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2001年3月18日 四旬節第3主日 「神様は人間の目覚めるのを待っておられます」

第1日課   出エジプト記3:1-15

モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」 と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」 神は続けて言われた。 「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」 モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、私は降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ぺリジ人、ヒビ人、エブス人の住むところへ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたがエジプトから導き出しとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ。」 と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名、これこそ、世々にわたしの呼び名。」
第2日課   コリント人への第1の手紙10:1-13

兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼(バプテスマ)を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。彼らの中にある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った。」と書いてあります。彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたかたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道を備えていてくださいます。

福音書   ルカによる福音書13:1-9

ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたかたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたかたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

説教  「神様は人間の目覚めるのを待っておられます。」

ルカによる福音書十三章の一節から九節までのお言葉でございます。

今日の福音書の日課で、事件が起こったのです。エルサレムの神殿で、奉げ物をしようとしていたガリラヤの人たちが殺害されたのです。ピラトが軍を送り込んで彼らを殺したのです。それは、彼らがローマ帝国の支配に反対していたからです。人はそのような災害にあった人に対して、日本的に言えば罰が当たったと解釈をしていたようです。また、シロアムの塔が倒れて、十八人の人が下敷きになって死んだ事件が、その少し前にあったことも、彼らが悪い者であったから罰が当たったのでしょうと言っていました。

イエスさまはそうではないと言われて、次のたとえ話を仰ったのです。いちじくの木の畑に虫が来てもう三年も実がなるのを期待していたのですが、実がならないで楽しむことが出来なかったので、この木を処分しましょうと使っている人に言いました。その人はもう一年待ちましょう。私がもう少し上手に木の手入れをしますからと言ったのです。このたとえ話の意味は、神様はかなり忍耐強いお方です。三年ばかりではなく、あんまり役に立たない私たち人間を、神様の思われるほどの人間になっていないわたしたちを、神さまは忍耐強くもう少し、もう少し待とうと思ってくださるのです。これが今日のお話の大事なテーマでございます。

神様は相当忍耐強いお方です。 そこで旧約聖書に一つの例がございます。モーセという方を、イスラエル人のリーダーに神様が選びなさったのです。モーゼはどんな人でしょうか。イスラエル人でエジプトで生まれたのです。丁度、イスラエル人が迫害されていた頃です。男の子は生まれたら殺せと王様から言われて、大変な時でした。そこでモーセが生まれた時に親が川辺に隠したのです。そこへエジプトの王様の王女が来て、見つけてモーセを自分の子供としたのです。ですからモーセは最高の教育を受けていました。イスラエル人がいじめられて苦しめられているのを見かねて、ある時、そのエジプト人を殺してしまったので、モーセは国から逃げなければならなかったのです。察することは四十年くらいの間、エジプトの東にある余り地の肥えていない砂漠のようなところでしたが、家畜を飼っている人のところに縋ってモーセは暮らしていました。そこで、神様が彼を呼び出すのです。燃えているように見える柴が燃え尽きないでそのままでした。モーセは不思議に思って近くへ行って見ようとしたら、神さまが燃える柴の中から、モーセに話をされるのです。「エジプトへ戻って、イスラエル人をエジプトの奴隷生活から導き出すのだ」 と命令をなさるのです。勿論モーセは、口実を言いますが、神さまはそうするように言われるので、彼はエジプトへ行きます。聖書の中に出エジプトと言う一部がございます。それを読んで、私たちも如何に神さまが、モーセをリーダーとしてお救いなさって、守って、終には四十年後になりますが、約束の国へお連れなさった事がわかります。

