2011年1月9日 主の洗礼日(顕現節第2主日) 「イエスの洗礼と私・・・洗礼とは」

マタイによる福音書3章13〜17節
説教:五十嵐 誠 牧師

◆イエス、洗礼を受ける

3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。3:14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」3:15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。3:16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。3:17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
マタイによる福音書3章13〜17節


私たちの父なる神と主イエスキリストから 恵みと平安が あるように  アーメン

 

さて、今日は「主の洗礼日」という教会の暦の日です。福音書も洗礼について語り、最後に、イエスの洗礼でと閉じています。3章には洗礼者ヨハネの洗礼についてありました。彼はヨルダン川で「悔い改めの洗礼」をしていましたが、多くの人々が受けていました。彼は自分の洗礼を「水で洗礼をする」といい、もう一つの洗礼について語っていました。「聖霊と火による洗礼」です。後者はイエスの、キリスト教会の洗礼を言います。今日はイエスの洗礼・・イエスが教会に命じられている洗礼とその意味について、考えていきます。

ただ、一つ蛇足ですが、誤解があるので、「聖霊と火による洗礼」に触れます。現在でも、洗礼は二つあって、二つめの洗礼を経験しないと、本当の信者でない。生まれ変わっていないと言います。二つめの洗礼とは「聖霊の洗礼」です。私が横浜教会にいたときに、そう言う方がいました。その方は自分が「聖霊の洗礼」を受けたことを、嬉々としてかたり、私のことを見て、生ぬるいと思ったんでしょうか、「先生のために祈っています」と言いました。私はからかうつもりはないのですが、正直言って、少しはからかう気で「何を祈るのですか」と聞きました。その人は「聖霊の洗礼・バプテスマを受けるようにです」と。私はお礼を言い、でも「そんなことで神さまを煩わすことないですよ。主はめぐみ深い方ですから、既に私に聖霊をくださっていますから」。すると、疑うように言いました。「本当ですか、どのようにして、いつですか」といいました。私は高校生時代に、横浜教会で、イゴルフ宣教師から洗礼を受けました。父と子と聖霊の名によってです。イゴルフ先生は、「あなたは聖霊を受けましたよ。それを用いなさい」といってくれましたし、私は牧師就任式の按手で、「さあ、あなたは聖霊を受けていますよ、行って福音を語りなさい」と告げられ。牧師として仕えています」。聖霊が、私に、お前は聖霊の賜物を用いていないねとか、聖霊で生きていないようだねとか言わない以上、私は聖霊を受けていることを否定できませんよ」といいましたが、その方は「おお!主よ」と言いました。失望したのでしょうか。変な牧師と思ったのかも。

キリスト教が衰退したり、生ぬるい様子を示しますと、聖霊運動が発生します。今もあります。ルーテル教会の行き方に失望して、その運動に参加する人がでます。私も、そんな方を経験しています。でも、よく見ると続かないで終わることが多いと思います。その人は自分の信仰は大学院クラスの信者だが、先生は高校生クラス以下と言いたいようでした。悪意はないのでしょうが、このような人は、信仰の裁判官のように振る舞いますし、自分の信仰を誇るのですね。聖霊がもたらす実の“愛、平和、優しさ、親切、柔和、誠実、節制”が見えないのは不思議でした。いい点が沢山あるのですが、なぜ、こんな間違いが起こるかですが、それは洗礼は神の業であるということをしっかりと理解しないことから起こるのです。神の業であるから、神の業を補完するような、確かにするような、別の“わざ”を待つことは要らないのです。たとえば、イエスの十字架は私たちの救いにとって十分だから、人間が何か補充する必要はないのと同じです。(反対を言うのが神人協力説があります・synergism)。私は、すべての誤りや誤解は、それが神の業であることを理解しない、見ない、知らないで、人間が何かしなければ考えることから来ていると思っています。

今日はイエスの洗礼を見ますが、普通は、イエスが洗礼を受けるとは考えられないことです。というのは、洗礼はペトロが次のように言っているからです。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(使徒言行録2:38・ペンテコステの説教)。また、イエスは罪のない方だからです。天使はマリアに「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)。

「この大祭司(キリスト)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。)(ヘブル4:15)。

では、なぜ罪のないイエスが洗礼を受けられたかですが、・・ヨハネは自分こそ、イエスから受けるにふさわしいというのは正しいのです・・マタイはイエスが「止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(3:15)。「正しい」とは、学者は解釈しますが、「正しい」(ツェダカー)はヘブル語では救いを意味します。救いとは神の行為であり、死ぬべき人に命を与える神ご自身の業になります。私は、イエスはご自分の救い主としての働きを始めるあたり、その第一歩として受けられたと思います。私たちと連帯するためです。ですから、イエスは洗礼を尊重し、受けられたのです。ですから、イエスご自身も教会に洗礼を命じられたのです。ですから、洗礼を軽視したり、無視することは間違いなのです。

