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2004年8月29日 「主よ、それでも、あなたは」

詩篇第3篇

 
説教  「主よ、それでも、あなたは」  大和 淳 師
1賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子アブサロムを逃れたとき。
2主よ、わたしを苦しめる者はどこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい
3多くの者がわたしに言います、「彼に神の救などあるものか」と。
4主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。
5主に向かって声をあげれば、聖なる山から答えてくださいます。
6身を横たえて眠り、わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。
7いかに多くの民に包囲されても、決して恐れません。
8主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください。すべての敵の顎を打ち、神に逆らう者の歯を砕いてください。
9救いは主のもとにあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。

 今朝は詩篇第3篇からみ言葉を聴きます。それで、1節はこの詩編の表題ですが、「ダビデの詩。ダビデがその子アブサロムを逃れたとき」とあります。ダビデは、聖書の中でしばしば出てくるモーセやエリヤと並んで最も重要な人物、イスラエルの王ですが、もともとダビデは王でありながら、竪琴の名手、また優れた詩人であったと伝えられています。それでこの標題はその「ダビデが作った」歌、という意味なのか、それとも、更にこの標題は「ダビデがその子アブサロムを逃れたとき」と説明書きがありますので、その「ダビデのための」歌、あるいはその「ダビデに寄せての」歌なのだ、そのように解釈が分かれています。いずれにせよ、「ダビデがその子アブサロムを逃れたとき」というのは、どういうことかを知ることが ― ですから、詩編の本文とは離れたところから見ていくことになりますが ― わたしたちがこの詩編を理解する道でしょう。

  それで「ダビデがその子アブサロムを逃れた」、その物語はサムエル記下15章以下(旧約聖書582頁)に書かれていますが、そのサムエル記下15章の少し前に記されていることから触れますと、サムエル記下13章(旧約499頁)ですが、ダビデの息子の一人であったこのアブサロムは、妹タマルを辱めた異母兄弟、もともとダビデの長男、王位筆頭継承者であったアムノンを、そのタマルの復讐のため殺害してしまうのです。そして、サムエル記下13章38節以下によれば、「アブサロムはゲシュルに逃げ、三年間そこにいた。アムノンの死をあきらめた王の心は、アブサロムを求めていた」、そう記されています。つまり、ダビデは、殺されたアムノンを愛していたのですが、またこのアブサロムも愛していた。それ故アムノンを失った悲しみの中でも、ダビデは、アムノンを殺してしまったそのアブサロムの罪をゆるすのです。つまり、そうしてアブサロムがこのとき事実上の王位継承者となったのです。実際には、この反乱によってアブサロムは死に、結局末っ子のソロモンが後継者となるのですが。
  ところが、アブサロムは王位継承まで待てず、その父ダビデに対して謀反を起こしたのです。既にダビデは老いていました。やがて遠からず、黙っていても彼は王になることが約束され、何よりダビデもそれを望んでいた、それなのになぜ、その父ダビデに謀反を起こすようになったのか。一体アブサロムはなぜ待てなかったのか。
  その次第がサムエル記下15章に語られています。それで、その15章2節に、「アブサロムは朝早く起き、城門への道の傍らに立った。争いがあり、王に裁定を求めに来る者をだれかれなく呼び止めて、その出身地を尋ね、『僕はイスラエル諸部族の一つに属しています』と答えると、アブサロムはその人に向かってこう言うことにしていた。『いいか。お前の訴えは正しいし、弁護できる。だがあの王の下では聞いてくれる者はいない。』」、そう記されています。城門への道の傍らとは、人びと、民衆が問題を訴え、調停を求める、いわば裁判所でした。
アブサロムはそもそも初めから王になる野心に動かされて、そういうことをしていた、そのように理解することもできるかも知れません。しかし、(左近 淑先生が全く違ったすぐれた読みをなされており、わたしは深く教えられ、以下はそれに従いながら読んでいくことになるのですが)アブサロムは妹タマルが辱められたのを知り、激情に駆られてアムノンに復讐したように、このアブサロムはまことに気性の激しい人であったのでしょう。しかし、それは逆に言えば、このアブサロムは極めて情が深く、また正義漢の強い人であったことを物語っています。そんなアブサロムですから、最初は、父ダビデと和解できた、許された喜びから、少しでもその王のために、国のために、人びとのために役立とうとしたのではないか。そうして毎日朝早くから熱心に勤勉に城門への道の傍らに出かけ、人びとの調停を行った。そして、彼はまた施政者としてもすぐれた素質をもっていたのでしょう、難問を次々に解決することができた。そうしてアブサロムのうわさが広まり、われもわれもと早朝からアブサロムの前に人々は長蛇の列をなしていったのでしょう。まだダビデによる国の統一は整っていない、むしろまだ混乱状態が続いていたからです。(イスラエルが王国として安定したのは、このダビデの後のソロモン王の時代でした。)アブサロムは、持ち前の熱心さから、次第にやがて政治的野心をもつようになったのではないでしょうか。
  やがて、アブサロムは「・・・お前の訴えは正しいし、弁護できる。だがあの王の下では聞いてくれる者はいない。」(3節)、そして「わたしがこの地の裁き人であれば」(4節)とそう言うようになったというのです。次第に父ダビデを生ぬるく思い始めた、父は老いて決断力がにぶい、優柔不断ではないか、そのような不満と批判が彼の心を占めるようになっていった。「わたしがこの地の裁き人であれば」、そのようにアブサロムは思い詰めるようになったというのです。早く、老いた父に代わって王となることが国家のため、人びとのためだ、そう思うようになったのだと。
  アブサロムは、ダビデに対する不満をとくにもっていた当時の王国の北イスラエルの人びと ― それは先のサウル家につらなるイスラエル諸族の不満分子といっていいでしょう ― そして、更に、そしてダビデが首都を聖都へブロンから異教の都エルサレムへ移したことへの不満をもつユダ族の人びとを加え、いわば保守派の連合体によるクーデターを起こします。そしてアブサロムは、自分の特別補佐官にはアヒトぺルという老人をかつぎ出します。アヒトぺルは、ダビデの忠臣であったウリヤの妻バト・シェバの祖父でしたが、ウリヤに恋したダビデが謀略によってウリヤを死なしてしまい、バト・シェバの結婚を破壊してしまったのです。ですから、アヒトぺルはその祖父として、ダビデに対して並々ならぬ批判と憤りをいだいていたのでしょう。そのようにアブサロムの周囲には不満や不幸、更に欺きやだまし合いが渦巻いており、彼らを露骨な野心が支配しています。いわば人間の底によどむどす黒いものが満ちていたのです。これは、今も変わらない政治の世界、戦争の絶えない人間の現実であると言えるでしょう。だが、聖書はその中に、真に希望の光ともいうべきあたたかな<こころ>が灯っていることを示すのです。その希望を担っているのが、このダビデなのです。

