マタイによる福音書16章13〜20節 樫木 芳昭 牧師
※説教概要です。
◇人々は、人の子のことを何者だと言っているか。
◇この言葉は、キリストは世評を気にする人物という印象を人びとに与えかねないと言った作家がいる。
◇確かにこの言葉だけを取り出したら、キリストは人びとの評判を気にする、小心な人物、向こう受けを狙った軽佻浮薄な人物になりかねない。
◇この作家の指摘した、キリストが世評を気にする人物か否かは想像の世界、小説の世界に属することで、信仰の外側の事柄です。
◇私たちにとって大切なことはキリストが何故人々は、人の子のことを何者だと言っているか問われたかこと。
◇この人々は、人の子のことを何者だと言っているかと問いかけるキリストに、弟子たちは口々に『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいますと応えた。
◇この弟子たちの言葉について、大変興味深い発言があります。
◇それは、A.シュバイツアー博士がイエス伝研究史という論文で、イエス像は常にその時代の思想に強く影響されていると述べていること。
◇博士の説に照らすと、この人々の言葉は.当時のユダヤの民の希望や期待を表す。
◇それは真実を確かめない風評である。
◇洗礼者ヨハネ、このときはもうすでにヘロデによって処刑されている。
◇民には、権力も恐れず、駄目なものは駄目、八重の桜流に言えばならぬものはなりませぬと直言する英雄的信仰者。
◇人々の言葉は、その洗礼者ヨハネが再来して、いわゆる世直しすることの期待を示している。
◇エリヤは、彼が預言者の中で最大の預言者とされ、マラキ書に“見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす(03:23)”と預言されているように、その出現は主の日・終末到来の先触れであり、その日には一切の神の敵が滅ぼされる神の勝利が実現すると、人々が信じていることを表す。
◇それでユダヤの民は、いまも過越の食事を守るとき、家族の数+、もう一人前をエリヤの分として用意し、その席に彼がついたら、その時が到来すると信じ、その時を待っている。
◇エレミヤは旧約聖書続編のⅡマカベア01:01~09に記されているが、ユダヤがバビロンに征服され、神殿が略奪されたとき、エレミヤが密かに運び出し、誰も知らないところに隠し、メシア到来に先だって彼が戻ってきてそれを取り出すと、神の栄光が再びイスラエルを覆うと信じられていた。
◇預言者の一人だとは神がいま自分たちに送り出された預言者の一人だということ。
◇以上が、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになったと問われたときの弟子たちの応えで、彼らの見解ではない。
◇つまり人の噂、風評で、人の噂、風評というと、チョット身を引きがちになるが、ここで思い出してほしい。
◇先週の福音のカナンの女がキリストに、主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでくださいと叫び続け、救いを受けたのは、彼女がキリストのことを人の噂に聞いていたからです。
◇人の噂や風評が一概に頭から悪いと決めつけると、キリストと出会う機会を損なうこともある。
◇キリストは人びとの噂を口にする弟子たちに、それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのかと問われた。
◇これは、噂ではなく、実際に私の言動を体験しているあなたがたはわたしを何者だと言うのかという弟子たちへの問い。
◇この問いにペトロがあなたはメシア、生ける神の子ですと答えた。
◇この応え、あなたがたはわたしを何者だと言うのかと問いかけているので、これは彼個人の答ではなく、弟子たちが合議して出した答を彼が一同を代表してと見るべき。
◇それはキリストがペトロにシモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てると言われた、この教会という語が個人ではなく、集団を表す語だから。
◇この教会という語、新約聖書に数多く登場しますが、福音書で教会という語はマタイに三回だけ。
◇そして、今日の日課が最初で、しかも教会とは何であるかの説明は全くない。
◇こ会という語、使徒たちの手紙には頻繁に登場するが、具体的に何を意味していたのか、正確な定義は新約聖書記されていない。
◇が、一カ所、パウロの手紙に教会とは何かということを理解するヒントが記されている。
◇それは、コリントⅠの冒頭の“神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ(01:01~)”。
◇ここでパウロは教会は、主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々の集まりだと述べている。
◇①これは教会は人間が造り上げた組織や制度でないということ。
◇②教会は、建物などの目に見える形を必ずしも必要としないということ。
