2010年11月28日 待降節第1主日 「ろばに乗る・・主イエス・・・」

マタイによる福音書 21章1-11節

説教:五十嵐 誠牧師

◆エルサレムに迎えられる

21:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、21:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。21:3 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」21:4 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。21:5 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」21:6 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、21:7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。21:8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。21:9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」21:10 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。21:11 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安があるように  アーメン

 

ご承知と思いますが、今日から教会の暦が新しくなります。教会はイエスの生涯を巡って生活をしていますから、クリスマス、復活祭・イースター、聖霊降臨祭を中心に暦が作製されています。クリスマスを迎える準備が始まりです。クリスマスの四週間前が新らしい暦になります。

クリスマスはイエスの来臨を・・この地上への降臨・・来ることを三重の意味で考えます。過去、現在、未来の来臨です。Jesus came。 Jesus come。

Jesus shall come。クリスマスにイエスは来られた。イエスは来ている。イエスは来るだろう。この三つです。これは大切な事です。余り気が付かないのですが。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵と平安なあるように  アーメン

教会の暦はクリスマスを迎える準備をする季節に入りました。町中クリスマス的な雰囲気があります。教会のお株を奪ったようです。伝統的な習慣を守るところでは、準備をします。クリスマス‐ツリーをかざります。多くは樅もみの木です。クリスマス‐リース(リースは花輪の意) 蔓などを輪形に編み、ひいらぎの葉や松ぼっくりなどをつけたクリスマスの飾り。ドアや壁などに掛ける家があります。クリスマスクランツは花輪の周りに四本のローソクを立てて、毎週一本ずつ点灯して行きます。四本点灯の後の主日がクリスマスになります。

現在はクリスマスが盛んですが、最初はキリストの十字架と復活が重んじられました。それは教会の暦の最初から覚えられ、祝われて来ました。それに対してクリスマスは、教会はこれを覚えて礼拝をする、教会の暦の中で特別にこれを重んじることはありませんでした。クリスマスが祝われたのは四世紀からです。だから、クリスマスは四世紀にはじめて出来たと言うことではありません。というのは、マタイの福音書、ルカの福音書などは、明らかに紀元一世紀、70年代、80年代には成立していますが、そこにはイエスの誕生にまつわる様々なことがら、東方から来た博士、マリヤへの受胎告知などがあります。それらが福音書に書かれたのが、イエスの死後30年か40年後ですから、いえすの誕生にまつわる言い伝えは、ごく古い教会のから、口から口へと伝えられていたものが、マタイとルカによって書かれたと言えます。

従って、イエスの誕生は教会の歴史の中で、後になって、非常に重んじられ、祝われるようになりましたが、イエスの誕生の意味は、最初の時代においては、余りにも強烈な十字架と復活の光りに覆われていた、それが時代を経るにしたがって、正当な重みを評価されるようになったと言えます。で、クリスマスが盛大になったと言えます。

イエスの誕生の様々な言い伝えを見ると、二つの特徴があるようです。一つはイエスがかってのイスラエルにおいてもっとも偉大であったダビデ王の子孫であると言うことです。イスラエルの歴史においては、ダビデの王国は非常に大きな意味を持っていましたから、ダビデの王国が再び実現することがるとするならば、それはダビデの再来のような王よってであるという期待が強くありました。イエスがダビデの血統・血筋から生まれた方

であると言うことが強調されています。

二つ目の強調点はイエスは父ヨセフ、母マリアから生まれたが、イエスの誕生の背後に決定的に働いているのは、神の意志、配慮、計画、神の力であるという事です。聖書は

「聖霊」によってと言いますが、「聖霊」とは「神の力」です。神の力、非常に不思議な人間を超えた力によって、このイエスという方が誕生せしめられたのだ、それは人間の意志や、人間の可能性、人間の力の限界を超えたものだということです。それをイエスの誕生にまつわる言い伝えは強調していると言えます。

マリアや婚約者ヨセフがイエスの誕生で悩んでいますが、それは彼らのような人間・罪深く、醜い人間を通して・神の力が働くと言うことを受け入れ難かったからです。それを彼らの言葉、祈りが示しているのです。でも、彼らは惑い、恐れ、疑いながらも、最後には神の意志に従っていく、そして神の御心、計画を受け入れていくのです。それを見ることが、クリスマスのポイントでもあります。

今朝は、今述べた二つの特色のはじめの、第一の意味を伝えています。イエスのエルサレム入城です。「入場」(単に会場・式場・競技場などにはいること)ではなく、「入城」(王として、征服者として城に入ること)です。イエスのエルサレム入城として知られているところです。このところは教会暦ではイエスの最後の週の「受難週」のはじめの日曜日に読まれます。やはりイエスがエルサレムに入る場面です。本来はこれが正しいのですが、それが「降臨節第一主日」に読まれるのは、クリスマスに生まれたイエスは王であり、その王を迎える意味で読まれます。それは旧約聖書の預言書ゼカリヤ書に見られます。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って」。(9:9)。*「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」。