 さて、ダビデはそのアブサロムの謀反の知らせを聞いて、エルサレムを放棄し、逃亡します。しかし、そもそもなぜダビデはすぐに都エルサレムの放棄を決め、なぜ逃げることにしたのでしょうか。と言うのも、そもそもエルサレムは難攻不落の要塞であって、篭城するには最善の場所でしたし、それに15章13節以下を読みますと、完全に人びとの心がダビデを離れたわけではないことが伺えます。そして何と言ってもダビデに忠誠を誓う勇敢な兵士たちがまだ多数仕えていたのです。何より老いたとは言え、ダビデも勇気を持った優れた軍略家でした。戦って決して勝ち目が全くなかったというのではなかったのです。
  しかし、なぜダビデは逃げることにしたのか、その理由をサムエル記下15章14節のダビデの言葉を通して知ることができます。ダビデはこう言うのです。「直ちに逃れよう。アブサロムを避けられなくなってはいけない。我々が急がなければ、アブサロムがすぐ我々に追いつき、危害を与え、この都を剣にかけるだろう」。つまり、町を戦火から守りたい、民衆を犠牲にしたくないという、あのアブサロム、そしてその周囲にあるどす黒いものとは対照的に、ここにはダビデのあたたかな<こころ>がにじみ出ています。まさにそれが故に、ダビデは、一切を捨てて逃亡したのだ、と語られているのです。
そして、更にそのあたたかな<こころ>は外国の寄留人、ガド人イタイに対するダビデの思いやり(サムエル記下15章19-20節)に満ちた言葉からも伺えます。 ダビデは、この火急の時、自分の生命の不安の高まる時にもかかわらず、自分の面前を粛々と進む大勢の兵隊の中の一人の男に目を留め、声をかけるのです。「なぜあなたまでが、我々と行動を共にするのか」と。そして説得します。「戻ってあの王のもとにとどまりなさい。あなたは外国人だ。しかもこの国では亡命者の身分だ」と。わたしに義理立てることはない。わたしは落ちのびて行く人間、あなたにわたしと同じ運命を味わわせるには忍びない、と。ここには、この一人の外国人亡命者に対するダビデの思いやり、いたわり、あたたかな<こころ>があります。それに対して、この外国人イタイがまたこう答えるのです、「主は生きておられる。わが君、王は生きておられる。わが君、王のおられる所に、死ぬも生きるも、しもべもまたそこにおります」(21節)。
あまりにも痛々しい、悲劇のおとずれ、しかしその火急の中にあっても少しも変わらずに互いに通わせ続ける〈こころ〉が生きています。イタイばかりではなく、このサムエル記下15章にはなおダビデの周囲の人々の心にはまごころがあふれ、忠誠心が燃え、誠実さがきらめいているのです。聖書は、あの時の勢いにまかせて戦いを起こすアブサロムと彼取り囲んでいる人間の底によどむどす黒いものと、まさに対照をなす、悲しく、辛い、しかし、その時にこそ気高い、暖かい人間の姿を描いています。
しかし、何と言っても、そのような高貴な人々、暖かい心を持ち続ける人々は、あまりに悲しい、惨めさの中にあるのです。「その地全体が大声をあげて泣く中を、兵士全員が通って行った。王はキドロンの谷を渡り、兵士も全員荒れ野に向かう道を進んだ」(15:23)。真に胸を打つような光景です。憂いの人、ダビデ。これ以上ない深い悲しみ、惨めさ、その中で、しかも、その上ダビデは、王であるしるし、最後の拠り所とも言うべき「神の箱」、神の臨在のしるしを、アブサロムの元へ送り返してしまうのです。 そして、言うのです、「主がわたしを愛さないと言われるときは、どうかその良いと思われることをわたしに対してなさるように」(15章26節)。これは直訳すれば「もし主が『わたしはおまえを喜ばない』とそう言われるのであれば、どうぞ主が良しと思われることをわたしにしてくださるように。わたしはここにおります」と。ダビデは、絶望してそのように言ったのでしょうか。すっかり心弱くなり、あきらめて「神の箱」を手放してしまったのでしょうか。深いどん底の中で、「・・・どうぞ主が良しと思われることをわたしにしてくださるように。わたしはここにおります」、そのように言うダビデ。しかし、その彼に尚あたたかな<こころ>が脈打っています。悲しみの底、苦しみのどん底で。
わたしたちは、こうした人の<こころ>にふれたとき、その気高さに触れたときこそ、また自らのこころを動かされ、希望を持つことができるのです。そして、わたしたちもまた、どんなにかこのように気高くあることを願い、あたたかなこころを持ち続けて生きたいと願うことができるのです。悲しみの底、苦しみのどん底にあっても!いや、その中にあるからこそ!
しかし、ここで心に留めなくてはならないことがあります。かつてあのアブサロムも、そうあろうとしたのです。たとえば、サムエル記には「また、彼に近づいて礼をする者があれば、手を差し伸べて彼を抱き、口づけした」(15:5)、 そのように人に<こころ>を通わせようとし、「アブサロムは、王に裁定を求めてやって来るイスラエル人すべてにこのようにふるま」(15:6)ったことが記されています。しかし、彼はそのあたたかい<こころ>を持ち続けることができなかったのです。
  そして更に言わなければならないことは、このアブサロムの人間の底によどむどす黒さ、野心、憎しみ、欲望、それらは、またこのダビデの中にもあったことなのです。かつてダビデの邪な欲望が、自分の忠実な部下ウリヤを死なせてしまったのです(サムエル記下11章以下)。であれば、どうしたら、わたしたちは、あのあたたかい<こころ>に触れ、それを持ち続けることができるのでしょうか。