現在、洗礼はどう受け止められているでしょうか。先の聖霊の洗礼は別にしてですが。普通は、洗礼は人がクリスチャンになる時や、教会の会員になる際に受けるものと考えています。いわば、新人の入社式・入会式的な見方です。洗礼を受けると、信仰の共同体の教会の仲間・会員になります。そして、権利と義務が生じます。洗礼は、はじめから、キリストに従うものになるとは、キリストの体である教会に繋がれることなのです。残念ことは、洗礼を受けると、そこで止まってしまう信徒があることです。俗に「卒業信者」です。これは意外に多いのです。信仰のABCで、それ以上行かない人です。卒業式ですが、日本語の感覚では、終わり、終点のように思いますが、英語では・・ラテン語ですが、コメンスメント・commencementですが、意味は始まり、開始です。ヘブライ人への手紙で、著者(パウロ?)は書いています。心して聞きたいと思います。

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。(新改訳)。

洗礼は実に豊かなもので、人を導き、聖別し、祝福し、神の国へと迎え入れる、栄光に満ちたもの・神の業です。

生ぬるい生き方の信仰者への批判として、前に触れた聖霊派の動きがありますが、中には、もう一回洗礼を受けたい、・やり直しを希望する方がいました。驚きました。気持は分かりかすが、洗礼の意味を間違えています。ある意味では、洗礼について正しく理解していないから、信仰生活が、生ぬるいし、信仰の確信がつかめないと言えます。洗礼の仕方は二つあります。額か頭に水を注ぐと全身を水に入れる、です。ルーテル教会は前者です。

次の質問にどう答えますか。ルターがあるとき、したものです。「あなたはどうしたら自分がキリスト者(クリスチャン)であると、自分で知ることができるでしょうか」。また、私からの質問ですが。「自分の信仰が、揺るいだとき、悩みに落ちたとき、悪魔が信仰から引き離そうとしたとき、どこに、立ちますか」です。多くの方にとって答えにくいと聞きました。でも、ルターの質問も、答えは簡単なのですが、私たちは自分の信仰に、固い自信がないからです。たいていの方は自分の信仰は貧しいものといいますし、感じます。後者の私の質問も、うろうろしている自分を思い出します。私たちの周りには、多くの仲間が信仰から、脱落したりするのを見ます。答難いのというのは、教会が正しく教えていないと言うことも原因です。信徒も、今さらそんなことを聞けないとか、恥ずかしいと思います。で、答えを見いださないで、教会から去っていく場合もあります。

ルターは、最初の質問に答えています。「あなたはご自分が洗礼を受けていることを知っているでしょう。それならば、ほかに知らなければならないことなどありません」と、はっきり言っています。また、彼自身も、ある時、サタンが現れた時に、インク瓶を投げつけて、「私は洗礼を受けているんだ」と答えて、悪魔を追い払っています。その傷跡が部屋に今もあるそうです。私の質問への答えですが、私もルターと同じように、「洗礼こそ、私たちの帰る原点だ」と答えたいと思います。“Back to the Baptism”・・Your My Baptismです。私は自分の洗礼を自分の出発点としながら、現代の社会で、キリスト者として生きる力と意味を、今年は見直ししたいと思っています。旧約聖書で預言者イザヤは、勧めています。(46:9)「思い起こせ、初め(昔)のことを」。これは面白いですが、日本は「忘れる」ですが、ヘブル人は「忘れるな・覚えていよ」が特徴です。

洗礼とは何でしょうか、どんな意味が私にあるのでしょうか。私も復習の意味で考えて見ました。凄い内容でした。自分でも忘れていたことや、洗礼準備コースで教えたつもりですが、どれだけ皆さんが覚えているかです。共に学んでいきましょう。

1.神との永遠の契約です。私たちが神の子として、神のものだという“しるし”(十字架の)です。神に属するものとして“刻印・焼き印”額に(目には見えませんが)持つものです。大きな印鑑で押しているのです。洗礼において神はわたしたちをご自分のとものとされたのです。私たちは神に選ばれたのです。洗礼は神との永遠の契約ですから、それは永遠に有効なのです。再洗礼は不要です。ルターはこう言っています。「洗礼は、神が私たちを所有されていることを示すしるしである。神は私たちのために代価を払い、私たちに刻印・焼き印を押し、私たちを買い取られました。それ故、私たちはもはや恐れることはなく、静かな確信を持って生きることができる」と。そう思います。ルターは面白いことを言っています。「神は“嫉妬・jealousy”の神だから、ご自分の民に他の神々がちょっかいの手を出そうとするのを、決して赦しません」と。私たちは神の中にあるのです。私は確信を持っています「神は、この私を知っていてくださる」と。確かなことです。パウロは迷っていて、信仰から落ちようとしたガラテヤの教会に書いていました。「今は神を知っている、いや、むしろ神から(神に)知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」(ガラテヤ4:9)。

2.洗礼はキリストと一つになること・・よく、日本では神と一つになるというと“エクスタシー・ecstasy”つまり、忘我、有頂天、恍惚、法悦にとります。えも言われぬ・何とも言い表せない感情です。私は先日、コロサイ人への手紙の注解書を翻訳しました。その中で、パウロは洗礼について書いていました。以下です。

洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。・・・罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです」。(コロサイ2:12-13)。

パウロはさらに、「神は・・・わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです」。(テトス3:5)とも書いています。

