2011年7月17日 聖霊降臨後第5主日 「平和ではなく剣」

マタイによる福音書10章34〜42節
説教:高野 公雄 牧師

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

マタイによる福音書10章34〜42節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音書も、マタイ福音書10章の、12使徒を派遣するにあたってイエスさまが語った長い説教の続きで、その結びの部分です。先週の箇所では、迫害が予告されましたが、この個所も迫害下の宣教という状況を引き継いでいます。

きょうの福音書は、《わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ》という、意想外の言葉から始まります。イエスさまは《平和の君》(イザヤ書9章6)と称えられる方であり、《キリストはわたしたちの平和》(エフェソ2章14)であると信じられる方です。また、ご自身が山上の説教で《平和を実現する人々は、幸いである》(マタイ5章9)と教えられたのですが、きょうの言葉は、それとは反対のことを言っているように見えます。きょうはまず、このことからよく見ていきましょう。

イエスさまは初めに引用した言葉に続けて、《わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない》と話しています。どうやら、イエスさまはキリスト教の伝道活動が、家族間の平和を壊すことにもなるであろうと、家族の平和を問題にしているようです。

イエスさまの預言のとおり、マタイたち使徒の時代から現代にいたるまで、ユダヤ人がクリスチャンになることは家族との別離、ユダヤ人社会からの追放を意味することになりました。

日本でも同じようです。先週は、江本真理牧師の父親である江本正幸牧師の葬儀について報告したとき、彼が長野県の農家の長男であって、家業の跡を継がずに牧師になる決心をしたことで、親から勘当されたということを話しました。私自身は三男でしたからどうなっても構わなかったのですが、それでも熱心に教会に通い始め、日曜日に家族と一緒に行動しなくなると、母から「きみちゃん(私は大学生でしたが、家族からそう呼ばれていました)、家族がばらばらになって良いものなのかねえ」と心配そうに訴えられました。そのことは、洗礼を受けるときにはある意味で出家する腹が必要な大きな決断なのだと悟らされました。私の生家の周りには高野姓の家がたくさんあったのですが、天理教の家がいわば村八分になっていました。また後に、牧師になってから、家族で自分ひとりがクリスチャンである女性が年を取って家族の世話になったとたんに、教会に通うことを禁じられた例を経験しています。

聖書に《あなたの父母を敬え》(出エジプト20章)という戒めがあり、また《あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい》(申命記6章5)という戒めもあります。余程のことがなければ、この二つの戒めは両立するはずです。でも、「イエスさまを信じるのか、肉親を取るのか」と二者択一を迫られる時が来るかもしれない。そのときには、イエスさまを固く取って離さないように願い、勧めておられるのです。でも、《わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない》だなんて、まるでカルト宗教の言い分のようではありませんか。

では、二者択一の矛盾はどうして起きるのでしょうか。それは、イエスさまの教える「愛」が「肉親の情」を超える広さをもっているからです。《「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」》(マタイ12章48~50)。この言葉に示されたような、家族の絆よりももっと大切な真実に目覚めたとき、新しい生き方のもとで本当の意味で家族を愛せるようになるのではないでしょうか。

しかしまた、「平和」という言葉は、肉親という身の回り範囲のことだけでなく、もっと広い国家の問題、またもっと深い個人の魂の問題をも含んでいます。そのことをきょうの旧約聖書の日課(エレミヤ書28章5~9)は示していました。

この箇所には、旧約時代の預言者エレミヤと偽預言者のハナヌヤという人が出てきます。エレミヤは自分で首に木の枷(かせ)をつけた姿でいました。この首の枷は、ユダ王国は強大なバビロニア帝国に降伏して、バビロンに捕虜として引かれていくことを表します(これは「バビロン捕囚」と呼ばれます)。神はユダの人々の背信行為のゆえに災いを降しますが、70年の後にはまた約束の地に帰らせてくださるつもりだ、とエレミヤは言うのでした。反対に、偽預言者ハナヌヤは、70年ではなく2年で自分たちを苦しめているバビロンのネブカデネザルを追い払い、連れて行かれたエホヤキン王と奪われた宝は全部返ってくると言うのです。これはユダの人々が喜ぶ言葉です。この二人の預言のどちらを民衆が信じたでしょうか。もちろん偽預言者ハナヌヤです。

イスラエルの人々は互いに「シャローム」とあいさつを交わします。「あなたに平和があるように」、との祈願と祝福の言葉です。「平和」という言葉は、聖書の基本的な観念のひとつです。それは、単に国と国との間に戦いのないことではありません。神と人との間、人と人との間、人の心の中、人と自然の間に充実した平和・平安をもち、人が人として本来の姿をかちうることなのです。預言者エレミヤは人々の平和を願って、そのためには神に背信したことを認め、悔い改めなければならないと説くのですが、偽の預言者は偽りの平和を預言しています。《彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』と言う》(エレミヤ書6章14)。私たちは人々の歓心を買おうとする偽預言者の言葉に惹かれ、本物の預言者の耳に痛い言葉を遠ざけるのです。《わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ》というイエスさまの真実の言葉に耳を傾けましょう。パウロも、《人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです》(Ⅰテサロニケ5章3)と警告しています。

《平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ》というイエスさまの使徒たちに対する、そして私たちに対するチャレンジはまだ続きます。それは、《また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない》という言葉です。

「十字架」つまり「磔刑」は、ローマ帝国の極刑でして、皇帝への反逆罪に対して課されるものでした。ローマ総督のピラトにとって、イエスさまが「ユダヤ人の王」つまりローマの支配を排除し、ユダヤの独立を図る者であることが罪状でした。イエスさまの左右に十字架に上げられた二人の強盗も、単なる物取りの強盗ではなく、独立運動に献身したゲリラ兵たちでした。「自分の十字架を担う」とは、弟子たちが、このゲリラ兵たちのように身命を賭してイエスさまに従うことを求めておられるのです。

ここで、「命あってのものだね」とばかり、保身に走ろうとする者に対しては、《自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである》と警告しておられます。自分を守ろうとする人、何ものからも自由であろうとする人は、玉ねぎのようにいくら皮をむいても芯に至らず、結局は守ろうとする自分が空であることに気付くことになろう。むしろそういう己を捨てて、イエスさまの福音に献身することによってこそ、本当の自分を見出すであろう。これは警告であると同時に、約束でもあります。

40~42節は結びの結びになります。ここに出てくる「預言者」、「正しい人」、「この小さな者」は、皆イエスさまの弟子のことです。ユダヤ教の思想に「使者は、遣わした者自身である」というのがあります。誰であれイエスさまによって福音宣教のために遣わされた者は、遣わした方自身と見なされます。リベリアの大使であるヤンガーさんは、リベリアという国またはリベリアの大統領を代表する方として受け入れられるのです。《あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである》とは、そういうことです。あなたがたは小さな者、弱い者であってもイエスさまの使者である。だから、あなたがたに《冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける》。別の箇所でイエスさまは、《はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである》(マタイ25章40)とおっしゃっておられますが、イエスさまはあなたたちを、私たちをご自分の代理、いやご自分自身と見なすほどに大切に見ていてくださる。だから、不信仰な世にあって恐れずに宣べ伝えなさい、と私たちを励ましておられるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン