2014年6月22日 聖霊降臨後第2主日 「根底からの平安」

マタイによる福音書7章15〜29節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

マタイによる福音書5章から7章に記されている山上の説教の最後の箇所が、今日の福音として私たちに与えられました。聞いていた群衆はこの主イエスの言葉に非常に驚き、(7:28)「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」(7:29)主イエスのお姿が、彼らの目に映っていました。

主イエスはこの山上の説教の中で、神様の教えである律法を廃止するために来られたのではなく、律法を完成するために来られた(5:17)と言っています。「律法を完成するため」、このことが律法学者のような教えと、権威ある者としての教えの違いであり、これはもちろん律法の内容が全く変わったということではなく、この神様の教えに込められた質についての違いであります。

一昨日届いたキリスト新聞に、「花子とアンとキリスト教」という記事が表の表紙に載せられていました。ご存知の通り、明治、大正、昭和の激動の時代を文学者として生きてきた村岡花子を題材として、今連続テレビ小説でやっている「花子とアン」に関することですが、そのお孫さんに当たる方が、村岡花子の一面についてこう書かれていました。「あの時代は、難しいことをより難しく言うのが文化人、教養のある人、という考え方であったと思います。祖母は全く違って、いかにやさしく人の心に伝えるかということを考えていた人でした。」

神様の教えであり御言葉である律法、その律法の内容の難しさも去ることながら、何よりもこの律法を守ることの困難さを私たちは知っています。律法学者やファリサイ派と言った人たちは、この律法を一字一句守るように、守らなければ神様から救われないと、義務的な視点で人々に教えていたのに対して、主イエスはこの律法、神様の御言葉を私たちの心に、私たちに寄り添うように、抱かせる、人を生かす律法、神様の御言葉を私たちに与えられるのです。

さて、主イエスは21節で「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」と語られ、また24節と26節では「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」と語られます。「言う者、聞く者、行う者」ということがここで言われています。神様に呼びかけ、神様の御言葉を聞いて、その教えを守っていくということが言われています。それが22節の『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』(7:22)と言うであろうという者を指しているのでしょう。これは今の私たちで言えば、教会の礼拝に出て、熱心に奉仕し、祈り、献金し、伝道、宣教していく者と考えるかもしれません。しかし、主イエスは「そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(7:23)と非常に厳しい言葉を投げかけるのです。「わたしから離れ去れ」これは天の国から除外される、天に国に入れないということです。神様の愛のご支配から離れてしまうのです。

なぜこのような理不尽なことが起こるのかと私たちは疑問を抱かざる負えませんが、この21節から23節には前の15節に出てくる「偽預言者」のことが言われています。偽預言者は「羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。」とあるように、その外見上は、わたしたちと全く変わらず、違いすらわかりません。初代教会、パウロが活動した時代にもいましたし、旧約の預言者たちにとってはこの偽預言者こそが最大の論敵でした。なぜなら、彼ら偽預言者の方が立派な神様の御言葉を宣べ伝える宣教者に見えるからです。そして人々の支持を集めていたからです。彼らは神様の観点ではなく、人々の観点に立って、人々の幸せや願望に叶ったことを、さも神様が語っているかのように、預言し、活動しているからです。そのような状況にあって、あの旧約の預言者エレミヤは、様神の御言葉を伝える重圧に苦しめられ、神様にそのことを訴えたほどです。

人々からの賞賛、また主よ主よと、神様からも賞賛を受けたいという思いがあります。彼らは実に積極的に行動していたのでしょう。熱心だったわけです。そういう思いは私たちにもあります。偽預言者と大差ない姿が誰しにもあり、その姿をもってして、私たちは神様のみ前に立たされているのです。

そして、主イエスは偽預言者の正体は貪欲な狼、滅びをもたらす者だと主イエスは言います。そして天の父の御心を行う者だけが天の国に入ることができると言われました。人々の観点からではなく、神様の観点から、天の父の御心を行う者こそが天の国に入ると言われるのです。