その話をパウロがコリント人の手紙で聞かせています。コリントは随分商業の地として栄えて、立派な町でした。日本でしたら東京のようなところでした。政治はアテネでしたが、金儲け、その国の財産はみなコリントで作っていたのです。彼らはそれを自慢していたのです。どこにも負けないようなところと彼らはそれを誇っていました。その中にいるクリスチャンもその影響を受けていたでしょうと思えます。パウロがその世の中の人の真似をするなと、神様はちゃんと皆さんを心配しておられると言っております。そう言う世の中ですから、問題も起こり、ことに誘惑も多かったのです。彼らも同じように商売をして儲けたいのでしょう。楽な生活をすることを望んでいるのでしょう。でも、その誘惑に負けるなとパウロが言ったのです。そして、十章にある今日の聖句の終わりの言葉ですが、私たちはこれを良く覚えておきたいものです。「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れ道も備えてくださいます。」 と聞かせているのです。わたしたちもそのような事情や、試練に遭うこともあるでしょう。イエスさまの世の中でも事件が次々に起こって、彼らはちょっとこわくなっていたのでしょう。恐れ持っていたのです。そのためにこの世について行こうとも考えていたのでしょう。そこで、イエス様がいちじくのたとえを聞かせて、もう少し忍耐強く、これは神さまが忍耐をしてくださるのですが、その神さまのしてくださることを待ちましょうと、当時の人たちに聞かせておられます。

私たちも同じような事情にあることが時々あります。どうしょうか。困った。方法としてはちょっと不正なことですが不真面目なことですか、それをやったら助かると私たちは思いつくのですが、「その誘惑に私たちは決して負けてはいけません。」 とパウロは聞かせています。イエスさまのこのたとえも同じ意味です。神さまは忍耐強く私たちのことを思っておられます。本当を言えば、神さまは正しいお方ですから、悪いことは大嫌いです。そしてその大嫌いなことを私たちがやっていて神さまはどう思われるでしょうか。丁度、いちじくの木の持ち主のように、処分しましょうと思うのが普通でしょう。このたとえ話はわたしたちにとって大きな慰めとなります。神さまは忍耐強いのです。今すぐ処分するのではなく、しばらく待ってくださるのです。そして私たちをこの世の中からいずれは、お呼びなさるでしょう。その時まで私たちは耐えていましよう。

私たちは先日、会員の一人のお葬式に参加いたしました。その時聞かされたことは、神さまがわたしたちのために本当の将来を計画しておられて、その場所がよろしいだけではなく、そこに相応しいように私たちを変えて下さって、私たちは永遠に生きることを約束されております。それをわたしたちは信じておりましょう。それが私たちクリスチャンの信仰です。それを知らない人を私たちはかわいそうに思います。彼らにもぜひ知っていただきたい。神さまはそのような大きな愛を持っておられる方で、忍耐強いお方ですから、知らない方もそれを知って、信じていただきたい。 私たちが今生きていることは、その役割の一つがそこにはっきりと見えるのではないでしょうか。私たちのやるべきことは、大したことはできないですが、人に呼びかけてその人たちをある意味では導くことができるのです。それに応じない方もいるでしょうが、理屈ではそう考えられるのですが、神さまの力、神さまの愛、聖霊の仕事、お働きによってその人が導かれて私たちと同じような大きな将来の、永遠の希望を持つことが出来るでしょう。とにかく私たちがやらなければ何もない。今悪いから処分しょうということではなく、彼らはもう駄目だと言って何もしないことではなく、少しでも私たちに出来る僅かな事でも彼らのためにやってみましょう。

2001年3月4日 四旬節第1主日 「世の中の誘惑に出会うわたしたち」

第1日課   申命記26:5-11

あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。
「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。」
あなたはそれから、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前にひれ伏し、あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい。

第2日課   ローマ人への手紙10:8b-13

「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」
これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じるものは、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、ご自身を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

福音書   ルカによる福音書4:1-13

さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を、”霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。
「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」
イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

