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2019年7月14日 聖霊降臨後第5主日の説教「惜しみなく注がれる神の愛」

「惜しみなく注がれる神の愛」ルカによる福音書9章51~62節 藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日の福音書の冒頭に『イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。』(51節)とあります。天に上げられる時期というのは、主イエスが昇天される出来事だけを指しているのではなく、それは以前、弟子たちに証ししたように、ご自身の死と復活を予告し(ルカ9:21~27)、エルサレムで遂げようとしておられる最期について(9:31)証ししている出来事を指します。エルサレムで遂げようとしておられる最期、それは十字架の死を指しますが、その死を受けるために決意したのがエルサレムへの旅路であり、十字架への道なのです。

その主イエスの決意を阻むかのように、道中、準備と休息を取るために立ち寄ったサマリア人の村で、サマリア人たちから拒絶されました。そこには数百年に及ぶ民族同士の深い対立が背景にあります。お互いに交流はなく、嫌な印象をお互いに抱いていました。だから、ユダヤ人である主イエスを歓迎する気など毛頭ないのです。その憎しみに拍車をかけるように、弟子のヤコブとヨハネは「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(54節)と主イエスに言います。自分たちにとっての敵である、主イエスの旅路を阻むこの者たちを、神様の裁きで排除してしまえばよいではないかと考えたわけです。

このヤコブとヨハネの声は、現代版のヘイトスピーチであると言えるのではないでしょうか。「彼らを焼き滅ぼしましょうか」、それは憎悪をむき出しにし、自分の正しさに立つ発言です。この時代であればサマリア人がその対象なのです。しかし、主イエスは彼らを戒められました。それには及ばないということではなく、彼らを叱って、それは違うとはっきりと言いました。それは、彼らの思いから来る発言がエルサレムに向かう主イエスの決意ではなかったからです。主イエスの決意から外れていたのです。ユダヤ人であるこの弟子たちから見て、サマリア人は神様からの救いの対象から離れていたという印象がありました。彼らを罪人と見なし、裁きの対象に見ていたという思いがここで顕になったのです。主イエスの戒めは、ご自分の決意から遠ざかっているのはむしろこの弟子たちであり、サマリア人への憐れみを持てない彼らの思いというより、自分たちはサマリア人よりも神様の救いに近く、正しいものであるという彼らの思いに向けた戒めであったと言えるしょう。私たちも自分の価値観に基づいた正義を振りかざし、他者の救いのためではなく、裁いてしまうということがないとは言い切れません。そして、本当の意味で救いから遠ざかっているのは、そのような価値観に縛られている不自由さからくるものではないでしょうか。主イエスの戒めはそのことに向けられ、主イエスの決意からは遠ざかっているのです。

この後、3人の弟子志願者が登場します。一人目は「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」(57節)と言う人でした。対して主イエスの答えは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(58節)と言われます。狐にとっての穴、空の鳥にとっての巣、それらは命を、存在を、生活を守るものです。ところが人の子である主イエスにはそれがないと言います。それは、主イエスが人々によって片隅に負われ、枕するところを奪われる救い主だからです。枕するところを自分のためにではなく、人々のために、人々に与えるということなのです。どこへでも従って参りますという主イエスに続く道は、主イエスご自身がそのように辿る道であり、その決意に従っていくことなのです。

主イエスは二人目の人には従いなさいと言われます。すると、その人は「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」(59節)と言います。父親が亡くなられたばかりだったのでしょうか、今は葬儀をまずしなくてはいけないという彼の心境は最もなことだと思います。しかし、主イエスは言います。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」(60節)死の世界に行ったものをこの世に生きるものではどうにもならない、死んでいるものたちにまかせるしかないと。けれど、主イエスはここで葬儀に出るな、葬儀などする必要はないと言っているわけではありません。「あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」神の国を言い広める、他の訳では明確に「神の国を宣べ伝えよ」となっています。この神の国、神のご支配する領域の中に死者も含まれているのです。この神の国という言葉は神様のご支配する領域という意味において、神の愛とも言える言葉です。神の愛がそこにある、神の愛によって、亡くなられた者は神と繋がっている。それは死から復活する主イエスにおいて明らかになることで、この復活の主イエスに繋がることにおいて、先に亡くなられた愛する者たちとも繋がっているという慰めを与える。それが主イエスに従い、神の国を言い広めて、神の愛を明らかに告げることです。

パウロはローマの信徒への手紙でこう言います。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。(83539)神の国を言い広める、それは神の愛が及ばないところはないということ、この愛によって私たちは生きている、死の力も、この愛の前には無力であるということです。命の望みはつきることがないのです。

  さて、最後の三人目はこう言います。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」(61節)ようするに、家族に別れの挨拶をさせてくださいと言います。しかし、主イエスは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(62節)と厳しいことを言われます。鋤は土を掘り起こす道具ですが、その仕事は主イエスと出会ったときから与えられているので、もはや後ろを振り向いている時などないと言われるのです。家族のことを心配するのは誰もがそうです。主イエスに従っていくと、もう会えないかもしれない、だから正式にお別れをさせてほしいと頼むのはよくわかります。しかし、主イエスはそれは神の国にふさわしくないと言われます。ただしてはならないと言っているわけではありません。神の国にふさわしくない、ようするに、あなたとあなたの家族は神の国に生きているのであるから、神の国、すなわち神の愛におけるあなたがたの交わりが、交流がある。神の愛を抜きにして、あなたがたの関わりはないのだと言っているのだと思います。だから、神の国にふさわしくないと主は言われるのです。家族との関わりを二度ともつなとか、絶縁しろと言っているわけではないのです。そして、主イエスに従うことが、神の国に生きるということであれば、家族のこともそれは、この私以上に主イエスが気にかけ、心を砕いてくださっているということではないでしょうか。もちろん家族の心配は誰だってします。しかし、心配や不安から神の国が揺らぐことはないのです。私が気にかける以上に、主イエスが気にかけてくださっている、主がその愛の御手で包んでくださっている。大切な私たちの家族を、神の国は生かされるのです。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(ペトロⅠ57家族との関わりも、この神の国において、結ばれている。だから、神の国をもたらす主イエスの後についていくのです。

この3人の志願者が弟子になったかどうかはわかりませんが、ヤコブとヨハネを含めて、主イエスの決意から離れていた姿がありました。主イエスの言葉は確かに厳しいものでありますが、この厳しさの中に主の決意があります。それはエルサレムで、十字架を通して成し遂げる神の愛の実現であり、赦しと愛に基づく主イエスの決意です。この決意は、さきほどパウロの言葉から言いましたが、絶対に私たちを引き離さない神の愛です。だから、神の愛に示される神の国とはどこか遠い理想郷ではなく、理想郷とは言えないような弟子たち、また私たちの小ささ、弱さ、惨めさの中に、起こしてくださるのです。

主イエスは同じルカによる福音書でこう言われます。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(172021実にあなたがたの間にあるのだと。そう、今を生きている私たちの只中に。それこそ厳しいこの現実世界、ヘイトスピーチなどが飛び交うこの世に、主イエスは神の国をもたらされるのです。主イエスの決意に私たちも従い、私たちの都合や不安、悩みと共に歩んで下る主イエスに信頼して、この神の国を、神の愛を広めていきたいと願います。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年7月21日(日)講壇奉仕の講演会

当教会は21(日)にルーテル学院大学・日本ルーテル神学校の講壇奉仕の日を迎えます。今回はルーテル学院大学人間福祉心理学科長の金子和夫先生にお越しいただき、「少子・高齢化と社会保障制度」と題して講演をしていただきます。講演は午後1時30分から午後3時まで礼拝堂で行われます。入場無料です。どうぞお越し下さい。

2019年7月21日(日)講壇奉仕 チラシ

2019年7月7日 聖霊降臨後第4主日の説教 「救いの道」

「救いの道」 ルカによる福音書9章18~26節 藤木智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

以前「キリスト新聞」に日本基督教団前総幹事の内藤留幸先生という方が、キリスト教の『救い』についてこういう記事を書かれていました。

「・・・・その(この世の)救いの内容は簡潔に言えば、『この世で生きている間は幸福でありたい』ということであり、また『できれば社会的差別・経済的不公平・政治的抑圧などから解放されて、皆が健康で安定した生活をしたい』ということであろう。そこで求められている『救い』は極めて人間主義的傾向が強い。それはキリスト教会が長い歴史を貫いて語り伝えてきた『真の救い』すなわち『永遠の救い』とは異なっている。・・・・『真の救い』とは実に永遠の命を与えられることによって完結・成就する『救い』である。・・・・永遠の命を与えられた者(信仰者)たちは、そのことをどのように自覚し、どのように世にあって生きるのだろうか。端的に言えば『信仰と希望と愛』に生きるのである。そのことはわたしたちが救い主キリストの復活を記念して守る主日礼拝で語られる神の言葉を聴き、主キリストとつながる喜びに満たされ、永遠のみ国への希望と救いの確信が新たにされるとき実現するのである」と、このように語っておられます。

今日の福音はまさに、この「真の救い」について、主イエスが私たちに語っておられることなのです。内藤先生は、信仰、希望、愛に生きること、キリストにつながることだと言われました。それは具体的にどういうことかと言いますと、「自分の十字架を背負う」ということに他なりません。自分の十字架を背負う、その響きからして、重く受け止めてしまう私たちの姿があります。自分の十字架を背負うことがなぜ「真の救い」なのか。主イエスの厳しい言葉です。しかし、「十字架を背負う」ということは、何か悪いことをした罰として与えられるということではありません。「わたしに従いなさい」と言われる主イエスの招きの言葉であります。十字架を背負って、主イエスに従う歩みの中にこそ、「真の救い」が示されているからです。

本日はペトロが信仰を告白する場面から、福音のストーリーは始まります。主イエスが祈っておられたところに、弟子たちも共にいました。彼らは常に群衆たちに取り囲まれる日々を送っていたでしょう。今は祈りを通して、父なる神様と交わりを共にし、あたりにしずけさだけが漂っている雰囲気を彼らの姿から感じ取ることができます。そして、主イエスが弟子たちに尋ねました。「群衆はわたしのことを何者だと言っているか。」主イエスの噂は、もうこの時には、ユダヤ全土に知れ渡っていたことでしょう。数々の奇跡や癒しを垣間見てきた群衆は、主イエスに力ある預言者としての期待を抱いていました。洗礼者ヨハネやエリヤ、その他の預言者が生き返り、再び自分たちのところに来てくださり、自分たちを救ってくれるという期待です。世間一般では、今最も注目の的であるお方であったということでしょう。そして、主イエスは弟子たちにも聞きました。即座に答えたのがペトロでした。「神からのメシアです」そう答えたのでした。

「メシア」、これはそのまま「救い主」と訳せますが、元々の意味はヘブル語で「油注がれし者」と言います。サウルやダビデなど、イスラエルの王様となる人物が授かっていた称号でした。ギリシア語では「キリスト」という意味です。

「あなたこそが私たちの救い主です」。ペトロはそう答えたようなものです。しかし、主イエスはペトロたちを戒めました。メシアということを人々に知れ渡らないようにするためだったからです。それはなぜか、人々が願う「この救い」を与えるために、主イエスは来られたということではなかったからです。ペトロたちもそうでした。この「メシア」がどういう救いをもたらすのか、分かってはいなかったのです。そして、主イエスは言います。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」このことを聞いて、弟子たちは大いに落胆したかと思います。同じお話のマタイ福音書16章22節では、十字架の死に向かう主イエスを、ペトロはいさめ、留まらせようとします。主イエスはその時ペトロに言いました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」激しい言葉です。ペトロの行為は人間の行為、神に反する行為だと言われる。神の真の救いを妨害する人間の救いの行為なのです。十字架という苦難から逃れようとするこの世の救いです。しかし、主イエスはその救いをもたらすためではなく、父なる神の御意思、つまりこの世、全被造物への滾ることのない愛、真の救いをもたらすために、サタンを振り切り、この世の救いという誘惑を振り切り、十字架への道を歩まれていくのです。