天の父の御心、それはどういったことを指し、誰を指すのでしょうか。この御言葉を聞いて、ひとつの聖句が示されました。ヨハネ福音書3章16節から17節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」神様は、一人ひとりを愛される、罪にまみれたこの世を、律法を守れない私たちを愛するために、愛する御子をこの世に送られたということ、この御子によって私たちが救われるというメッセージを私たちに告げています。この神様の御心は、ご自身の愛する御子によって、顕されています。ですから、この神様の御心を行う者こそが、愛する御子である主イエスキリストなのです。そしてこの神様の御心、すなわち天の父の御心を行う者のご生涯は十字架へと結びつけられています。この十字架にかかるのは、偽預言者でもなく、また私たちでもないのです。天の父の御心を行う者なのです。この十字架によって、律法を守ることができない私たちの罪が赦され、救われるために、主は御心を成し遂げられる、いやこの御子の全生涯そのものが天の父の御心を行う者として、今この山の上で神の御言葉を語っておられるのです。私たちが守れない律法、だからこそ、この律法の完成者として、天の父の御心を行う者として、今主イエスは、この山の上で、それこそ十字架への途上に立っているということなのです。

ですから、「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」私たち自身の行いによって、天の国に入るということが言われているのではなく、父の御心を行うこのキリストと共に歩む、キリストと結びつくということにおいて、天の国はそこにあるのです。天の国に招かれているのです。

そこで24節からの譬え話ですが、指して難しい内容ではないかと思います。パレスチナでは水が貴重なものでしたから、家を建てる場所として、川のほとりに建てることがありました。そこで一旦雨期が訪れると、ものすごい洪水となります。ここで主イエスは、御言葉を聞いて行う賢い人は岩を土台として、川のほとりに家を建てますが、御言葉を聞くだけで行わない愚かな者は砂の上に、土台もなしに家を建てると言います。そこに荒れ狂う洪水、嵐が襲い掛かったとき、同じ家でも、土台の違いによって、倒れる家、倒れない家があるのです。

しかし、たとえ岩を土台とした家も、嵐によって揺さぶられるのです。損傷は免れないでしょう。不安に駆られ、苦難を経験しなくてはなりません。強い風、嵐、洪水に揺さぶられる家の有様は、私たちの人生の歩みを示しているように思えてなりません。様々な社会の荒波、生活の荒波、または世界の恐慌に揺さぶられ、時には挫折し、絶望に苛まれます。私たちの歩みはこの揺さぶりの中にあると言っていいかもしれません。岩の上にあるからと言って、絶対的な安全が、平和が約束されているのではないのです。揺さぶられ続けるのです。今まさに、私たちの歩みはこの揺さぶりの中にあると言っていいかもしれません。けれど、岩を土台とした家は倒れないのです。御言葉を聞いて行う賢い人がそのようにすると言われていますが、それは天の父の御心を行うものであります。主イエスが辿る生涯をかけての、私たちの救いのための御心です。私たちが御言葉を聞いて行うということは、私たち自身の行いによる行為ではなく、この主イエスが行う天の父の御心を行う者を土台とするということなのです。この方は岩となって、揺さぶられる私たちを根底から支えてくださるのです。目の前で起こっている惨事に目をつぶりたくなるほどに、私たちの平和は脅かされていますが、父の御心を行う者、主イエスが根底から支えてくださる岩の上に立っている家、私たちの人生は、根底からの主の平和にあるのです。

御言葉を聞いて行うということ、それこそ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行うということでもありますが、これは真に父なる神様の御心を成し遂げて下さり、私たちを根底から支えてくださる主イエスへの信頼からくるものなのなのです。主イエスは天の父の御心を行う律法の完成者です。ご自身のご生涯を通して、私たちにそのことが示されました。主イエスと共にあって、御言葉に生かされてまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。