説教 「世の中の誘惑に出会うわたしたち」

ルカによる福音書4章1節より13節までのお言葉でございます。

わたしたちは伝統として、主イエスさまが悪魔に誘惑されたという聖句を受難節中に必ず聞くことになっております。これが今日の聖書の日課でございます。
誘惑とは、悪へ導こうとすることですね。イエス様が正しいお方で、神の御子であられたのですから一度も罪を犯したことはないのでした。悪魔はこの人を滅ぼそうとしたのです。一人を滅ぼすことだけではなく、その一人が神様の約束の救い主としていらした方ですから、この人を滅ぼしたら、躓かせたら、全部に勝つと悪魔は考えたのです。それで、人間の弱いところを悪魔は衝いたのです。
第一は、四十日間も空腹にしておられたイエスさまに、食べることの誘惑です。わたしたちにとって、人間として日々生きていくためには、必ず食べることが必要であって、食べていなかったらわたしたちは弱ってしまうのです。四十日間もイエス様は食べないで、空腹を感じておられたところ、石をパンに変えたらと、もちろん神の子としてイエス様にはその力があったのです。わたしたちは出来ないが、イエス様には出来ることであったのです。その誘惑に対して、イエス様がお答えになったことは「人はパンのみで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」これは申命記8章のお言葉でございます。(申命記8:3)
わたしたちがいつも聞いている神様のお言葉をイエス様はそれを引用なさったのです。
その次の誘惑は、どこか高いところへ行って、一瞬の内に世界のすべての国々を見せて、その国々の一切の権力と繁栄とを与えようという。それはわたしにまかされていて、すべてを与えることが出来るのだから、もしわたしを拝むのなら、みんなあなたのものになる、ということでした。これもわたしたちにとっての一つの大きな問題です。わたしたちも今いろいろ恵まれているのです。でも、全部は頂いてはいないのです。もっと欲しいものがあるのです。人間の欲というものはかなり深いもので、そして、きりがないのです。一つ一つ欲しいと思わされているところです。イエスさまもその誘惑を受けて、また、悪魔に対して、神様のお言葉を引用なさるのです。「あなたの神、主を畏れ、主にみに仕え、その御名によって誓いなさい。」これも申命記の6章のお言葉です。(申命記6:13)
もう一つ誘惑がございます。これは、わたしたちがいつ危機に、問題に出会うかと言うことは分かっておりません。それで、いつも心配しております。それを避けようとして、いろいろ工夫をしたり、時々わたしたちの力では及ばないような難しい問題が起こったり恐ろしい危険に会うこともございます。そこで、悪魔はイエス様を試して、あなたはこの神殿の屋根の上から飛び降りてみなさい。神様があなたにこのように約束をしていないでしょうか、「主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らは、あなたをその手に乗せて運び、足が石に当たらないように守る」と。これは詩編の91編のお言葉です。(詩編91:11-12)
このように悪魔も神さまのみ言葉を引用するのです。そしてわたしたちを混乱させます。どうしようか。やってみようかと。本当に神様はそうしてくださるでしょうか。試してみようかという誘惑がございます。それに対して、またイエスさまは、「あなたたちの神、主を試してはならない。」とこれもまた、申命記の6章の言葉です。(申命記6:16)
このようにイエス様は悪魔に対して神様のお言葉でお答えになりました。わたしたちもその例を手本として、困った時には、悪魔がわたしたちを悪に落とし入れようとするときには、わたしたちも出来れば神様のみ言葉を用いましょう。それに縋っておりましょう。
このようなことは、自分の一生を省みて判ることもあります。モーセもイスラエル人に対して薦めています。あなたたちは大変な難しいところにいたのです。わずかな一家族が百万の大家族となってエジプト人に苦しめられていたのです。それはしばらくの間であったでしょう。神様がそのイスラエル人をエジプトから導き出されたのです。モーセをリーダーとして指名をされてモーセを助けられました。そして、イスラエル人はエジプトから逃れることが出来たのです。逃れたところですぐに問題が起こりました。エジプトの軍が後をつけて迫ってきたのです。それも神様が工夫をして彼らがすぐイスラエル人を討たないようにいろいろなさって、例えば、火の幕のような、雲でしたか、それをイスラエル人が休憩をしているところの裏にそれを置いて、エジプトの軍がそこへ行けないようになさったり、海を通って行かなければならない時にはその紅海を開いて彼らを通してくださったことがあったと、モーセは話しております。申命記はモーセがお別れにあたってイスラエル人に聞かせたお話です。昔このようなことがあったでしょうと。そこで、モーセは必ず神様に感謝をすることを覚えていなさい。神様が助けてくださるでしょう。そして供え物をする時には喜んですることだと、しぶしぶやることではなく、喜んですることだと、モーセは今日の旧約聖書の日課で語っております。
なお、使徒書のローマ人のところでも「感謝すべき」と聞かせています。また、御言葉が近くにあるというようにわたしたちに聞かせなさるのです。近くにあるとはどういうことでしょうか。それを頼りにしていつも自分と一緒に、御言葉どおりに歩くことです。ことにわたしの口から出る言葉が、神様の言葉であるように。また、心の内にあるものが神様のお言葉であるようにと、そうパウロはわたしたちに聞かせておられるのです。聖書には素晴らしい言葉があるのです。その言葉はただ、あなたたち少数の人のためのものではない。ユダヤ人も異邦人も、異邦人は世界のほかの人々も含める言葉でございます。その素晴らしい言葉をわたしたちは聞いているので、ことに、わたしたちは異邦人の一部であるから、わたしたちもそれにかかわっていること、そして、パウロが言うのは、「失望しない。わたしたちが頼っていたら必ず神様が助けてくださるでしょう」と。他の聖書では失望しないと言う言葉の変わりに「困らない」と言う言葉を使っております。ある教派の方々、ペンテコステという熱心な人たちですが、彼らの教えでは、神様を信じることは、勿論わたしたちもイエス様を救い主と信じるのですが、でも、それを人に聞かせなければならない、聞かす力がなかったら本物ではないというように、かえってあなたが天国へ入ることの邪魔をするような教えとなってしまっています。せっかく美しい福音を律法的にして、『しなければならない』としているのです。モーセの言う通りに喜んで人に聞かせるのではないのです。やらなければならないという薦め方をしていると聞いております。勿論、人間は弱い者ですから、厳しく言われたら、却ってそれに一生懸命になります。若い時に流行した歌を思い出します。「叱られて」と言う歌があったのです。日本人は、叱られることが好きなようです。考えてみたら、それで本当の福音を知っていない人は、叱られて、叱る人が責任を持ってくれるということを頼りにしているのでないでしょうか。わたしたちも、時にはイエス様に叱られることもあります。でも、同時にイエス様がわたしたちを愛していてくださることがもっとわたしたちにとって大切なことでございませんでしょうか。
とにかくわたしたちは悪魔に誘惑されることがあるのです。六本木ルーテル教会もそういう問題に今出会っていると思います。わたしたちはこの後、総会の時にそれをどうしたら良いかを話し合いたいと思っております。わたしたちは、強いられて或いは、これは素晴らしいからと言う誘惑で、それをいただくことにするか、或いはしなければならないと、教会はそんな力がないから世の中の組織に頼るほかはないというように思うか、わたしたちはいろいろ考えなければなりませんが、とにかく、イエス様はサタンの誘惑に負けなかったのです。これがわたしたちにとって最も大切なことです。イエス様はそれを完全に守ってくださいました。イエス様は悪魔の恐ろしさ以上の方であって、彼のなさることは完全なことです。隙間もない。逆転もなく、ちゃんと力を持って悪魔をここで防がれたのです。立ち向かわれたのです。ですから、世の中のいろいろな問題はわたしたちにとっては、簡単なことではありません。こうしたら対抗できると考えられるような小さいことではありません。複雑なものです。わたしたちにそれに対抗する力はないということをわたしたちはよく分かってくるでしょう。第一には、それに負けなかったイエス様に頼ってイエス様はわたしたちを一人一人愛してくださるということを心にしっかり抱いて、この一時を過ごしてまいりましょう。

2001年2月25日 変容主日 「イエスさまがお姿を変えられたことの私たちにとっての意味は」

第1日課   申命記34:1-12

モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡されるようにされた。ギレアドからダンまで、ナフタリの全土、エフライムとマナセの領土、西の海に至るユダの全土、ネゲブおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツォアルまでである。主はモーセに言われた。 「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」 主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない。モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。イスラエルの人々はモアブの平野で三十日の間、モーセを悼んで泣き、モーセのために喪に服して、その期間は終わった。 ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満ちていた。モーセが彼の上に手を置いたからである。イスラエルの人々は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおり行った。 イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、彼をエジプトの国に遣わして、ファラオとそのすべての家臣および全土に対してあらゆるしるしと奇跡を行なわせるためであり、また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった。

第2日課   コリント人への第2の手紙4:1-6

こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

福音書   ルカによる福音書9:28-36

この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

説教 「イエスさまがお姿を変えられたことの私たちにとっての意味は。」

ルカによる福音書、9章28節から36節のお言葉でございます。

イエスさまがお姿を変えられたと言うこと、これは瞬間的なことだとわたくしは思っております。そこで、弟子たちはイエスさまの神の子として本当のお姿を見たと思います。これは、弟子たちにとってもまた、わたしたちにとっても大切なことでございます。
イエスさまと共にそこへ現れたのは、旧約時代の二人の人です。一人はエリヤ、もう一人はモーセでした。聖書をよく読んでみると、大きく神さまのご用を果たした二人です。そして、リーダー格の人たちです。なお、エリヤは神様が直接天国へお連れになったのです。そしてモーセの場合は、聖書では死んだと書いてあり、神さまが葬られたのですが、どこに葬られているかは今もって分かっておりません。ちゃんと場所も指摘されているのですが、それはわからないと言うことで、きっと神さまが天国へ彼もお連れになったと考えられます。とにかく、彼らもイエスさまと同じ状態で、弟子たちの前に現れたことは、わたしたちにとって、ちょっと先のこと、わたしたちが天国へ行くときはこのような状態でないでしょうか。イエスさまの顔も、姿も変わったのです。弟子たちはイエスさまを見てあんまり輝いていたので、それを良く見ることができませんでした。そこに弟子たちは三人いたのですが、その三人の話によりますと、「服が真っ白に輝やいて、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(マルコ9:3)と、これはマルコの福音書の言葉でございます。ペトロの弟子であるマルコがそう告げております。マタイも「服は光のように白くなった。」ルカは「服は真っ白に輝いた。」とあります。わたしたちもそこにいたら見ようとしても見ておられないほど輝いて美しかったでしょう。そこでわたしたちが考えさせられることは、イエス様の本当のお姿はどんなものでしょうかです。
弟子たちはその素晴らしい姿を見て、ペテロがすぐに思いついたことは、ここに祭るところを作ろうと考えていたと思います。そう考えているうちに、大きな雲が彼らを包んで、その雲の中から声が聞こえたのです。それは「これはわたしの子。選ばれた者、これに聞け。」でした。これと同じ言葉が聞こえた時がもう一回以前にありました。その時ペトロやヤコブはいたと思いますが、ヨハネはどこにいたかははっきりしていません。イエス様が洗礼をお受けになったときに、その同じ声が聞こえたのです。天の父なる神様の声です。「わたしの愛する子です」と仰っておられます。ペトロが勝手にここを大切な場所にしましょう。拝むようなところにしましょうと思っていると、神さまの「イエスさまに聞きなさい。彼に聞け」というお言葉でした。
