2011年2月20日 顕現節第8主日 「一人の主人に仕える」

マタイによる福音書6章24〜34節
説教: 安藤 政泰 牧師

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」   マタイによる福音書6章24〜34節


当時のユダヤ社会では、一人の奴隷を2人で所有することが出来ました。しかし、奴隷にとっては二人の主人が居ることは大変苦労の多い事で、また同時に、耐え難いような事が起こっても不思議ではありません。どちらの主人も、自分だけの所有のように扱うからです。聖書では、そうした日常起こるトラブルを題材にして二人の主人に仕える難しさを述べています。

 

「富と神」と言う二人の主人に同時に仕えれば、問題が起こる、と警告しているのです。仕えて何が得られるのでしょうか。仕えると言うことに、どんな意味があるのでしょうか。従うということです。少なくとも聖書では「あなたの生命に関わる事」だと記しています。生命、聖書では「たましい」「霊」の事です。神は与えられた生命を養って下さいます。この生命は人間の存在すべてを意味しているのです。その生命「たましい」を創造された神が、それより次元の低い衣類、食物を人間に用意されないはずが無いと、述べています。

信仰とは何でしょうか。それは、神に信頼し、神により頼む事です。それは、部分的な信頼ではなく、全面的な信頼です。しかし、信仰自体、神から賜ったものです。戴いた信仰を育てるには、人はどうすれば良いのでしょうか?

人生のほんの些細な、小さな事をでも、完全に神により頼めるようにする事です。どんな小さな事でも神により頼めるのでしょうか。それには、「所有」と言うことを考えてみましょう。もっている、所有しているとはどんな意味があるのでしょうか。よく「お金は墓場まではもって行けない」と言います。しかし、よく考えると、私たちは、神が造られたすべてを所有しているのです。だからことさら自己主張するような「所有」は必要ないと聖書は言うのです。別な表現では、必要なものは必ず与えられるのですから、今更何を所有したいのか、と言うことです。「与えられる」と確信した時、ささいな事でも神を信頼し、問いかけられるようになります。

自分の生命の終わり近づいても、ヨブのように 裸で生まれたのだから 裸で神のもとに 帰る覚悟が出来ないのが、悲しい私たちの現実です。たしかに、富を貯える事を聖書は否定しているのではありません。富に仕えるなと警告しているのです。富ではなく、神に仕える時、富も地位も、必要はすべて満たされる、今満たされて居るのです。あなたは今満たされていますよ。あなたは今恵まれていますと、互いに確信し、共に神に感謝し、支え合うことが出来る教会員の交わりが出来ればと願います。それが 神様に仕える道となりますように祈ります。