に関する慣行の一つで、夫が死んだ後、その妻が夫の兄弟に引き取られる制度。財産と家名をも守る役目を持っていた。(申命記25:5-10,創世記38:8-9)昔は戦争中にありました。

◆申命記・25:5 兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、(家名の存続)。*この逆を「ソロレート・sororate」と言い、妻が死んだ後、その夫が妻の姉妹と再婚する制度になる。

サドカイ派の想定は、七人兄弟の兄が死んで、その後そのやもめが、次々と夫を亡くし、その兄弟と次々と結婚していきます。あまりないことですが、イエスを試すためにしたと思います。一人の妻と七人の夫がいることになります。当然、復活を信じる者にとっては復活が生じたら、どうなるかは興味があります。サドカイ派のようなためにするような興味ではなくてです。クリスチャンは時には、からかわれて質問されます。学生の頃に「泥棒が捕まらないように祈ったら、神は聞くか」とか、「戦争で敵味方が、お互いに勝利を神に祈るがどうなるか」なんて言うのがありました。質問する方は真剣でなく、自分の答えを持っているのです。私は逆襲して、同じように聞き返したことを覚えています。

私はイエスの答えに、一種のユーモア、皮肉を感じます。サドカイ派の質問そのものが愚かしいものです。確かに聖書に関する質問しましたが、同じ話のマタイの福音書(22:29)では、イエスはきっぱりと「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」言っています。彼らなりに聖書を学んで質問をしたが、イエスは一言で彼らを撃退しました。サドカイ派のうろたえた姿があるようです。イエスは笑ったのではと思います。ルカはそれを省いていますが、イエスは単刀直入に答えています。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」。

イエスは「死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」。イエスは、私たちは神の力により、復活の時には天の御使い(天使)のように、霊の体に変えられるので、子孫を残す必要がないから、もはや結婚する必要はないと言う。サドカイ派は常識の範囲で復活を考えていたのであり、復活は常識を越えた超自然的な力・神の力であることを知らなかった。そこに彼らの誤りがあった。

かつてイエスはこんなことを言っていました。「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」。(ヨハ 3:12)。これはこうも言えると思います。「私が常識的なこと(人間的には普通に見えること)を話しても信じないなら、どうして常識を越えたことを話して(人間的に非常識に見えることを話たこと)信じないだろう」です。

イエスの答えは一見して言い逃れのように取れますし、上手い返答だなとも言えます。「あっと」いうような答えです。同じような、こんなことがありました。それはローマ皇帝への税金に関するものでした。律法学者やサドカイ派のものたちが、イエスに「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」とたずねました。イエスは「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。(ルカ 20:22-25)。聞いた連中は「その答えに驚いて黙ってしまった」のです。イエスというのは頭の回転が速い方のようです。肯定・否定に答えても問題が起こるので、鮮やかに回避したからです。肯定と律法違反、否定するとローマへの反逆です。

イエスは揚げ足を取られないようにとか、問題のすり替えで答えたりしているわけではありません。きちんと正しい答えをしています。少し分かりにくいですが。イエスはこう言っています。旧約聖書の背景を知っていないと分かりにくいので説明します。

このイエスの「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」。

モーセの「柴」の個所とは出エジプト記の出来事です。イスラエル人がエジプトで奴隷のような過酷な境遇に苦しんでいました。そこから神の民を救うために、神はモーセを選びました。詳しいことは出エジプト記3:1-14を読んで下さい。以下にあります。

◆モーセの召命

3:1 モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。3:2 そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。3:3 モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」3:4 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、3:5 神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」3:6 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。3:7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。3:8 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。3:9 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。3:10 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」3:11 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」3:12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトかき出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」3:13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