ペトロは後になりますが、手紙を初代教会の方々のために二通も書き残しております。その第二の手紙の一章のところに彼はこう書いております。「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけでありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』と言うような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは聖なる山にいたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものになっています。夜が明け、明けの明星があなた方の心の中に昇るときまで、暗いところに輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。何よりもまず心得て欲しいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないと言うことです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく。人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」
それで、わたしたちもこの世の中にいる間、いろいろな体験をして、一つは、わたしたちの力で、神さま、イエスさまを信じることもできない者です。それは罪人としての状態を示しております。その罪の状態のわたしたちを救うためにイエスさまがこの世に来られたのです。わたしたちと同じような人間になってくださって、私たちの体験するいやなことも結構御覧なさって、最期には罪もないのに、死刑を受けて十字架に磔られたのです。
わたしたちはイエスさまの変わったお姿を見ていませんが、わたしたちはその場で見たと言う人のお言葉を信じるほかございませんが、イエスさまは甦られて、再び生きておられたことは、わたしたちに大きな希望を与えるものです。わたしたちも甦るでしょうと。
そして、弟子たちが見たイエスさまの本当のお姿が、目で見られないほど輝いて美しいかったので、勝手に記念するように、なにかを造ろうとしたほどでした。いずれはわたしたちもそのように変わるのです。イエス様がわたしたちの罪を贖ってくださって、それをお赦しになったということはこのようなことを意味するのです。わたしたち人間はすっかり変わってしまう。その時は勿論天国の門をくぐったときでございますが、今、わたしたちが想像もできないほどの素晴らしさです。本当のイエスさまのお姿と一緒になるという時が来るという約束がございます。そのように変わったら、イエスさまと最も親しく、一緒にいることができるのです。変貌というこの記事の大切な意味がここにございます。それはイエスさまが素晴らしいと言うことだけではなく、いずれわたしたちも同じような者になると約束されているのですから、イエスさまと共に永遠に良いところへ行って生きるのです。
ペトロも「丁度暗いところから光の輝きを見てびっくりしているところでしょう。あんまりにも明るくて、あんまりにも美しくて、わたしたちの目にはそれに耐えられないほどでないでしょうか」と言っております。
その美しさはわたしたち人間がつくったものではございません。かえってわたしたち人間はそれを描く言葉も足りないのです。そのように変わることをわたしたちの希望として、 後の楽しみとしておりましょう。わたしたちはこれを見たということ、聖書の記事の中で見るのですが、その言葉がわたしたちにとって、先のことを意味しているのです。今既に大きな喜びを与えてくださるものでございませんでしょうか。イエスさまがこの時、瞬間的ではございますが、何秒、何分間かはわかりませんが、ちょっとだけですが、大きな大きな希望をわたしたちに与えてくださっておられるのです。ことにわたしたちは理屈でははっきりと説明出来ないのですが、わたしたちの十字架上のイエスさまのお姿、その意味は何であるかと言うこと。イエスさまがそこまでわたしたちを愛して、自分を惜しまずに身代わりになってくださって、私たちの払うべきものを全部払ってくださって贖ってくださったことは聖書の教えです。それは、繰り返しわたしたちに聞かされているところです。わたしたちは喜んで、それを聞いて、今はこうですが、いずれはもっとわたしたちも素晴らしい者になるのです。自分の力ではなくそこまでわたしたちには力はないのです。だから、イエスさまに救われたとはっきり証拠するものでございませんでしょうか。かえってそれがわたしたちにとって大きな喜びです。自分では出来ないのですが、イエスさまがそれをしてくださったことでもっと確かなことです。
ちょびっとイエスさまの輝いた素晴らしいそのお姿を見せられて、先の時に私たちもそれに加わることを思えば、わたしたちはもっともっと大きな期待を持って、今の私たちは出来るだけ多くの人々にそれを伝えて、沢山の人に、出来れば全部の人間にこれを聞かせたいと思うほどでございませんでしょうか。そのために私たちはイエスさまについて学んでいます。毎週集まって祈りをしたり、聖書の言葉を聞いて、少しずつイエスさまに近寄ろうとしておりますが、勿論私たちの力ではなく神さまがそうしてくださらなければ私たちには到底出来ないことです。ただその大きな愛に包まれていることを人々へ伝えたいだけでございましょう。