 わたしたちはこのサムエル記下15章の真ん中に記されている、先ほどの「もし主が『わたしはおまえを喜ばない』とそう言われるのであれば、どうぞ主が良しと思われることをわたしにしてくださるように。わたしはここにおります」(15:26)、その言葉を心に留めなければなりません。ダビデや彼の周囲の人々の気高さ、あたたかな通い合う<こころ>、一切はここから来るのです。どんな低みにあっても、悲しみの中にあっても尚、人間らしさを失わない、それはここから出ているのです。それは私どもが思うよき人間性、よき性格からくるのはないのです。人間性を言うなら、ダビデは自分のうちにある、人間のどす黒さを知っています。それがかつて自分の部下を殺したのです。あのアブサロムと自分の間に何の違いもないことを身にしみて知っているのです。それ故、ダビデは「オリーブ山の坂道を泣きながら上って」いくのです。一切を捨てて、泣きながら、その主のもとへ、主のもとへと。
今日のこの詩編3編は、そこから生まれたのです。この詩編は「多くの者がわたしに言います、『彼に神の救などあるものか』と」(3節)、そう訴えています。もうダビデには救いがない、神の御手はアブサロムに移った、恐らくそのような言葉が触れ回っていたし、また実際このダビデたちの姿は人びとにそう映ったことでしょう。しかし、この詩編がすぐにこう歌います、「主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。」(4節)
  「主よ、それでも、あなたは」、わたしの気高さによらず、また罪、あのどす黒さによらず、いえ、それにも関わらず、「主よ、それでも、あなた」は御自身の救い、愛を貫き給うでしょう、と。自分め王位は踏みにじられ、自分の栄え、栄光は今や血にまみれた、しかし、だがこの神こそ「わたしの栄え」であるというのです。何故なら、主なる神は、「わたしの頭を高くあげてくださる方」であるから、と。誰もがこういう状況の中では、首がうなだれ、頭を垂れ、がっくりしてしまうのです。そんなときには決して自分の力で頭は持ち上げられないのです。しかし、神は「わたしの頭を高くあげてくださる」、前の口語訳は「わたしの頭を、もたげてくださるかた」、絶望からそっと頭をもたげて希望を与えてくれるというのです。
  みなさん、わたしたちは誰も、このダビデのように、泣きながらこのオリーブ山に上るときがある。いやかつて、そうして上られた方もいる、そして今、泣きながらこのオリーブ山に上ろうとしている方もおられるかも知れない。誰もが首をうなだれてしまうのです、絶望の底、悲しみの底で。でも、決して誰も奪うことはできないのです、わたしの中にあるあたたな<こころ>、どんなどす黒いものが渦巻いていようとも、それでも尚、人はあたたな<こころ>を抱いて、希望を抱いて生きることができるのです。
  何故なら、神は「わたしの頭を、もたげてくださるかた」だからです。「主が・・・どうかその良いと思われることをわたしに対してなさるように」、このダビデ、このダビデが泣きながら登ったオリーブ山でこそ、あの主イエスがゲッセマネの祈りを祈ったのです。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のまま。」(マタイ26章39節)と。
  今日の黙想にティヤール・ド・シャルダンという人のこんな言葉を紹介しました。
  「人生にはただ一つの義務しかない。
    それは、愛することを学ぶことだ。
   人生にはただ一つの幸せしかない。
    それは、愛することを知ることだ。」
  人生のただ一つの義務、ただ一つの幸せ、愛することを学ぶこと、愛することを知ること ― そのようにあたたかな<こころ>を持ち続けること!わたしたちは、しばしばこのダビデのように破れるでしょう。しかし、「主よ、それでも、あなたは」愛!そこに「わたしの頭を高くあげてくださる方」主イエスがおられのです。そうです、だからこそ繰り返し、繰り返し、わたしたちは、この主のもとに帰るのです。愛することを学び、愛することを知るために。たとえどんなにどす黒い中にいたとしても、また自分がそれをもっていたとしても、神が必ず与えてくださるあたたかい<こころ>を抱きつづけるために、<こころ>と<こころ>を通わせるために。

2004年8月1日 聖霊降臨後第9主日 「目覚めよ」

詩篇第2篇

 
説教  「目覚めよ」  大和 淳 師
 「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち 人々はむなしく声をあげるのか」。この詩編第2篇は、そのように国々が「主に逆らい、主の油注がれた方に逆らう」と語っています。それは、まさしく人間の歴史が繰り返してきたことです。「我らは、かせをはずし 縄を切って投げ捨てよう」、わたしたちは、歴史の至るところで、こういう声を聞いてこなかったでしょうか。そして、それはまた今のこの時代にもあがる声でもある、そう言っていいでしょう。それは単に「地上の王」、「支配者」と呼ばれるような人だけではない、「人々は」とまた言われているように、「地上の王」「支配者」でもない者もまた、この地上での生活、自分の生そのものに「かせ」を感じ、「縄目」を負っている、と、いや、むしろ、そのように力のない者、弱者であれば、あるほど、その「かせ」は、その「縄目」は重く、二重、三重にのしかかってくる、それがわたしたちの実感です。この詩篇が聞く「国々の騒ぎ立ち」、「むなしい声」とは、まさしくそのようなわたしたちの声なのです。
  そのわたしたちの「我らは、かせをはずし 縄を切って投げ捨てよう」、そこにあるのは、こういうことです。ただ、その支配者と、弱者である者との違いは、それを「はずし」、「投げ捨てる」ことができるか、否かである。力を得る、力を持っているとは、その「かせ」が軽くなっていくこと、はずれていくこと、「縄目」がほどけていくことであるかのように、あたかもそうであるかのように、わたしたちは考えている。そのように、この世は成り立っていると。だから、この世の底の中に生きている人ほど、下にあればあるほど、その「かせ」は重くなり、「縄目」はますますきつくなる、全くそのようである、と。したがって、人々は、あいもかわらず、「下」から「上」へ、力のために、「王」、「支配者」へと、その目を向けていくのです。何故なら、わたしたちには、絶えず、