この主イエスの後に従う道について、主イエスは言われます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」なぜそのような道を私たちに示されるのか、主は私たち人間を愛され、私たちに平安な道を示して下さる方ではないのかと思うかもしれません。今ある苦しみから全て開放してくださる方ではないのかと。弟子たちや人々が抱くメシア像は現代の私たちと何ら変わりないのです。ここで主イエスは自分の十字架と言います。主イエスが担う十字架というより、私たちひとりひとりの十字架です。これを重荷と捉えるなら、敢えて自分の十字架とは何かと問うことはありません。生きている限り、自分の十字架を背負って、誰しも歩んでいるからです。主はこの重荷を取り除くとは言われません。それを背負って行けと言います。しかし、その歩みは私に従うということ、キリストと共に歩んでいくということです。

そして命ということを言われます。自分の命を救うとはどう言うことでしょうか。その言葉の反対がキリストのために命を失うことですから、命を救うとは、命を失わないように、命を安全な場所にしまいこんでおくようなものです。安全な場所とは、自分が意のままにできる場所です。自分の価値観で、自分に有利と思えるものを受け入れ、不利益なもの、忌み嫌うものは受けいれないことです。ですから、苦難や困難なんてものは尚更受け入れたくないでしょう。自分の十字架を背負っていきたくはないのです。そういう苦難と困難な状況の中において、命は蝕まれ、失われてしまうと考えるのが私たちの価値観です。しかし、主は、それらを避ける道こそが命を失うものであると言われるのです。命の輝きを封じ込めてしまう、命の可能性を狭めてしまうのです。逆に、主イエスのために命を失うものは、それを救うのです。それは命の可能性を広げることです。苦難や困難の中で大いに力を発揮する命、とうていそこでは命が育まれないという絶望の中にあっても、輝く命なのです。その命とは、単にその苦難や困難を味わいなさい、そこに命を救う源があるということではありません。単純に苦難や困難の中にあれば、命の危険性はますだけであって、苦しみは苦しみのままなのです。そこには何の希望もありません。主イエスが言われる命を救うとはそういうことではなくて、わたしのために失う命、ようするにキリストのために命を失う者が、それを救うということなのです。キリストのためにというのは、キリストに生きる命です。だから自分自身の中では命を失うのです。心地よいところ、安全な場所における限られた命は限られた命なのです。そうではなくて、キリストに生きる命とは、自分の十字架を背負い、苦難や困難の中にあってこそ、命の可能性が広がるということです。

ここで主イエスが私たちの救い主となるために歩む道は、ただ死に向かって歩む道ではないということを今日の御言葉から聞いていきたいと思います。わたしのために命を失う者は、それを救うという根拠は、この主イエスキリストこそが命の救い主であり、私たちに命を与えてくださる方だからです。主イエスの予告の言葉をよく聞いていただきたい。殺された後、三日目に復活することになっているとあります。この復活の命こそ、キリストに生きる命なのです。それは決して死なない命ではありません。死ぬのです。苦難の後に殺されてしまうのです。しかし、その死に勝利されることをすでにここで予告されているのです。それは、主イエスがこれから歩む道のゴールが死の先にある命だからです。命の道なのです。

わたしに従いなさい。しかしそれは、自分の命を捨てて、それで終わりというわけではなく、それを救うと言います。私たちの人生の嵐は激しく、常に揺れ動き、不安、悩みは絶えず、苦難が待ち受けているかもしれません。しかし、その苦難を通して、私たちはキリスト、永遠の命をもたらすキリストという土台の上で、生きながらえるのです。どんなに揺れ動かされても、私たちの中にあるキリストの土台が支えてくれるから。神の愛ががっしりと私たちを掴んでいてくださるのです。だから、私たちの土台となってくれるキリストが共にいてくださる。いつ崩れるかわからない自分自身という土台を払って、このキリストの土台を受け入れること。それこそが、自分の命を失い、キリストが与えてくださる命に生きることなのです。

今日の第2日課でありますガラテヤの信徒への手紙で、パウロはこう言っています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(32628

神の子として、キリストを着ている。パウロはこう表現しました。そう、キリストに覆われているのです。この覆いが私たちを支えてくれる。さらに、この覆いに入っているのは、あなた一人ではないということ。キリストによって、ひとつされている私たち相互間の歩み、愛し合う友がいつもいてくれるということであります。男も女も、人種という壁を突き破って、キリストに連なる私たちの姿があります。ここに真の命があり、その喜びを分かち合いましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。