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主の変容日

 「イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(マルコ9:2~3)弟子たちはこのような不思議な体験をしました。このイエスの変容の出来事を記念するのが主の変容日です。

 主の変容日は顕現の季節(顕現節)の最終日に当たります。イエスキリストとは誰か、どのような形、姿で私たち人間に出会ってくださるのかということを覚えるのが顕現節の意味することです。この顕現の最終日、イエスは弟子たち人間の理解を遥かに超えた姿で、彼らの前に顕れたのです。

 この出来事の後、山を降りた弟子たちは、イエスからこのように言われました。「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」(マルコ9:10)。「人の子」とはイエスのことで、彼らが見たイエスの姿は、死者の中から復活した救い主の姿でした。この世のものとは思えない真っ白さは、神の栄光を表しています。

 神の栄光は死者の中から復活した救い主イエスの姿において表されているのです。つまり、主の変容が意味する神の栄光とは、イエスの十字架と復活を指し示しているのです。

 変容の出来事の後、イエスの歩みは受難と十字架への道に向けられていきます。栄光とは真逆な苦難の道を歩み、そして十字架の死を遂げるのです。十字架こそが人の罪を贖う救いの御業となったのですが、弟子を含め、誰ひとりとしてこの十字架に従うことはできませんでした。しかし、神は三日後にこのイエスを復活させ、弟子たちの前に現れ、彼らはこの時に、イエスが救い主であると受け止めることができたのでした。

 イエスの復活の出来事をあらかじめ弟子たちに知らせたのが、この主の変容だと言われています。変容において示されたイエスの復活の栄光は、イエスの受難と十字架なくしては、意味の成さないものであるということを表しているのです。

顕現日

 顕現とは、隠されていたものが公に顕わにされるという意味で、公現とも言われています。ギリシア語で「テオファネイア(神の顕現)」と言い、ラテン語で「エピファニー」と言います。神の御子イエスキリストが、肉体をとって人となられた神秘を主の顕現として、祝日が守られています。

 主の顕現を祝う日は1月6日と定められています。日付の由来は他の異邦宗教の祝祭日から来ているそうですが、ルーテル教会を含む西方教会では12月25日がクリスマス(降誕日)と定められているので、12月25日から1月6日までの12日間が主の降誕節として呼ばれています。当初は主の降誕日と顕現日は平行してお祝いされてきましたが、次第に主の降誕と顕現は、区別して扱われるようになっていきました。

 顕現日はまた異邦人(神の民に属さない人々)のクリスマスとも言われています。聖書には異邦の国である東方から占星術の学者たちが黄金、乳香、没薬を携えて、ベツレヘムに導かれ、そこで彼ら異邦人に初めて救い主が示され、彼らが幼子イエスを礼拝したと伝えられているからです(マタイによる福音書2章1~12節)。日本では平日に教会に集まる習慣がないため、1月6日に近い主日が顕現主日として守られ、礼拝の中ではこの聖書箇所が必ず読まれます。

 御子が肉体をとって人となり、人間と同じ立場に立ったことは、罪の宿る肉体を、この御子もとられたことを意味します。自らも人間と同じように弱さや躓きを受け入れて、人間(罪人)と共に生きる神(インマヌエル)となられたのです。また、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じようになられました。」(フィリピの信徒への手紙2章6~7節)と使徒パウロが証言するように、私たちに顕わされた神の御子は、私たち人間以上に無力な姿となって、私たちの間に宿られた方なのです。