この生に対する「かせ」、「縄目」があるからです。
  ある人はとっては、現実の「貧しさ」が「かせ」となる。その「かせをはずす」ことは、したがって、富を得ること。地位のない者は、それは、地位であり、したがって、かせをはずすことは地位を得ることに他なりません。病気もまた、そのような「かせ」、「縄目」として、わたしたちを縛ってきます。不幸であること、能力に欠けることも。いや、富に恵まれ、地位もあり、健康であり、幸福であったとしても、たとえば、人間関係の煩わしさが、「かせ」になり、「縄目」にもなります。時には、私たちの安らぎであるはずのもの、家族や友人さえ「かせ」になり、「縄目」にもなる。本当に自分の生きがいに感じていることさえ「かせ」「縄目」になってしまう。そのように二重に三重に「かせ」がはめられ、「縄目」に縛られている、その最大の「かせ」、「縄目」とは「死」であることは言うまでもありません。死の「かせ」がある限り、わたしたちが所有していく一切のものも、また「その「縄目」となるのです。聖書は言います、「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6章23節)、すなわち、罪の「縄目」は死であると。死は、わたしたちから、一切を奪う。それ故、死は、それまで結んでいた生のきずな、親子であれ、夫婦であれ、友人であれ、そのように、わたしの支えであったはずのものを一切切り離し、わたしたちを不安と孤独に陥れます。だから、頂点に立つ「地上の王」、「支配者」さえ、「かせをはずし 縄を切って投げ捨てよう」とするのです死、わたしたちの最大の「かせ」、「縄目」、たとえ、どれほど、偉大な王であれ、支配者であれ、この死の「かせ」、「縄目」からのがれることができない、詩編はそこに立っているのです。
  この詩篇は繰返し、二度も「なにゆえ」「なにゆえ」と問いかけています。この死の現実を見ないこと、そのことの「むなしさ」、愚かさ、「なにゆえ」それに気付かないのか、と。何故なら、それは、まさしく「主に逆らい、主の油注がれた方に逆らう」ことに他ならないのだ、と。わたしたちは、この詩篇の冷めた眼に驚かずにはいられないのではないでしょうか。そのような「かせ」、「縄目」を前にして、彼は落ち着いています。いわばこの詩編は、まさしく死を前にして、独り立ち、目覚めています。そして、「目覚めよ」と呼かけています。
  わたしたちが「騒ぎ立つ」、「構え」「結束する」、それは、その「かせ」、「縄目」を恐れているからです。わたしたちの眼には、それはわたしたちを圧倒し、打ちのめす、恐るべきもの、忌まわしきもの、そのようにしか見えないのです。いや、その「かせ」、「縄目」が、そのようにわたしたちの眼を塞ぐと言っていいでしょう。しかし、この詩人はひとり目覚めて、そのわたしたちの眼が決して見ない、見えないものを、その「かせ」、「縄目」の中に見ているのです。それは、「天を王座とする方」です。詩篇は、その冷めた目で「かせ」、「縄目」の中に「天を王座とする方」を見るのです。そのお方とはどんな方なのか。詩編は言います、「天を王座とする方は笑い/主は彼らを嘲り/憤って、恐怖に落とし/怒って、彼らに宣言される。」(4-5節)
  それは、わたしたちの「かせ」、「縄目」、即ち、「死」を前にして、笑い給う「神」、死を嘲り給う神、死に対し、憤り、怖れさし、怒り給う神なのです。したがって、既に死に対して勝利し給う神です。それが、わたしたちの神、主であり給うのだ、と言うのです。そして、それこそ、わたしたちが最も驚き、そして畏れなければならないと言うのです。それ故、この神が宣言し、なし給うことを、わたしちは聴き、そして従わねばならない、と。
  その神の宣言し給うこと、そして、なし遂げ給うことを、彼は7節以下に記していきます。そして、この7節で、突然「主語」が「わたし」に変わります。詩篇が、そのように落ち着いている、冷めている、目覚めている、それは、このように、まことにこの「わたし」と言われる方、「主の定めたところに従う」、「主が告げられる」、「わたし」、その方が、彼と共に立っているからです。この神が宣言し給う、それ故、ご自分の意志をなし給うとき、その時、この「わたし」と言われる方がおられる、その「かせ」、「縄目」の中に。そのお方が、わたしたちの代わりに、笑い給う「神」、嘲り給う神、憤り、怖れさし、怒り給う神の前におられ給うのです。そのようにして、この方は、神と共にあり、そして、そのようにして、我らと共にい給うのです。
  その「わたし」というこの方に向かって、主は「お前はわたしの子 今日わたしはお前を生んだ」と言われます。これは、もともと王の即位の言葉です。主なる神は、この方に、その全権を与え、委ねたということです。そのようにして、今や、この方が、主なる神の代わりに、わたしたちの前に立っておられます。「主なる神の代わりに」です。わたしたちの主として、です。そして、「求めよ、わたしは国々をお前の嗣業とし 地の果てまで、お前の領土とする。お前は鉄の杖で彼らを打ち 陶工が器を砕くように砕く」。しかし、わたしたちがここで忘れてはならないことは、たとえわたしたちの眼に、あの「かせ」、「縄目」がどれほど大きくうつろうとも、この方が、その真実の支配者であるということは、その「かせ」、「縄目」からまたわたしたちを解き放つ方であるということです。死の「かせ」、その「縄目」から、わたしたちを解放するお方であるということです。この「わたし」、そのお方、即ち、イエス・キリスト、主イエスがどのようにして、その「かせ」から、わたしたちを切り離し、「縄目」をほどいて下さったのか。それは、この方ご自身が、自らその「かせ」を負い、「縄目」につかれたのです。わたしたちのために。そのようにして十字架につかれた方、この方は、自ら、その「かせ」を負い、「縄目」につかれ、苦しみ痛んでわたしたちの代わりにこの神のみ前に立って下さっている。そのようにして、この方は、ご自分の支配を確立されたのです。