◇③チョット理屈っぽくなるが、教会はイエスに出会って、イエスの中に自分の人生を支え導く光と力を見出し、イエスをキリスト、私の救い主、私の人生の唯一の主と告白する人びとの集まり、共に生きる共同体であるいうこと。
◇私たちが礼拝の度毎に、聖なる公同の教会を信じますと告白する教会は、何某ルーテル教会という個々の教会ではなく、この教会なのです。
◇聖なる公同の教会は、いわゆる聖人君子の集まりではなく、その人がどのような人であれ、イエスによって召されて聖なる者とされた人々の集まりだということ。
◇ですから、イエスによって召されて聖なる者とされた最初の人々はもう聖者という語のイメージからほど遠い人びと。
◇具体例をあげると、七つの悪霊に取り憑かれていたマグダラのマリア、姦淫の現場を捕らえられながらキリストに救われた女性、人びとに忌み嫌われた徴税人のマタイ、同じくキリストを我が家に迎え入れた徴税人のザアカイ、漁師のペトロやヨハネ、当時の社会で枠の外の人と見なされる人びとがほとんど。
◇この人びと、その社会的地位も評価も全く異なり、キリストに出会ったきっかけも異なるが、同時に一つの共通点をもっている。
◇それは、その人生の途上で、イエスに出会い、その人柄に惹かれ、その教えに導かれて、イエスこそキリスト・我が唯一の救い主と告白していること。
◇その弟子たちの代表して、イエスこそキリスト・我が唯一の救い主と告白するペトロにキリストはは言われた。
◇シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
◇教会とは、あなたがたはわたしを何者だと言うのかとイエスに尋ねられ、日々の営みの中でキリストの言動に接し、導かれ、あなたはメシア、生ける神の子ですと告白する信仰の上に築かれる。
◇ですから、教会は聖人君子の集まり、完全な人格者の集まりではありません。
◇実際、イエスにあなたはメシア、生ける神の子ですと告白し、シモン・バルヨナ、あなたは幸いだと言われたペトロも他の人びとと変わるところはなかった。
◇マタイは、このシモン・バルヨナ、あなたは幸いだと言われた直後、ペトロはキリストにご自分の死と復活を予告されると、主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりませんとイエスをわきへお連れして、いさめ始め、にサタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っていると叱責されたと伝えている。
◇マタイは紀元50前後、ペトロが指導者として人びとに認められ始めた時期に書き記されたされている。
◇人は頭角を現すと、過去を美談で飾るのが常で、弱さ欠点をさらけ出すのは常識から言えば大変なこと。
◇何故、ペトロは敢えてそれを人びとの前にさらけ出したのか!
◇それは、主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう(2.Cor.12:09~10)とパウロが述べているよう、神は人の弱さ、欠点をもご自分の器としてお用いになるからです。
◇この後も、ペテロは十字架に付けられていくキリストに背を向ける、弱く卑怯な人間であった。
◇キリストはペトロが弱い罪人であることを承知の上で、その告白を岩と呼び、その岩を礎にわたしの教会を建てると言われた。
◇キリストにサタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っているとサタン呼ばわりされ叱責されたペトロはこのことによってキリスト.の弟子の群れから追放も破門もされなかった。
◇それは、真の聖なる公同の教会は罪赦された罪人の集まりだから。
◇その自分が罪赦された罪人であることを隠さなかったからこそ、キリストはペトロを聖なる公同の教会の大切な一人とされた。
◇キリストは、そのペトロにあなたに天の国の鍵を授けると重要な役割を与えられた。
◇門番の大切な役割は門の鍵の開け閉めです。
◇ときどき、だから教会には相応しくない者を閉め出す権威と役割が与えられているという人がいる。
◇これは勘違いで、そのような教会はキリストの教会ではなく、人間が勝手に考えて作り上げた教会に。
◇天の国の門番とは、この世の目には相応しくない者のために門を大きく開くのが役目。
◇人間が自分の考えで作り上げた教会は、それほど組織・制度が整っていても、また荘厳華麗な儀式が執り行われても、キリストの教会ではない。
◇キリストにあなたがたはわたしを何者だと言うのかと問われ、その問いに、人がどう言っているかではなく、自分はと、誠実に応える者が召されるのが聖なる公同の教会。
◇キリストはその聖なる公同の教会の門を、あなたの前に、そしてすべての人びとの前に開いて待っておられます。
◇聖なる神殿に向かってひれ伏し、
主の慈しみとまこととのゆえに、そのみ名に感謝をささげる人は幸い。
◇神がわたしたちを祝福してくださいますように。
地の果てに至るまで
すべてのものが神を畏れ敬いますように。アーメン