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2019年11月17日 聖霊降臨後第23主日の説教 「跡継ぎ」

「跡継ぎ」 ルカによる福音書20章27~40節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 今日の福音書の中で、復活を否定するサドカイ派の人々が、ある女性の結婚生活を事例に、主イエスと復活の本質について議論しています。跡継ぎを残さないまま夫と死別した女性は、跡継ぎを残すために夫の兄弟とも結婚し、7人もの男性と結婚しました。この結婚の制度はレビラト婚と言って、その掟が申命記25章5節に記されています。「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。」(25:5~6)その家を絶やさないようにするため、妻はその家の一族の者と再婚しなくてはならないということでした。
 
 この女性には跡継ぎを残すという結婚のプレッシャーがあったのかもしれません。子宝に恵まれず、夫と死別し、夫の弟とも結婚し、子宝に恵まれず、夫と死別し・・・ということを7回も繰り返し、その都度悲しみや苦しみを背負わなくてはならなかったでしょう。心から結婚の喜び、子宝に恵まれる喜びを感じることはできなかったのかもしれません。ただ、サドカイの人々は、女性の結婚生活の中身より、復活があるならば、掟に従って、7人の夫を持った女性は、復活したら、どの男性と夫婦関係を結ぶのかということに関心を持っています。
 
 彼らの問いに対して、主イエスは、結婚関係はこの世限りであって、復活に与る次の世においては、そのような関係はもう生じないとはっきりと答えられました。それは、この世の習慣が次の世において、そのまま続くことではないということです。私たちの習慣や価値観の延長線上に復活の時がやってくるわけではないということです。
 
 私たちも復活について考えることがあります。復活というよりも、「死後の世界」についてと言った方が、現実味があるかもしれません。そう、私たちは死を迎えるということを知っているから、その後の状態について関心を持つのです。不安な思いから、そう訪ねたくなると言う思いもあるでしょう。しかし、復活について考える、関心を持つということは、いずれは死を迎えるという先の出来事に対することだけでしょうか。
 
 主イエスは結婚の制度を含め、復活の時には人間の価値観などは及ばないとだけ言っているわけではないのです。36節でこう言われます。「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」人は神によって生きるものであり、神との交わりの中で生かされる。天使に等しい者、神の子というのは、まず神様に属するものとしての命の生があると言えるでしょう。それはまた神様の愛の中で生かされているということです。
 
 この女性の結婚生活の中における彼女の心情はわかりませんが、ここには跡継ぎをもうける義務や、イスラエルの名を絶やさないための兄弟の義務といったものがこのレビラト婚という結婚制度の中に示されていますが、このレビラト婚に関連するお話が他にもあります。旧約聖書の創世記38章にユダとタマルのお話があります。ユダはアブラハムの孫のヤコブの息子で、イスラエルの12部族のひとつ、ユダ族の祖先にあたる人です。主イエスの時代のユダヤ人は、このユダ族の血筋を最も深く受け継いでいます。ユダと妻の間には3人の息子がいて、長男がタマルと結婚しますが、跡継ぎを残さずに長男は死んでしまいます。そして、彼女はユダの次男と結婚しますが、次男も彼女との間に跡継ぎを残さずして、死んでしまいます。相次ぐ二人の息子の死をユダは悲しみ、すぐに死んでしまう息子たちの死因はタマルにあるのではないかと疑い、ユダの三男であるシェラはまだ成人していないと説明してシェラとは結婚させず、彼女を実家に帰してしまいます。しかも、シェラが成人したあとも、ユダは嘘をつき、タマルと結婚させません。その結果、タマルはやもめとなり、厳しい生活を送っていくことになります。しかし、その後ユダの妻が亡くなり、喪の期間が明けた頃、タマルは遊女の姿となってユダを誘い、ユダの私物であるひもの付いた印章と杖を預かります。ユダはタマルだとは知らず、遊女の姿となったタマルと関係をもって、彼女との間に子供をふたり設けますが、もちろんユダはその事実を知りません。三か月ほどたって、タマルが姦淫の罪を犯し、身ごもったとの知らせがユダのもとに入ると、ユダは怒って、焼き殺してしまえと言いますが、タマルはユダの使いのものに、「わたしは、この品々の持ち主によって身ごもったのです。」と告発し、姦淫の相手がユダであることがわかってしまいます。ユダは自らの罪を告白し、タマルとの関係は持ちませんでした。タマルはふたりの息子を産んで、育てていきます。このユダとタマルの間にできた息子たちがユダ族の一族となり、やがてダビデ王が誕生し、イエスキリストがこのユダ族から誕生するのです。
 