  それは、こういうことです。わたしたちが、最早どうにもならない「かせ」、束縛する「縄目」、その中で、即ち、死を前にして、本当に孤独であるとき、しかし、そこにも、この方の支配は及ぶのです。どのように、死が、わたしに「かせ」をはめ、どれほど、頑丈に「縄」をもって、縛りつけようとも、わたしは、最早独りではないということです。その「かせ」、「縄目」はわたしを縛ったままではないということです。最後に笑うのは死ではなく、この方、そしてこの方と共にいるわたしたちであるということです。それ故、騒ぎ立つことなく、虚しい声をあげることなく、本当に落ち着いている、冷めている、目覚めていることができる。
  何と言っても、この方において、主なる神は、その死に対して笑い、嘲り、憤り、怖れさせ、怒り給うのです。この方をよみがえらせ給うのです。そのようにして、十字架と復活によって、「鉄の杖で彼らを打ち 陶工が器を砕くように砕」き給うのは、わたしたちの「かせ」、「縄目」、死です。それ故、パウロは叫びます、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(Ⅰコリント15章55節)と。
  同じようにこの詩篇は呼かけます、「目覚めよ」と。勝ちどきの声を挙げます、「喜び躍れ」と。わたしたちを今も苦しめる「かせ」、「縄目」、しかし、それは、最早わたしから何も奪うことはないのだから、と。詩編は呼びかけます。目覚めよ、と。それは言い換えれば、こういうことです。自分を苦しめる「かせ」、「縄目」がある、しかし、それらによって決して自分自身を失ってはならないし、またあなたは失うことはないのだ、ということ。それ故、パウロと共にわたしたちもまたこう言うことができるのです、「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」(フィリピ4章2節)そうです、わたしたちは大胆にこういうことができるのです、自分を苦しめる「かせ」、「縄目」、そして、死!だが、見よ、キリストこそが今やわたしである。わたしが苦しめば苦しむほど、わたしの中のキリストは生きる、生きているのわたしではなく、わたしの中のキリストである!
  みなさん、たとえ、どんなに重い「かせ」、きつい「縄目」を負っても、今日の「主日の黙想」にも書きましたが、不如意、まったく自分の思いどおりにならない中にあってもわたしは自由であるということ。むしろ、「我らは、かせをはずし 縄を切って投げ捨てよう」とすることは、ただ自分中心・自分だけの世界、他者不在、わたしだけの世界、他者をはずし、隣人を投げ捨てるのです。そうしてわたしどもは、またわたし自身そのものを失っていくのです。わたしを支えるものを。
  確かにみなさんはそれぞれ実際に様々な「かせ」、「縄目」を負って、その中にいます。その中で痛み、時に大きな心の傷を受けているのです。悲しい、つらいことでしょう。しかし、その傷が本当に癒されるには、ただ一つの方法しかありません。それは自分の「かせ」、「縄目」の中で、ただわたし自身は無力になって、他の人の「かせ」、「縄目」を、他者の痛みを、他者の傷を知る、ただそのことを通してのみです。自分の「かせ」、「縄目」の中で、他の人の悲しみに目を向けることのよってのみ、わたしたちのその悲しみ、痛みは癒されていくのです。
  (週報にもお断りしましたが今日は本来「平和の日」としてまもろうとしたのですが)アメリカの平和運動を続けている9・11犠牲者遺族の会「ピースフル・トモロウズ」のディビット・ポトーティさんという方、彼もまたあのビルで肉親を失ったのですが、来日し、各地で講演されました。そのポトーティさんはこういうことを語っているのです。「9・11で死んだ私たちの愛する人々の死は世界で毎日殺されているたくさんの人々の一部に過ぎないと思います。軍隊は私たちを守ってくれない。そうであるなら、私たちはともに生きるしかありません。私たちは『米国は善良で強大な国家だ』という妄想を捨てなければならない。米国人の多くは恐怖に支配されているために、こうした考えに立てませんでした。そしてアフガンへの爆撃を支持し、『愛国法』を支持し、不法なイラク爆撃を支持しました。恐怖と不安による暴力で報復することで、更なる恐怖と不安、暴力を生み出しました。
  しかし、この間、私たちの言葉と思想には力があることも学びました。人間的になることで、弱さをさらけ出し、手を取り合うことで、大きな力が生まれることも知りました。私の母は事件の直後に『息子の死で、私がいま味わっている悲しみを世界の他の人々に決して味あわせたくない』といいました。彼女は世界の人びとの悲しみに目を向けることで、自分の悲しみを癒したのです。この訴えを広げる中で、同じように考えるピースフル・トモロウズの他のメンバーと知り合いました。私たちは、どんなときでも、どんな理由があっても、殺戮はいけないということを学びました。私の国がアフガニスタンやイラクにやっていることはあの国にも、また攻撃した側の米国の兵士にも10年も、20年も後遺症を残します。彼らは怒りを体の中に抱え込んで生きていくのです。
  ・・・テロは本当の問題の現象にすぎません。私たちが本当に闘うべきものはテロではなくて、帝国主義だとか、物質主義だとか、軍事主義、愛国主義、そして自分の命は他のものよりずっと価値があると考えるような思い込み、それらと闘わなくてはなりません。」
  ポトーティさんたちは、いわば自らの「かせ」、「縄目」を負うことで、「人間的になることで、弱さをさらけ出し、手を取り合うこと」によって、共に生きる喜びを得、そしてその喜びを分かち合うために闘っておられるのです。パウロは言います、「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラテア5章1節)。「軍隊は私たちを守ってくれない」!そうです、力によって自分を失ってはならない。いや、あなたはどんな「かせ」、「縄目」の中にあろうと、自分を失うことはない。自らの「かせ」、「縄目」の中にこそ、主イエス・キリストはおられるからです。