モーセはある日、羊を追って行き、ホレブ山で柴が燃えているのを見て、不思議に思い近づくと神の声が彼に掛けられる。神は燃える柴の炎として現れています。神はモーセを奴隷として苦しんでいる民を、エジプトから助けるべく呼ばれる。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と。その時、神の「名前」が出てきます。エジプトでモーセが行った時、だれがモーセを遣わしたかと、「彼らは、「その名は一体何か」と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」。神の自己紹介があります。英語で言うと「Iam」です。ここからユダヤ人の神は「ヤハウェ」と言われます。ユダヤ人は神の名を呼ぶのを恐れて、「主・アドナイ」と呼びました。余り恐れたので正しい神の名を忘れたと言われます。エホバというのがあります。今、町で見かけますし、訪問伝道しています。それは神を表すヘブル語の四文字(YHWH・ヤハウェ)にアドナイの母音を付けて16世紀から使われています。この「ヤハウェ」の神は御自身を永遠の自存者、不変の絶対的存在として啓示しています(出6:2)。神は独立自存者であって、現在も生きており、人間を救い、助け、祝福し、契約を守られる方であることを意味しています。

イエスはサドカイ派に聖書から、復活の存在を示しました。モーセが・・ユダヤ人が尊敬する・の言葉を取り上げています。少し分かりにくい点があります。イエスの独特のレトリック・rhetoric・ 巧みな表現をする技法・があります。イエスという方はディベイトにたけていたと思います。今ではそういうテクニックを教える所があると言います。

イエスは「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」と言いました。

中心は「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」にあります。その証拠に「主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している」です。これは旧約聖書出エジプト記3章の柴が燃えているところを見ないと分かりにくいです。そこでは、神はご自身のことを「わたし(神)はあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。(出エジプト3:6)とモーセに告げているのです。(出エジプト記はモーセによって書かれたというのが、ユダヤ人の伝統です。だから、権威があるのです。モーセの五書ともいい、創世記、出エジプト記、民数記、申命記、レビ記はモーセが書いたという)。ですから、少し分かりにくいので、これは次のように言い換えると分かります。「主はアブラハムの神である、イサクの神である、ヤコブの神である」とモーセは書いて示しているのであって、「主はアブラハムの神であった、イサクの神であった、ヤコブの神であった」と過去形で、つまり、墓の中の彼らを懐かしんで言っているのではないのです。彼らを過去に死んだ人ではなく、「主はアブラハムの神である、イサクの神である、ヤコブの神である」と現在形で言い、「彼らは今も生きている、今も神は彼らの神である」。だから、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なの」です。今も彼らは復活を待っているのだと、イエスは言ったのです。すごい論理です。イエスはサドカイ派が最も信頼するモーセの書・・彼らの権威の書から回答しました。サドカイ派は聖書への無知を露呈しました。だから、「彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった」のです。「聖書読みの聖書知らず」です。

イエスは生きていると言いましたが、大事なことは「なにに対して生きているか」なのです。今朝の聖書は「神によって生きている」と訳していますが、別の新改訳聖書は「神に対して生きている」と訳しています。そうすると、イエスは「神に対して」(新改訳)と言われたのです。

この言葉は大事です。今の私たちにとってもです。それは生きると言うことの根源的な、おおもとの意味が明らかにされているからです。人が生きる、生きているとは、自然に対してでも、金銭や物のためでもなく、まして人のためでもなく、神に対して生きるためです。これ抽象的ですから、易しく言うと、「神を愛して、神に愛されて生きる」ことです。私たちはどうでしょうか。なにに対して、今、生きていますか?それが今朝の問になります。

私はこの説教を書いていて、思ったのは、私たちの神は私たちを墓の中に安らかに導く神ではなく、私たちを今も後も、信じる私たちの神として、神の傍で、神を仰いで、喜びで充たされて生きる者としてくださり、終わりの日、イエス・キリストが来られるとき、復活の命、そして永遠の命を私たちにくださる神だと確信しました。真に「私たちの神は、今も後も、ずーと私たちの、私の神である」のです。そう信じて生き、そう信じて死を迎えたいと思います。            アーメン