 このドロドロとした物語において、ユダの罪やタマルの執念という姿が見れますが、誰が正しく、正しくかないかというより、掟にこだわり、嘘を隠し、それに振り回され続けた人間の苦しみと悲しみが描かれています。そのような罪の姿がそのままに描かれています。体裁を保つために生きているのか、ただ子供に恵まれれば良いのか。私たちもまた何をもってして生きているのかということを考えます。
 
 主イエスは「罪からの救い」をもたらすために、このユダ族の中から、一人の人として生まれ、罪の只中に神の子として、私たちの只中に来てくださいました。罪があるままに人を迎え、私たちと共におられ、私たちを愛し、共に生きて下さる方なのです。
 
 天使に等しい者、神の子とされるというのは、神様に属するものとされる、つまり罪が赦され、神様の愛の内に迎えられ、生きているものです。罪故に裁かれて、死んで終わりではないのです。私たちはこの世にあって、そここそ掟などの人間の習慣の中で生きています。喜びや楽しみだけでなく、悲しみや苦しみも背負って生きています。ユダやタマル、またサドカイ派の人や、7人の夫をもった女性と同じような体験をして生きています。罪を犯して、罪の上にたって自分の生を保っている姿もあるのかもしれません。それは自分が自分のために生きるからです。しかし、私たちが神によって生きるものとなるために、主イエスは十字架に死なれ、復活しました。私たちが罪赦されて、神の愛のうちに生きるためです。
 
 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」と主イエスは約束してくださいました。神に生きる、神に対して生きる、それは神様との関係において、交わりにおいて生きるということです。ただ神様から生かされているということではなく、神様が私たちに関わって下さる、愛してくださっている真実において、私たちが真に生かされているということを知るのです。
 
 パウロはコリントの信徒への手紙Ⅱでこう言います。「すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(5:15)死んで復活してくださった方のために生きる、それは復活の命をもたらすキリストの内に私たちが生きていくということです。神の子とされ、天使のような存在として神に従って生きていくということです。人の価値観を越えた神の赦しの愛に招かれて、神に対して、今与えられている自分の命を各々歩んでまいりたいと願います。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年11月10日 聖霊降臨後第22主日の説教 「恵みを分かち合うために」

「恵みを分かち合うために」 ルカによる福音書19章11~27節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 本日の福音である「ムナ」のたとえ話は、そのまま聞くと、なんとも後味の悪いお話という印象を持つかもしれません。王となった主人から預けられた1ムナを大切に保管して預かっていたのに、利益を上げて増やさなかったために、他の人に取り上げられ、さらに主人が王になることを望まなかった人々を打ち殺せと主人自らが命令して、この譬え話は終わります。王である主人の仕打ちに理不尽さと恐怖感を覚えるかもしれません。
 
 主イエスがこのたとえ話を話された理由は、最初の11節に「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。」とあります通り、神の国がすぐにでも現れるという人々の思いが根底にあったからです。今日の譬え話の直後に当たる19章28節からは主イエスが子ロバに乗ってエルサレムに入場され、ルカ福音書の物語では、弟子たちが声高らかに賛美している背景があります。メシア、救い主と人々から期待されていた主イエスがエルサレムに向けてもうすぐそこまで来ている。神の国が主イエスによってもたらされ、自分たちに神様の救いが与えられることを期待していた人々の姿と熱狂があったことでしょう。
 
 この人々の期待の只中で、すぐ前の箇所には、有名な徴税人ザアカイの物語があります。人々がこの物語を聞いている時に、今日のムナの話しを主イエスはされました。人々から罪人として嫌われていたザアカイが主イエスと出会い、主イエスがザアカイの家に泊まりたい、すなわちあなたの心の奥底に私は訪ね求めるという主イエスの言葉と思いを聞いて、ザアカイは喜び、今度は人々に施して生きていくという新しい人生を歩み始めたザアカイの物語。そして今日の物語に直前に当たる10節で「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」と主イエスは言われました。人の子は救い主、主イエス御自身です。ザアカイも「失われたもの」でした。ですから、この主イエスの救いの宣言が物語っていることは、彼が神の愛を体験し、自分と言う存在が受け入れられ、自らを必要としてくれたという思いに立つことができたことであると言えるでしょう。失われたものを彼は取り戻したのです。神の国は失われたものを捜して救うために来てくださった主イエスによってもたらされる神の愛なのです。
 
 この話に続いて、主イエスは今日のムナの譬え話をされました。ある立派な家柄の人、貴族とでも言いましょうか、彼は王様のくらいを受けるために、他国に旅立ちます。その時、10人の僕に留守を任せると同時に、10ムナというお金を彼らに託して、その利益、成果を期待しながら、旅立ちました。僕たちは10ムナを10人で、一人1ムナを預かります。しかし、この貴族は国民からひどく嫌われていました。彼が王様になることを拒んでいたというほどの拒絶感、嫌悪感を人々は抱いていたのです。わざわざその大きな国に遣いを出して、王位の称号を与えないでほしいと懇願するほどでありました。そして貴族が嫌われていたので、当然この10人の僕たちも嫌われていたでしょう。
 