2004年6月6日 三位一体主日 説教「幸いの道」

詩篇第1篇

 
説教  「幸いの道」  大和 淳 師
 私たちの想像できないことは全て変ってしまうということです。例えば今日はとても良いお天気です。太陽が照っていることは、私たちの好みはこのような風景でしょう。太陽も無く、月も無くなる、私たちの知っている宇宙もなくなると、まず寂しい思いになります。そこで主イエス様がまったく太陽のようにわたしたちを明るくして下さると共に私たちも明るく輝くものになって、もう太陽は要らないほど明るくなっているでしょうと考えられます。そのような中で私たちは、主イエス様がどう私たちを審判してくださるか心配ですが、こっちへ行くか、あっちかと、天国か地獄かとそれを決めてくださるのですから、それはちょっと心配ですが、でも、神様の約束の言葉は決して変らないと、全てのものが無くなっても神様が私たちに聞かせてくださったことは、絶対に変らないということを私たちは聞かされて、安心できるのです。

 イエス様はいちじくの木の話をなさっておられますが、その葉っぱが大きくなってきたら、実がなってくると、私たちはそう期待できるのです。一年で暖かい一番気候の良い夏が来るとそのようになると、先のことを思うことが出来るのです。それをイエス様が私たちに聞かせておられるのです。全てが無くなっても絶対に神様の教えられたことは、

すなわちわたしたちが主イエスさまを信じていれば必ず天国へお連れくださると言うことは変らない。私たちは罪を赦されて、イエス様が贖ってくださったから罪の無い人と、これは私たちが自分を見て考えますと考えられないほどの素晴らしいことです。罪が無い、欠点が無い、完全なものになっている。今のところ、私たちはどんなに一生懸命にしても、何かちょっと欠かしたり、忘れたところがあったりで、充分でないことばかりを経験して、「これは人間的である」と言う言葉を使うのです。自然にちょっと足りないところが必ずある。聖書の言葉でしたら罪人であると言うことでしょう。私たちがこのようなものあっても神様は愛してくださって、わたしたちのために主イエスさまをこの世に送ってくださって、なお、最後のときには私たちを迎えに来てくださるのです。「おいで」「こっちへいらっしゃい」と。あっちではなく。あっちとは恐ろしい所ですがね。わたしたちは限りなく、一時ではなく、いつまでも、永遠に立派な者に、病気もしない、痛いところも無い、お腹も空かない、充分に生きる事が出来る状態になるのです。勿論、その逆もあるのです。イエスさまを信じない者、また自分勝手に天国へ行くためにその道を決めて、何をしたら行けるかを決めた人たちはきっと失望するでしょう。失望だけではなく、恐ろしいことにあいます。その恐ろしさが永久に続くものだということです。神様はあまり聖書の中で、私たちを脅して天国へ行かせようとしておられません。でもはっきりと罪のために捨てられた人たちは大変だと仰るのです。そんなに数はないのですが、その苦しみをわずかの言葉で描いておられます。おもに、私たちが救われたら、どんなに楽しいかを私たちに聞かせておられます。本当に私たちは今どんなに努力してもほとんど失敗に終わる事が多いでしょう。あるいは一生懸命にやってもこれが出来る限りの良いものだと思っても、誰かそれを見て批判することが出来るのです。完全ではないのです。でもその完全でない私たちのために主イエスさまを神様が送りなさった。その御独り子、一番親しくしておられた方を救い主として送られたのです。主イエスさまは本当に大変であったでしょう。私たちも出来るだけ良い人間として努力していたら、それほど努力をしていない人を見たらちょっと嫌な感じがするのです。完全な方が汚い私たちをご覧になったらどう思われるでしょうか。心配しますが、でも、神様はこのような私たちであっても愛してくださっておられます。

 ただイエスさまを信じるだけですね。イエス様のなさったことをわたしたちが有難く思っていたらそれだけでよろしいのです。完全なところへまで神様が連れて行ってくださる。これが私たちの信仰ですね。神様がそう約束なさったのですから、その通りになるのです。
  「これらのことがみな起こる今日、日課を離れて、詩編交読の詩編第1編から、み言葉を聴きましょう。
  「いかに幸いなことか・・・・」、マタイ5章の主イエスの山上の祝福「心の貧しい人々は、幸いである」と同じ祝福でこの詩編は始まります。「幸い」です。恐らく誰もが思う「幸い」、その幸いの道、聖書の語る「幸い」とは、歩まない、とどまらない、座らないと、具体的ふるまい、生き方の問題です。わたしたちが、如何なる者、どんな人間であるかより、どんな人であれ、神の御前でどう生きていくか、生きようとするかにかかっているのです。わたしたちは誰も人生の幸いを願います。人生は、しばしば旅にたとえられますが、詩篇は、わたしたちを旅人のように見ていると言っていいでしょう。旅には、いつも危険があります。苦しみもあり困難が続くこともあります。思わぬ災難が、身に降りかかってくる。だからこの人生の旅の無事を願わずにはいらないわたしたちです。しかし、聖書の語る「幸い」は、そのような危険、災難、苦難がない旅が幸いであるというよりも、何よりわたしが危険、災難、苦難のときもどう生きるかを指し示すのです。ですから、わたしたちは、単に「何事もなく無事でありますように」とただ単に祈るのではない、むしろ、もしそれが避けられないのなら「たとえ、どのようなことが起ころうとも、わたしが、あなたの御前でこう生きられるように・・・・」、そのように祈るものだと言っていいでしょう。

  さて、その出発点、最初にまず「神に逆らう者の計らいに従って歩ま」ない、まずは「神に逆らう者の計らい」から始まります。この「計らい」は、要するに「唆かし」、「誘惑」です。聖書は、そのようにわたしたちがたえず「誘惑」を受ける者であることを知っています。罪の道は「誘惑」から始まるのだと。誰も最初からあえて間違ったことを平気でする者はいない訳です。よく「ほんのできこごろで」というように、誘惑される。本心ではないけど、つい何かの誘惑に負けて、そしてだんだん深みにはまっていく、そして、結局どうにもならないようになっていく。ある人は、この1節は、次第に高まっていく罪人の3つの段階を表していると言います。「誘惑」からやがてその道を次第に「歩き」始め、そこに「とどまり」、ついには、どっぷりと腰を落ち着けて「座る」、浸ってしまう、そういう段階です。聖書は、そういうわたしたちの弱さを、本当によく知っている訳です。その第一歩は、「計らい」、「誘惑」から始まる。主の祈りを想い起こしましょう。「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」(マタイ6章13節)。この詩篇は、その主の祈りの祈り、キリストの祈りなのです。

  わたしたちが幸いな道を歩む、それは何よりそういうわたし自身の弱さ、本当に誘惑に弱いものであるということ、そのことから出発するのです。自分はそうではない、わたしは道を一人歩んでいける、そういう人はない訳です。むしろ、そんな弱さをもった自分を受け入れない、それが、この最終段階の「傲慢な者と共に座る」ことなのです。自ら誘惑を克服し得るような強い意志、力をもっているから、幸いなのではない。むしろ、弱い、本当に弱いものなんだ、それを受け入れる、そこに幸いの道があるということです。

