2010年12月26日 降誕後主日 「かつて語った神は今語る」

マタイによる福音書2章13〜23節
説教: 五十嵐 誠 牧師

◆エジプトに避難する

2:13 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」2:14 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

◆ヘロデ、子供を皆殺しにする

2:16 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。2:17 こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。2:18 「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」

◆エジプトから帰国する

2:19 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、2:20 言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」2:21 そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。2:22 しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、2:23 ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。
マタイによる福音書2章13〜23節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安があるように アーメン

 

クリスマスを思います時、私たちは喜びやうれしさを思いますが、反面大きな悲劇があったことを知ります。それは今日の福音書・・先ほど読みました・・に書かれていました「幼児虐殺」です。カトリック教会の暦では「幼子(児)殉教者」の日として定められています。12月28日になります。幼児虐殺は幼児イエスがエジプトへの逃避に続く出来事です。発端は東方からの博士たちの来訪でした。マタイはこの前に書いています。マタイですが、「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」

で、ヘロデ王は怒って、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」のです。5-6世紀の美術画ではその様子が書かれています。画は兵士たちが母親から子どもを引き離し、背中に負ぶってヘロデ王の前に連れてくるのと、兵士たちが泣き叫ぶ母親から子どもをもぎ取り、地面に投げつけたり、槍に串刺しにする殺戮(さつりく)の場面があります。この子ども達は殉教聖人として讃えられています。エレサレムの聖誕教会には四世紀から彼らのための礼拝堂があります。

問題はこの出来事がヘロデ王の個人的欲望や残酷な性格、猜疑心から起きたことではなく、預言されていた出来事だと言うので問題です。「預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」とあります。同じような言葉がここにあります。エジプトへは「主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」とあり、イエスがベツレヘムでなく、ナザレに住むことは「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」とあります。ですから、全体は神が預言したことの実現であると見ているのです。預言とは旧約聖書のことです。

聖書は二冊・旧約聖書と新約聖書からなっています。旧約は旧教・カトリックの聖書で、新約は新教の本ではありません。いろんな読み方がありますが、よく見ると、旧約も新約もイエス・キリストを指していることが分かります。それを一番よくあたわしているのがヘブライ人への手紙の11:1-2節前半です。こうあります。

「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子・(イエス・キリスト)によってわたしたちに語られました」。ここに三つのことが言われています。第一は時代の違いです。旧約は「かつて」と言う時代です。「かつて」とは「過去のある時に、「以前」です。紀元前14-5世紀です。新約は「終わり日・時」と言う時代です。イエスの時代です。紀元1世紀です。第二は語りかけた相手です。旧約は「先祖たち」です。新約は「私たち」です。第三は神の言葉を仲介・両方の間にたつ者の違いです。旧約は預言者です。神は預言者を通して語られたとは「旧約聖書」です。新約はイエス・キリストをとおして語りかけられました。新約聖書は神がイエス・キリストを通して語られました。「終わりの日」ですが、神の啓示・神の心を表し、示すこと・・がイエス・キリストによって完全に示されたと言うことです。ですから、私たちはイエス・キリストを通して神のみ心を知ります。

ちょっと難しくなりましたが、旧約と新約の関係を示しました。ある先生はイエスの全ては旧約聖書に予言されているといいましたが、米国のヘンリー・ベッテンソンという学者は「聖書ハンドブック」という本で、「旧約の3000以上の予言が新約で成就していると実例をあげていました。私が大学生の頃ですから、今から50年前です。今でもあるかもです。その本は考古学的なことも、しっかりと検証して、ノアの箱船のアララット山での発見をかいていたと思います。聖書の全ては間違いないということを主張していました。

それを「聖書無謬説」と言います。聖書は誤りがないということです。私もこの立場におります。

ところで、今朝の悲しい出来事が予言(600年前の)であり、それが成就したと言いますと、内心穏やかでないものがあります。イエスを裏切ったユダについても、似たような意見がありあした。幼子たちが、殉教者として崇められていたとしてもです。どう考えるべきでしょうか。旧約聖書の創世記35:16-20に歴史的出来事があります。

マタイは、エレミヤの言葉を引用して、この出来事もまた、預言の成就だと言っているのです。一般の方やユダヤ人でない方には理解が出来ないかも知れませんが、ユダヤ人には大事なのです。歴史的出来事を説明します。こう書いてあります。エレミヤ31:15-16にあります。創世記を知らないと難しいですが。それは牧師の役割ですから説明します。

「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる、苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む、息子たちはもういないのだから。主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る」

アブラハムの孫ヤコブの妻ラケルは、ベツレヘム付近のラマで子どもを産みました。難産で死に、ラケルは葬られました。その出来事をエレミヤはバビロニアに滅ぼされ、「バビロニア捕囚」になります。強制的にユダヤの国から、バビロニアに連れていかれ、異国で暮らしました。その時のユダヤ人の悲しみの声を表現するために、昔のラマでのヤコブの悲しみの出来事に関連させて語ったのです。子どもを殺された母親の悲しみを指すものとして引用されています。難しいですが、昔の悲しみ(予言)が、今また目の前に起きていると考えるのです。考えると頭が痛くなります。歴史は繰り返すですか。

では、この三つのこと・・幼児イエスのエジプト逃避、子どもの殺害、イエスが「ナザレの人」という・・が予言とその成就といわれることの意味を考えましょう。何を聖書は私たちに語っているかです。

全体的に見て、私は神の救いの計画とそれを妨げるものの力との対立を見ます。最終的には神の勝利を伝えていることです。これをしっかりと持ちたいと思います。

イエスは公に伝道の業をする前に、荒野で誘惑に合いました。イエスの使命・・救い主としての・・を妨げる、悪魔との戦いでした。(マタイ4:1-11)。イエスの生涯は誕生から十字架まで、悪魔というか敵対する力との戦いだとも言えます。イエスの十字架は、あるものにとっては、ユダヤ人や、敵対する力には、イエスの敗北と見られます。しかし、私たちにとっては、イエスの勝利でした。イエスの復活がそれを証明しました。復活祭の讃美歌は勝利を歌います。「キリスト勝ちて、仇みな滅びぬ」(98)とか「戦い終わりて、主は勝ちたもう」(89)。勝利の朝、日です。」

私は次の二つのイエスの言葉がすきです。一つは「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」。(ヨハネ14:19)。もう一つは「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」。(ヨハネ16:20)。イエスが十字架に就く前、直前に弟子たちに・・不安で、悲嘆に暮れるであろう、弟子たちにいわれた言葉です。イエスの十字架の死は弟子たちにはイエスを見なくなることでした。それはこの世の人々には喜びでした。最大の敵を始末したからです。自分たちは安心だと思いましたからです。一方、弟子たちにとっては、悲しみでした。最愛の主が死んだから、もう目には見ることが出来なくなる。たとえ三日とはいえ悲しみの日でした。しかし、復活の朝、悲しみは喜びに変わりました。「その悲しみは喜びに変わる」。約束の通りになりました。この言葉はいつの場合にもそうだと思います。日々の信仰生活で様々なことが起こります。いいことも、またそうでないこともです。思いがけないこともあります。悲しみや悩みに入ることもあります。そんなとき、「その悲しみは喜びに変わる」。「喜びに変わるのだ」ということを覚えていたい。

イエスの誕生の時に、悲しい出来事が起きたと言えますが、私はイエスの救いの働きの陰に大きな犠牲があったとおもいます。子ども達は聖人としてありますが、その大きな犠牲があったからこそ、私たちの救いがあるのだと思わざるをえません。その神の心を思いますが、神も苦しまれたとも思いますが。どうでしょうか。

一つイエスは「ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」という言葉を説明します。イエスは「ナザレ人のイエス」(各福音書)ています。十字架の時、上の方に「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書かれていました。この呼び方は、軽蔑される名称でした。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1;46)といわれていました。イエスがメシアとして、崇められるより、軽蔑され、拒絶されることを意味しています。イザヤ書53章など見るとはっきりします。それも預言の通りであるということです。

今年も、最後の礼拝を持ちました。いろんなことがありました。思い浮かびます。共に礼拝し、主を讃美し、感謝をしたことを、うれしく思います。貧しい説教に耳を傾けてくださって感謝をします。少しでもおやくたったらさいわいです。悲しいこと苦しいこと嫌なことがあったでしょう。しかし、それは「しばらく」の事です。しばらくすれば、「喜び、楽しみ」があります。4月には新しい牧師が赴任します。大きな喜びです。それを見ながら、共に進みたいと思います。

神と共に、新年を迎えましょう。よい年を迎えてください。

アーメン