2001年2月18日 顕現節第7主日 「全部のものがなくなったら、私たちはどうなるの」

第1日課   エレミヤ書7:1-7

主からエレミヤに臨んだ言葉。主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ。皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行ないを正せ。そうすれば。わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行ないを正し、お互いの内に正義を行ない、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。」

第2日課 コリント人への第1の手紙15:12-20

キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。

しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

福音書 ルカによる福音書6:37-49

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人と決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか、二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください。』と、どうして言えるのだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことが出来る。」

「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野バラからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

「わたしを『主よ、主よ』 と呼びながら、なぜわたしの言うことを行なわないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行なう人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

説教 「全部のものがなくなったら、私たちはどうなるの。」

ルカによる福音書の6章37節から49節のお言葉でございます。

今日の福音書の日課では、イエスさまがしっかりとした家を建てて、その土台が堅いものでしたら、たとえ洪水が起こってもその家は崩れないというお話でございます。

そこで、エルサレム近辺、パレスチナというところを考えてみますと、洪水が起きるところはどこかちょっと思いつきません。あるかもしれませんが、私の知識ではないのです。ヨルダン川は深いところを流れているので、あふれ出るようなところでございません。それでは、イスラエル人がイエス様のお言葉を聞いて、もしも洪水が起こったらあなたの家は大丈夫ですかという話はどういうことでしたでしょうか。彼らはきっともっと昔の話しを思い出したことでしょう。大洪水が起こった時、この地球全体に水があふれて、ほとんどの人がそれで亡くなったということを思い出したでしょう。ということは、この話しはただの水が出るということではなく、これは地獄の話ではないでしょうか。最後の審判にわたしたちはどうなっているでしょうかと考えさせるお言葉でないでしょうかと思っております。ノアの時代は世の中がとっても乱れていたのです。そして、神さまが人間を造ったことを後悔なさったのが見えます。そして、全部を無くそうと考えなさったのですが、でも一家族だけは、彼に忠実であったことで、その家族だけを、八人だけを、ノアとノアの妻と三人の息子とそのよめさんたち合計八人が残ったのです。日本の文字の中に、[船]という字がありますが、舟へんに八口と、八つの口を書くのです。大きな船、汽船などにその船の字を使うのです。やはり、神さまのお救いを記す言葉であるのです。そういうことをイエスさまがこの話しをなさった時、皆が思いついたことでないでしょうか。

わたしたちの世の中には人を批判することが結構あるのです。批判をしないという人は少ないでしょうね。「裁くな」あるいは「人を罪人だと決めること。定めること。」この罪人と決めることは法廷で使う言葉です。犯罪人と決めてしまうそれほどきつい言葉です。でも、新聞を見るとほとんど毎日、誰かが訴えられて、悪い者となっていることが目立ちます。そして、この世の中で本当によいこと、勿論批判している人は自分が正しいから、他の人を批判しているのです。そして、自分が悪かったら、人を批判できないのです。それで、そういう世の中ですから、実際にわたしたちが世の中を良く見ると人は皆罪人であることがよく分かります。それで家を建ててもきっと大洪水で流されてしまうでしょうと考えなければなりません。どうしたら良いでしょうか。何が、岩盤の固い基礎として、家を建てる所でありましょうか。良く探してみると、イエスさまが教えておられるのです。彼自身が模範となって私たちを愛してくださった。その愛そのものがその基礎でないでしょうか。それで、わたしたちはそこからまず考えなければなりません。いろいろ世の中を見るほど、よくないことや、わたしたちの考えが間違っていることが結構あるのです。人間は人の批判をしながら自分がそんなに良くなくてもそれを隠して、他の人間を悪く言ったりするのが癖のようになっているようです。それと同時にとんでもない夢を持っています。ここに素晴らしい木があって、そこにおいしい甘い果物が実るものだと思い込むということがありますが、イエスさまのおっしゃることは根本的に良い木であったら、良い実を結ぶでしょう。しかし、悪い木でしたら、その類の実を結ぶということです。根本ということをわたしたちは考えさせられます。

神さまが人間を造られたときは良い者でした。そして、一人の人間が罪を犯したから、全部がその結果を負わなければならないのです。これはアダムとエバの話になりますが、そこで、わたしたちの本当の考え方をどう変えられるのでしょうか。これも神さまがご心配なさって、御独り子をこの世にお送りなさったのです。主はわたしたちと同じような世の中にしばらくいらして、いろいろなことを見て、ただし彼は罪を犯さなかったのです。罪を犯していないのに裁かれて十字架につけられたのです。それによって、主イエスさまがわたしたちの身代わりをしてくださったのです。それを、わたしたちは繰り返し繰り返し聞かされているのです。そればかりではなくイエスさまは甦りなさった。復活なさったのです。元のものと違うものになられた。その意味をわたしたちは良く考えなければなりません。この世の多くの人たちは復活ということを考えていないでしょう。勿論、ある宗教では、よみがえりとは言わないが生まれ変わると言っています。その生まれ変りはこの世の中へまた生まれてくることで、形は少し違っているが、それが良いか悪いかはわたしたちは判断できませんが、でも、面白いことには、あんまり良い生活をしていなかったら、次の時には動物や犬に生まれ変ってくると、最悪の場合は女に生まれ変わるという宗教もあるのです。ですからある人は生まれ変る復活は考えたくなくて、それは嘘でしょうと言い、またそれはどうやってそう完全に変わることが出来るのでしょうかと、理屈をもって考えているのです。そしてそれを否定しています。