洗礼は古い自分がキリスト共に死んで、私たちを新しく生まれた者、新しく創られた者にするのです。素晴らしいことではないでしょうか。この罪の中にいた者が、その罪が洗われて、新しい人として変えられ、生まれるのです。自分は変わる必要がないと思う人は、変わりようがありません。手がきれいな人は洗う必要がないからです。丈夫な、健康な人には、医者は要りません。

そして、新しくされた人は、それは神がなされた業ですから、その神は必ず、最後まで導かれるのです。パウロはこう言いました。フィリピ1:6です。

「そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している」。私はそう確信しています。

黒人霊歌に「アメージング・グレース」というのが、よく歌われます。本田美奈子さんや森山良子さんが歌います。数年前の関東地区サマーキャンプで、小坂忠先生のは、信仰がこもった歌い方でした。それは「驚くべき恵み!」と訳されます。私は今、神に見いだされたことを歌ったものです。救われた瞬間を思い起こしているのです。しかし、多くの人は、後半の言葉を忘れています。それはこうです。「これからも神の恵みが私たちを、ふるさとへ導いてくれる」と。故郷とは神の国・私たちに用意されている天です。パウロが「わたしたちの本国は天にあります」と言うとおりです。私の時は神のみ手の中にあると信じて生きたいと思う。

3.洗礼は、普通、人がクリスチャンになる時や、教会の会員になる際に受けるものと考えています。いわば、新人の入社式・入会式的な見方です。洗礼を受けると、信仰の共同体の教会の仲間・会員になります。そして、権利と義務が生じます。洗礼は、はじめから、キリストに従うものになるとは、キリストの体である教会に繋がれることなのです。教会から離れた、独身の信仰者はいないと言うことです。ぽつんと離れた、無教会的な信徒は存在しないのです。日本には無教会というのがありますが、でも仲間・グループをなしています。

教会の洗礼式で、私たちはショウ・見せ物を見ているのではないのです。私たちは新しく洗礼を受ける人の、教会の仲間・会員として集まっているのです。そこでこう言います。「今や、あなたは私たちに属する方です。そして、私たちはあなたに属する者です」。洗礼は私たちを、教会に、人々の共同体に、つまり、キリストの体に結びつけるのである。私たちはその(キリスト)の体のメンバー(部分)になるのである。だから、私たちは皆、家族です。“Christian family”です。よく“家庭的な教会”と言います。何かいい感じを思いますが、これがくせ者です。マーマー主義になります。信仰生活でお互いに見ぬふりをする、注意しない。そして、居心地のいいグループになる。それが暖かい教会と思います。それは違います。「ブロークン・ウィンドー理論・Broken window theory」と呼ばれている言葉があります。こわれ窓が放置されている学校は規律が甘いので、少々のいたずらを見過ごすだろうと思われてしまう。いたずらを見過ごすなら、少々の悪事も見過ごすと思われてしまう。やがて地域の荒廃、衰亡に至ります。教会も同じです。自分の教会を見直してみたい。会員はお互いに「切磋琢磨」したい。

私たちの交わりは、本当は“み霊による生活”です。それは相互責任の共同生活、相互に分かち合う共同生活です。パウロはこう言っています。どうですか。

「私たちは従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」(ローマ7:6)。「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」(同12:11)。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」。(フィリピ2:11ー12)。

1965年のミス・アメリカの美人コンテストで、ボンダ・ケイ・バン・ダイクは、最終審査に上がる前に祈りました。自分が最善を尽くせるように、またできれば、キリストの証人となることができるようにと。彼女はチャンスを手にしました。司会者は「あなたが、幸運をもたらすお守りのように、いつも聖書を身に付けているのを、私は知っています。あなたの宗教について一言どうぞ」と求めました。すると彼女は「私はお守りとして聖書を持っているのではありません。聖書は私にとって大切な本です。神と私の親しい交わりのことを宗教と呼びたくありません。それは信仰なのです。私は、神を信じ、信頼し、いつも神のみ心がなされるように祈っています」と。

私は彼女の言葉の「神と私の親しい交わりのことを宗教と呼びたくありません。それは信仰なのです。神を信じ、信頼し、いつも神のみ心がなされる」ことを、共にする所が教会だと思っています。宗教と信仰の違いをしっかりと見極めなくてはならない。私たちは案外、宗教的な生き方をしています。ぞれが信仰と誤解しています。

私たちは家族との生活を通して、家族とはなにかを学んだはずです。家族の中で共に生き、責任を持ち、それを果たし、相互に教え合い、共に食卓を囲み、互いに愛し、愛されることを通して学びをしたはずです。それと同じく、教会・神の家族においても、参加し、経験しながら成長していくのです。パウロは次のように勧めています。コロサイ3:12以下です。この教会の結婚式でよく読まれます。

「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」

ルターは洗礼について、こう言っていました。「神は水の中に(洗礼に)祝福という真珠をおくのである。信仰は無代価の賜物として、これらの祝福・真珠を受ける手である」。

その洗礼を思い起こし、その原点に立って、救われた者として、日々生きたいと思います。

アーメン