あなたの王がくる・・・それがクリスマスの意味です。喜んで迎えよう!です。ちなみにクリスマスは三重のイエスの意味を考えると言います。1は王としてのイエス。2は預言者としてのイエス。3は祭司としてのイエスです。イエスは洗礼を受けたとき、この三重の務めに任命されたと理解されています。旧約の預言者は神の言葉を語りました。同じく、預言者としてイエスはかみの言葉を語りました。旧約時代の祭司は「生け贄」を備えて、民のために仲介をしましたが、祭司としてのイエスは牡牛や羊ではなく、ご自身を神に対する「生け贄」として捧げられました。1の王としての今日の所です。

当時の民衆は誤てるメシア待望がありました。イエスは神の国を述べ伝えました。それは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした。「その評判が周りの地方一帯に広まった、イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」。イエスの神の国運動は民衆に強烈な衝撃と喜びをあたえました。特にそれが眼に見える形で・・癒しの奇跡という活動によって、また権威ある新しい教え(マルコ1:27平行)という言葉によって媒介されたために、イエスが伝えようとした神の国の到来とは異なった意味で理解されました。民衆の素朴な、しかし根強い神の国待望・メシア待望に結びつけられて行くという結果になりました。マルコの福音書の同じにゅうじょうで民衆は「我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように、いと高きところにホサナ」(ホサナとは今救い給えですが、万歳!です)(11:10)とありますのは、やはり人々が地上王国を期待していた事を表しています。(ヨハネは書いています。「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」。イエスが「山に退かれた」とは地上の王としての考えを否定した事です。

イエスが意味した神の国とは何でしょうか。イエスの奇跡や癒しは神の赦し、神のに愛のしるし、神の支配実現の目に見えるしるし似すぎなかったのです。民衆は目に見えるも

のとしてとられ、目に見えるものに重きを置くという人間のから、イエスを奇跡を行う人して、天使の大群を天から率いてきて、ローマ帝国を滅ぼしてくれるのではないか、宗教的な人物が軍事的・政治的のも指導性を発揮して、かってのダビデ王国のような栄華をもたらしてくれるのではないか、そう言う意味でのメシア期待をイエスに当てはめて、押しつけようとしたのです。ですから、その期待が無く、失望した民衆は。また、一旦イエスを受け入れた人たちも、イエスを離れていったし、最後にはイエスを死に追いやったのです。ではイエスのいう「時は充ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」とは何か。それは「一方的な罪の赦しの宣言・招きを喜んで受け入れなさい」という事なのです。その招待状を受け入れる人には神の国は開かれており、受け入れない人には閉ざされたままで残るのです。

イエスのエルサレム入城をよく見ると、イエスは民衆が期待した王でないことが分かるのです。預言者ゼカリヤはイスラエルの救いを予言します。エルサレムに神に従う「王が来る」と言うのですが、この王の特徴を「ロバに乗ってくる」と言いました。当時は王は馬に乗って来るのが普通でした。王がロバに乗って来るということでゼカリヤは特別な性格を示しています。「柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」です。「柔和な方」と言います。ヘブル語の「高ぶる」をギリシャ語は「柔和」と訳しまし

た。(ヘブル語ynI[‘ ・アニ)、ギリシャ語ではprau?”(プラユス)。意味は「柔和」から受ける感じと違って、本来は腰をかがめた姿勢を表しました。押しつぶされ、虐げられて苦しんでいる様子、また、進んで自分を低くする(へりくだる)という意味になります。

馬に乗るのが、富や権威の象徴であれば、ロバに乗るのは貧しさとへりくだりの象徴です。

私たちはイエスを「素朴で、柔和で人」という感じを持ちますが、「柔和」は重荷を負って背中が曲がる様子を示すとすると、そこに見えるのは「苦しんでいる人々の苦難のすべてをその背に担え耐える姿、そしてそれによって、すべての人を解放する力を発揮するメシアとしてのイエスの姿なのです。今の私たちは理解できます。そう理解したら、歓呼の声を上げて、イエスを歓迎できるでしょう。その日が今日でもあるのです。

また、ロバは平和のシンボルでした。軍馬と戦車は戦争の乗り物ですが、ロバは平和の乗り物です。

クリスマスになると私はパウロの言葉を思います。それはコリントⅡ・8:9節です。

「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。クリスマスは正にこのことが起きた日です。

イエスは私たちを豊かにするために貧しくなられたと言います。少し分かりにくいので、同じ事を言っているパウロの言葉を見ます。フィリピ2:6以下です。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです」。

キリストは豊かで有るのに・・神の身分であり、等しい者であるのに、貧しく・・人間の姿をとり、宿屋ではなく、馬小屋で生まれ、苦難の生涯をおくり、十字架上で死ぬほどに低くなりました。しかし、それは私たちがを豊かにするためだというのです。豊かとは素晴らしい恵みを受けると言うこと、受けたと言うことです。考えてみましょう。私たちは貧しい者でした。私たちは神の前では罪深く、汚れに充ちた者でした。今、私たちは救われて、神の子として愛を受けています。そして、新しい命、永遠の命と復活の約束を頂いています。それは何ものにもまして、素晴らしい事です。ヤコブは書いています。「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」。

ですから、パウロはクリスマスを「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」と言っているのです。(テトス2:11)。

イエスは王ですが、それは人々を支配し、専制的に振るまい、戦争で勝利を得る王ではなく、貧しく、へりくだり、人々に仕え、人々に平和をもたらす王なのです。また、罪と死と悪魔の力から、私たちを解放した王なのです。

この王の元で生きたいと思います。                     アーメン