 国民の期待とは裏腹に、王様の称号を与えられた貴族が帰ってきました。僕たちが早速報告します。1人目、2人目は利益を生み出したことを報告し、王様から良い僕として認められ、褒美が与えられますが、3人目は違いました。彼は与った1ムナを布に包んでしまっておいたというのです。その理由として、彼はこの王様を恐れていたからだと弁明するのですが、王様は逆に問い返します。「本当に恐れていたなら、何でそんなただの布きれに包んでいるだけなのだ、銀行に預ければ利子を得ることができたのに」と。そしてその僕の1ムナは、10ムナもうけた僕に行き渡ってしまいます。
 
 3人目の僕は預かったムナを無駄遣いしたわけでもなく、横領したわけでもないのです。ちゃんと大切に保管して、そのままの姿で王様に返しているのです。損して無くしたわけでもありませんでした。ただ、1人目と2人目との違いは、彼は何も動くことがなく、主人を恐れていました。1人目と2人目は自分たちも嫌われているであろう人々の只中に入っていき、ムナを使い、ムナを増やしました。ムナを預かって、この世の中でそれを用いていきました。それは、弟子たちがこの世に宣教に赴くかの如く、神様から与えられたムナをという賜物を用いて、神の国という神の愛に全ての人が招かれていることを伝えに出かけていきました。
 
 3人目の僕はそれをしなかったという批判的な見方をされてしまうかもしれません。しかし、この僕が主人を恐れたようのと同じように、人々の憎しみの目もこの僕は恐れていたでしょう。主人の思いよりも、恐ろしさから来る自分の弱さの前に、何もできずにいた姿がありました。
 
 そして、王様は最後に「ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。」と言います。王様を憎んでいた人たちに対する報いとして、国民を裁こうする姿があります。自分たちの王様になってほしくないという理由から、王様に対する憎しみや期待外れな姿に憤りを覚えていたかもしれません。
 
 この後に続くエルサレムの入場のお話で、王様としての主イエスの姿があります。人々から期待され、歓呼の声をもって迎えられますが、一週間後には、十字架につけろという人々の大合唱の中で、十字架につけられて殺されてしまいます。主イエスも人々から失望され、憎まれ、最後は人々ではなく、ご自身が打ち殺されてしまうのです。
 
 たとえ話に出てくる王様も国民から憎まれていました。27節の王様の言葉が人々に対する神様の裁きを現すならば、主イエスの十字架はその神様の裁きを、人々の代わりにご自身が受けられたということです。主イエスはこの裁きの言葉を語ると同時に、自ら身をさらけだして、十字架につかれるのです。この十字架を背景にして、たとえ話は描かれているのです。
 
 弟子たちは皆人々の目を恐れて、逃げてしまい、家に閉じこもってしまいます。主イエスに従い、人々のもとに行くことはできませんでした。3人目の僕の姿はこの弟子たちの姿でもあり、また弱さを持っている私たちの姿でもないでしょうか。
 
 王様は僕たちにムナという賜物を与えました。このムナは最初に言いましたが、もともとは10人の僕全員に、そのままに与えられたのです。1人1人というより、10人の群れに与えられたのです。僕たちはそれを分け与え、ある者は利益を生み出し、ある者はそれを損失したのではありませんが、無駄にしました。しかし、それが10人の群れに与えられた共通の「ムナ」という見方からすれば、このムナをどのように用いるかということは、1人目、2人目の僕と3人目の僕、どちらの姿の可能性にも見てとれることなのです。王様はこの群れ全体、一人一人を必要として、ムナという賜物、恵みを与えて、それを用いて分かち合い、生きていくことを呼びかけられているのです。主イエスが失われたものを捜し求めて救われる方であるように、弟子たち、教会はそのキリストを伝えていくものの群れです。神の愛を伝え、この世を愛し、この世に価値観に縛られている者と寄り添い、どんな境遇の中を歩んでいようとも、神様がありのままのあなたを受け止められる、あなたを必要とされる、その御心を伝えるために、教会というムナを神様が用いてくだることに信頼を委ねて、歩んでいくのです。
 
 神の愛は王である主イエスご自身が受けられた十字架と、その十字架を通して示された復活によって明らかとなりました。弱さと虚しさのままに終わったのではなく、復活を通して弟子たちを立ち上げ、教会が与えられました。教会というムナが与えられました。このムナという与えられた教会を布でくるんでしまうのではなく、布から出ていき、恵みを分かち合って、失われたものを捜し求めて救われる方と共に、その方によって生かされている喜びと希望をもって歩んでいくのが教会です。この真の王様である主イエスに喜びを抱き、信頼をもって、心を開いて迎え入れ、この世を歩んでいきたいと願います。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。