  だから、わたしたちは幸いを願うけれど、その背後にはいつも不安があるのだと言っていいでしょう。本当に大丈夫だろうか、もしかしたら、と言う恐れがある。そしてまさにこの「神に逆らう者の計らい」とは、その不安、恐れに働きかけてくる。そして「計らい」、「誘惑」ですから、決して、わたしたちには、それが「神に逆らう道」であるとは、決して見えない。巧妙に働きかけくる訳です。(創世記3章の、あのエバに働きかけた蛇の巧妙な言い回しのように)むしろ、そっちの方が、どう見ても真実だ、確実安全に思えてくる、いやそれしかないと、確かに思えてくる、そういうものです。しかし、決して真実ではない以上、本当には安心を与えない、確かなものではない、それ故、だんだんと、まさにこの詩篇が語るように、深みにはまっていく、次から次へと、どうにもならないかのように、抜き差しならず罪人の道を歩んでいく、そして、遂には、「傲慢な者の座に座る」、つまり、「傲慢」な者の仲間になるというのです。

  そうするとどうなるのか。「傲慢な者の座に座る」、いわば、虚勢を張る以外にはない。人間、居直る、居座る訳です。しかし、それは決して本当の強さ、確かさではないのだと詩篇は語ります。「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻」と4節に言われるように、いくら、虚勢を張っても所詮虚しい道であると言うのです。もみ殻のようにはかない、これは強い言葉です。しかし、現実のわたしたちの目には、「神に逆らう者」の道、その方がいつも強く、立派でもあり、確かなものであるように見えるものだということを忘れないようにしましょう。

  どんな人でも裸のわたし、ありのままの自分というのは、本当にみすぼらしいのです。不安の中にあり、たえず恐れ、おじまどうあまりにも弱々しく思える(だから「神に逆らう者の計らい」の方がよく見える、頼もしく見えるのですが)。しかし、この詩篇の力強さは、まさに、その裸の自分を、ありのままにみつめることから来るのです。あの誘惑の前に、その道に対して自分自身をみれば何もない、そのような裸のわたし、しかし、詩篇は、そのような自分の弱さ、そこにこそ、主の道が開けていることを語ります。

  何故なら、6節「神に従う人の道を主は知っていてくださる」、主が知っておられるからです。主に知られているのです。主がわたしたちを知られるとは、単に知っているということではなく、この知るは、あなたを守り、支え、導き、あなたと共にいるという、そのように知ることなのです。つまり、神は、わたしたちをインマヌエル、神我らと共にいます方、イエス・キリストを通して知られるのです。何より、ご自身、飼い葉桶の中の裸のあかんぼうになり給い、本当にみすぼらしく、あまりにも弱々しくなられたきリスト。そのようにして、わたしたちの低みまで下り、わたしたちのために苦しみを受け、十字架におかかりになったキリスト、このお方がわたしたちを支え、わたしたちを導いて下さる。このキリストが共におられる、このキリストと共に歩む、それを示してくれるのが聖霊の力ですが、父、子、聖霊の神のもとで、その者は「なんと幸いなことか」と詩篇は呼かけているのです。

  聖書は、決して人はひとりでは生きるものではないと一貫してみています。わたしたちは、常に何かに従って生きるものだ、と。何かと共に生きずにはいらない存在なのです。そういう人間理解を、現代の人間は失いかけています。と言うのも、やはり、自分は、自分で生きている、自分が主人公のようにして生きてしまっている訳です。だから、納得がいかない、理不尽な訳です。自分の思い通りということが自由であると思い込んでいる訳です。しかし、よく考えれば、人は、常に何かに支配されている、ということはそれでも分かる訳です。自分の人生の選択、たとえ、自分で自分の人生を選んだと思っても、たとえば、やはりお金がなければとか、良い学校でなければとか、力がなければ、と、そういう考えそのものには、自分の本来のものではない、価値観とか世界観、そういうものに従っている訳です。はっきり言えば、他人の眼の中で生きている訳です。そこには自分が自分を、本当にどう見るか、ということがない。最近そんなCMが流れていますが、結局は他人に左右されている。だから内にはいつも不安、恐れがある訳です。

  ですから、神を信じないという人も結構星占いとかのようなものをもてはやす、あるいは、縁起をかつぐ。私たちの周囲は、この縁起の固まりみたいなものではないでしょうか。勿論、中には生活の知恵と言ったものがありますが、とにかく縁起から始まって、縁起で貫かれていく。これは、やはり、自分の人生は、確かに自分で選んでいかなければならないという一面、その人生そのものが、自分以外のものに選ばれていく、そういう面があることを物語っている訳です。運命と呼ぶ、宿命と呼ぶ、そういうものです。

  それで共同訳では、「神に逆らう者」となっていますが、そういう風に訳するのは、大変分かり易いのですが、しかし、ここで「神に逆らう者」と訳され、また「罪ある者」、あるいは「傲慢な者」というのは、決して、信じない者という意味ではない。神を信じない者という意味ではないんです。むしろ、彼らも彼らなりに「神を信じている」のだと言うべきでしょう。ルターは、その人の心が拠り所にしているところのものが、その人の神なのである、そう言っています。神を持たない人間はいないのだ、と言っていい。誰もが自分の神を持っている。その意味では、誰が「神に逆らう者」であるか否かは見分けがつかない。しかし、ただ一つあるのは、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」、そのことだけが、いわば、眼に見える決め手だと詩篇は言うのです。

  この「教え」とは口語訳では、掟と訳されていたように、ここでは律法、戒め、つまり十戒ですが、その掟を愛する。この「愛する」というのは、もともと「慕う」とか「喜ぶ」、「求める」、そういう意味の言葉です。そのようにして生きる人、その人こそ幸いであると。ただ、それを聞いただけで、わたしたちは、何か不自由な、固い凝り固まった生き方を想像してしまうかも知れません。しかし、聖書は、そういう生き方こそ、本当に自由で、活き活きとした生き方、「流れのほとりに植えられた木」のようだと歌っている訳です。それは、どういうことか。

