カテゴリー Archives: 説教

2019年12月29日 降誕節第1主日の説教 「神の憐れみに覆われて」

「神の憐れみに覆われて」 マタイによる福音書2章13~23節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 2019年最後の主日を迎えました。この一年間の歩みも神様のお恵みとお導きの中にあったことを感謝します。世間はお正月の準備で忙しさの中にありますが、教会の暦では降誕節と言われ、1月6日の主イエスキリストの顕現日までがクリスマスであります。ですから、まだクリスマスは終わっていませんので、クリスマスの飾りつけもまだ片付けないのです。2019年最後の歳末礼拝からクリスマス物語の福音を聖書から聞いてまいりたいと思います。
 
 ヘロデ大王による幼児虐殺事件が記されているクリスマス物語から御言葉を聞きました。クリスマスを喜びの内に迎えた私たちに驚きと戸惑いを覚える内容かと思います。ここにはクリスマスの喜びとは真逆に、現実の人間の悲しみや苦しみ、暗さ、闇深さが際立つ出来事が記されています。しかし、主イエスが飼い葉おけというみすぼらしい所にご降誕されたこと自体が、クリスマスの意味を明確にしているのです。クリスマス、主イエスがご降誕されたところは、私たちの悲しみ、苦しみ、嘆きの只中であり、そのことは主イエスのご生涯の目的、十字架の出来事へと結ぶついている出来事だと言えます。それは、天使がヨセフに告げた「この子は自分の民を罪から救う」(マタイ1:21)という福音のメッセージが明らかになることなのです。
 
 それで、この幼児虐殺事件ですが、イブ礼拝の時に、ルカによる福音書に記されている皇帝アウグストゥスによる大規模な住民登録が、具体的な歴史的根拠がないと学説では言われていると言いましたが、このヘロデ大王における、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。」出来事も、具体的な歴史的根拠はないとされているようです。ただ、このヘロデ大王は、そのような大虐殺に近い政争を行ってまで、自分の地位を守ろうとした支配者像が記録されているそうです。
 
 ヘロデ大王はローマ帝国にうまく取り入って、パレスチナ全域の支配権を認めてもらった当時のユダヤの王でした。彼が成し遂げた大きな功績と言えば、エルサレムにある神殿を大規模に改装して、豪華絢爛なものに仕上げたということでしょう。しかし、それはユダヤ民の信仰生活に貢献したということではなく、自らの権力の繁栄と安泰を願った象徴的なものでした。また彼は、自分の地位を守ろうとするために、政敵を排除し、そのためには身内をも次々に手をかけていきました。自分の妻や3人の子供たちも殺害したと言われている王様でした。都合の悪い邪魔者は容赦なく消していくのです。
 
 主イエスの誕生は彼の地位を脅かす存在として映ったのでしょう。彼は自分にとって代わる救い主の誕生を恐れ、救い主誕生の知らせを3人の博士たちから聞いた後に、ひそかに排除しようと目論んでいました。しかし、博士たちがヘロデにそのことを知らせなかったので、彼は怒り、確実に主イエスを消すために、幼児大虐殺の命令を下してまでも、自分の地位を守ろうとしたのかしれません。ですから、ヘロデはただ残酷な人間というだけでなく、内心は自分の身を守るにはどうすればよいか、不安に不安を重ねた生き方をしていたのではないでしょうか。マタイの福音書はこの悲劇を敢えてここに記しました。
 
 そして、マタイ福音書はヘロデ王による幼児虐殺事件を、17節から18節に記されている、預言者エレミヤの言葉と重ねました。もう一度お読みします。「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き/慰めてもらおうともしない/子供たちがもういないから。」ラケルとはアブラハムの孫のヤコブの妻の一人です。彼女はヤコブより先に亡くなり、ラマの地に葬られました。ベツレヘムがこのラマの地ではなかったのではないかという学説もあります。エレミヤは主イエスより600年も前に活動した預言者でした。当時イスラエルは北と南の2つの王国に分裂していて、この時代に南のユダ王国はバビロニアという外国に攻め滅ぼされてしまいます。その際、多くのユダヤ人、イスラエルの民がバビロニアに奴隷として連れて行かれてしまいました。いわゆる「バビロン捕囚」と言われる出来事です。バビロニアに連れて行かれる時の通過点がラマでした。もう故郷には帰ってこられないイスラエルの子孫たちの姿を、墓の中から先祖のラケルが嘆き悲しんでいると、エレミヤは言うのです。もう子供達、子孫は戻ってこないのだから、慰めてもらっても仕方ない、慰めすら拒否をするという真に深い嘆きであります。このラケルの慰めすら届かない深い嘆きを、マタイはここに記しました。
 