でも、パウロが今日わたしたちに聞かせてくださっているのは、「復活がなかったら、主イエスも復活しない。また、わたしたちも復活をしません。その復活無しでしたら、わたしたちの信仰もむなしいものだ。」と言っております。いくら良いことを一生懸命にやろうとして、自分を改善して良い習慣を身につけようとしても、勿論それは足りないことです。完全まではいかないと結論が分かりながら望んでいるのです。自分の力で自分を救うというのが大体の人間の考え方です。わたしたちも本当に復活はあるのでしょうか。ちょっと夢ではないでしょうか。神さまは本当ですと言われます。そのために、主イエスさまをこの世に送られて、十字架に磔けられたイエスさまが、またその後復活されて皆の前に現れなさって、生きたお姿をお見せになったのです。そのイエスさまが昇天なさるのを目の前で、人の目の前で神さまがお見せになったこと。だからわたしたちは復活が可能だと、神さまがなさるのなら可能だと、わたしたちの力では出来ないのです。だから、わたしたちはイエスさまにすがりついて、イエスさまの救いを心に留めてそれを信じようといたしております。

これは、使徒言行録二章のイエスさまが復活なさって、昇天なさるところの記事ですが、「わたしはいつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。」とあります。今日の交読文の詩編にも同じような言葉があります。[動揺しない。しっかりとしている。基礎が確かだ。]と。わたしたちがそう思い込んでいるから確かだと言うのではなく神さまがわたしたちにそれを教えてくださっておられるから確かであると言えるのです。これを今日、わたしたちは考えたいことです。

エレミヤのときも大変な時でした。ユダヤの国が、以前はイスラエルと言って、半分以上はバビロニヤへ捕虜としてすでに連れて行かれ、次にエルサレムを中心とした残りの者も攻められていて、同じようにバビロニヤへ連れて行かれるでしょうということが目の前にあったのです。それをエルサレムの人たちは、大丈夫だと、エルサレムにこの神殿がある限りきっと神さまがそれを守ってくださると言う迷信を信じていたのです。エレミヤは、まずわたしたちはもっと真面目な生き方をしていなければならない。できるだけ正しいことをやろうとしていなければならない。勿論完全な者ではないから、完全には出来ないが、第一には神様を信じることで、建物ではなく組織でもなく、彼らユダや人は選民だと言って神さまが選ばれた輩であることを誇りにして、一つの迷信にしていたのです。エレミヤはそれに対して、とんでもないことだと言っています。エレミヤは長生きをした人です。バビロニヤが攻めてきて、全部征服をすると預言していたので、バビロニヤの人たちもそれを知っていたのでエレミヤを捕虜にはしなかったのですが、だいぶ歳になってよぼよぼしていたのでしょう。彼を心配する人たちによって、無理やりに彼を連れてエジプトへ逃げてしまったのです。だから、エルサレムの災害を彼は実際には見なかったのでしょう。当時の人たちは随分苦しいことを経験しました。エレミヤの言葉の通りに、と言っても神さまが言わせた言葉です。エレミヤはそんなに厳しい話をする人ではなかったのです。ちょっと体も弱い人でしたから、あんまり大きな声も出さなかった人ですが、神さまに選ばれて、預言をしたのです。また、その国の人に一番声が届くように神殿の入り口で預言者として「神さまの言葉を聞こう。神さまのおっしゃることを受け入れて、ただ、一部だけを頂いてそれにすがりつくことではなく、神さまのおっしゃることは全部正しいと受け入れること」と話したのです。その中には救いの言葉もあったのです。神さまが約束の救い主をこの世に送ってくださるということ。その約束の救い主は、わたしたちはもう知っております。主イエスさまです。だから一番しっかりとした堅い地盤はそこにあるのです。主イエスさまを信じていたら、わたしたちの家は崩れないと。この世の中がなくなってしまっても、地球、宇宙が変わってしまって、無くなってもわたしたちは生きて、生きるところがちゃんとあるということをわたしたちは信じられるのです。これが今日の聖書の日課でないでしょうか。

わたしたちが今与えられている住み家は神様から頂いたもので、その地盤は神さまのお言葉、神さまの約束のお言葉でございます。わたしたちはどんなことがあっても、イエスさまを救い主と信じておりましょう。