  十戒を、ここで思い出して戴きたいのですが、あの十戒は、「あなたは、わたしの他なにものをも神としてはならない」、その第一戒から始まって、「・・・・してはならない」、この詩篇と同様ほとんど一切否定形、否定、禁止です。つまり、主なる神は、人間、わたしたちに「否定」「禁止」をもって臨む神なのです。その神の否を「愛する」ということ。しかし、わたしたちが、わたしたちが自分の心のままに神と呼ぶのは、決して否を言わない。何故なら、自分が主となっているからです。その限り、それは偽りである、つまり、人間、自分が主となっているそれが預言者たちが厳しく糾弾した偶像、偶像礼拝ということの罪、問題なのであり、そして、その道は「滅びに至る」のです。何故なら、その主人公たる自分、それは、たえず不安の中にある、裸の人間というのは、人はひとりでは、本当に弱いもの、脆い者であるからです。その限り、滅んでいくしかない者になってしまう訳です。ですから、最後に「傲慢」、強がり、あるいは、開き直りというか、居直りの道を歩むしかない。そういう風にして、人は、自分の中にこもってしまう、それが神を失ってしまった姿だ、そういうことをこの詩篇は、明らかにしている訳です。そうして、結局人は神のみならず、他人、隣人をも、何より自分自身を見失っていくのです。

  「傲慢」というのは、「脅え」の裏返しです。いらいらしている、たえず、流されていく生き方です。一皮向けば、どうしたらいいか、本当は分からない、諦めている、そういう生き方です。この第1篇の言葉は、注意深く読むと、本当に慎重に言葉を使い分けているのですが、5節「神に逆らう者は裁きに堪えず」と言う、その「堪えない」という言葉はもともと「立てない」、立ち続けることができないという意味であり、1節の「傲慢な者と共に座る」という言葉にちょうど対応するようにまさに「座り続ける」ことが強調されているのです。立ち上がることができず、最後に崩れ込んでしまう。へたっている、そう言ってもいいでしょう。

  しかし、「神に従う者はそうではない」のだ、と詩篇は高らかに告げてくる。立ち上がることができるんだ、「流れのほとりに植えられた木のように」、立つことができる、葉を青々と繁らせ、すくすくと伸びていく、自分の弱さ、脆さ、そういうものに崩れ落ちることはない、何故なら、「主が知っていてくださる」、主が、その弱さの中から、不安と恐れの中で、共にいて下さり、それのみならず、立ち上がらせ、必ず「幸い」を備え、そこへと導いて下さる。それが、「主の教えを愛する」、「昼も夜も口ずさむ」ということ、そういうことです。

  苦しみがある、災いがある、そういう中で、本当に暗澹たる思いの中で、途方にくれてしまう、苦しみに耐えがたいように思ってしまうのがわたしどもです。しかし、そういう中で、この「主の教え」、神の否は、たとえ、どれほどわたしに困難が大きいように思えても、わたしを救うのは、この主である、その他のものは何も頼りにならない、わたしが、あなたの主である、わたしがあなたを導く、そのことを、わたしどもに知らせるわけです。だから、あの十戒「あなたは、わたしの他なにものをも神としてはならない」、「あなたはいかなる像も造ってはならない」、その「あなた・・・・してはならない」は、結局、「あなたは、わたしの他なにものをも神とする必要はない」、「あなたはいかなる像も造る必要はない」、殺す必要はない、姦淫する必要はない、もう盗まなくていい、そういうことなのです。

  それだから、この「主の教え」を「昼も夜も」心に止めていく、詩編はそう語ります。ルターは、それはいつも中心、生、命の中心に留まることであり、そして、その生の中心とは、イエス・キリストであり、「昼も夜も」心に止めていくということは、この中心、キリストによって揺り動かされていく、つまり、座り込んでいた、あるいは座り込もうとするそこから新たに立ち上がっていくことだ、というのです。み言葉こそ、わたしたちを立ち上がらせる力を持っている、いや、み言葉だけが、わたしたちを立ち上がらせる力なのだ、と。

  しかし、このことは、決して自明のことではありません。絶えず、先に申しましたように、誘惑にさらされるわたしたちであるからです。だから何より神の否を、わたしたちは、それ故、昼も夜も聞くのです。「神に逆らう者の計らい」、「誘惑」、その「慕い求め」から、あらゆる自分の思いに逆らって、み言葉に耳を傾ける、即ち、キリストに全存在を委ねることです。この「昼も夜も」は、ルターは、単に絶えず、ということだけではなく、「悪い時にも、良い時にも、恵みの時も、罪の時も、健康な時も、死に瀕する時も、働く時も、休息の時も、安全である時も、危機にある時も、いつ如何なる時も、どんな大きな困難であれ、いや、自分にとってささやかな危険に見える時も、いや、それどころか、全く危険がないと思える時も、主のみが助けである、そのことを心の中心とすることだ、そのようにして、大胆に主のみを信頼することだ」と述べるのです。更にルターはローマ書講義の中で「希望に反して希望するcontra spem spero」と、わたしの希望に反しての希望をわたしは持つ、そしてそれが本当の希望なのだ、と教えています。

  それが「流れのほとりに植えられた木のよう」であると言っていいでしょう。命の流れ、キリストの命、「まことのぶどうの木」につがれるのです。それは、「すべて、繁栄をもたらす」。詩篇は、そのような木は「すべて、繁栄をもたらす」と言い切ります。「すべて」「ことごとく」です。神さまの恵み、祝福、キリストの救いに、万一、例外は決してない、ということです。このわたしは、主の恵みに決してもれることはない、ということです。したがって、わたしたちは、自分の弱さにもかからわず、いや、何もないにもかかわらず、そこから、必ず立ち上がっていくことができるということです。愚かに見えても、貧しく、みすぼらしく見えても、しかし、わたしたちは、窮することがないということです。この詩篇に溢れている力強さは、まさしく、そこから来るのです。主は共におられる、インマヌエルの光です。わたしは、ひとりではないのです。

  だから、パウロは2コリント 5章11節で「主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います」と述べている、それがこの詩篇の心、そして、神にはありのままに知られていことこそ「さいわいの道」なのです。