 怒りと自己弁護に執着する権力者と、小さきものの深い嘆きの只中に主イエスはお生まれになり、この只中をヨセフに背負われて、移動し、ナザレでお育ちになり、宣教へと旅立たれていくのです。このヨセフも主イエスをおぶって、苦難の只中を歩まれました。いつ見つかって殺されてしまうか、おかしくない状況でした。ヨセフを導いたのは、天使のお告げであり、神様のみ言葉でした。主イエスもただヨセフに背負われているだけなのです。二人を導いたのは神のみ言葉のみでした。
 
 幼児大虐殺の悲劇、権力者の前で、幼子イエスは無力です。しかし、それはこの世の力の前に力で対抗していくことではなく、この後、主イエスは人々と出会い、人々の苦難を、嘆きをご自分の苦難と嘆きとして担われ、最後は十字架にかかって殺されることに結びつけられているのです。今日の第一日課のイザヤ書63章8節から9節にはこう記されています。「主は言われた/彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。そして主は彼らの救い主となられた。彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった。彼らとは直接にはイスラエルの民を指しますが、それはまたヨセフであり、また現代に生きる私たち一人ひとり、そして現実におこる嘆きや苦難そのものである言えるでしょう。救い主はその現実から遠ざけると言うのではなく、それらを負い、担ってくださる方であると言うのです。マタイ福音書は幼児大虐殺と慰めすら届かない深い嘆きという現実の闇を描いています。そんな現実の闇の只中に、闇の中で光り輝くように、この現実の闇を背負われ、共に生きて歩んでくださる救い主イエスの姿を記すのです。
 
 さらに、このマタイ福音書には、インマヌエルという言葉が最初と終わりに出てきます。「神は我々と共におられる」という意味の言葉です。ヨセフに告げられた天使の言葉と、復活の主イエスが弟子たちを宣教へと遣わされていく時に、世の終わりまで共にいると約束された言葉でした。主イエスは現実の苦難と嘆きを背負って、十字架に殺されて終わったのではなく、その先にある復活の命を明らかにされ、神はこの時にも生きて働いているおられるということを明らかにされたのです。
 
 だから、嘆きは嘆きのままに、苦難は苦難のままで終わらないのです。パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰ15章55節から58節でこう言います。「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しようわたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」
 
 主に結ばれる、それは主と共にあるということです。クリスマスは神と人とが結ばれる喜びの物語なのです。そのために主イエスが、インマヌエル「神は我々と共におられる」救い主として、私たちの只中に宿られ、幼子として、この世の中に、慰めなど見いだせないような現実の嘆きと苦難の只中に来てくださいました。
 
 クリスマスの挨拶言葉として、私たちはメリークリスマスと言います。メリーとは古いアングロサクソン語から来ている言葉で、「傑出した」、「強力な」、「勇敢な」という意味の言葉だと言われています。強力な現実の苦難、嘆きがあります。マタイ福音書はこの厳しさをこのクリスマス物語を通して、私たちに伝えています。けれど、尚この強力な厳しさにも勝る神の救いの恵みと祝福を尚、マタイは描くのです。この幼子イエスの中に。その厳しさ、現実から逃れる救いではなく、この方こそが共に負われ、共に担ってくださる私たちの救い主であるということを。どんな嘆きや苦難の中にあっても、決して私たちを見捨てない神の愛と憐れみに私たちの人生は覆われているのだということを。私たちの現実の只中に、神の救いは主イエスを通して介入しているのです。その真実への信頼の内に、私たちはメリークリスマスと挨拶することができるのです。悲しみのクリスマス物語の只中にあって、主イエスは私たちと共におられ、共に担われ、負われ、歩んでくださる幸いを私たちに伝えています。新しい年を、そのような喜びと希望をもって、主イエスキリストに全てを委ねて共に歩みながら、迎えてまいりたいと願います。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年12月22日 降誕祭礼拝の説教 「光と共に」

「光と共に」ヨハネによる福音書1章1~14節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 皆様、クリスマスおめでとうございます。新しい元号である令和初のクリスマスを共に迎えることができたことを感謝いたします。新しい時代の幕開けとなりますこの時に、クリスマスの喜びと恵みを共に聖書の言葉、神様の言葉から聞いて、受け止めてまいりたいと願います。
 
 クリスマスは冬至の季節、すなわち一年間で最も夜の長い日に迎えます。ですから、クリスマスは暗さ、闇が最も極まる時でもあるのです。その極まった深い闇に、すべての人を照らす真の光である救い主イエスキリストが来られ、この光は暗闇の中で輝くのです。
 
 さて、今日の福音書の冒頭にはこう書いてあります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」「言」が繰り返されています。言から始まり、言葉の内に命、光があります。そして、1節に「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とあるように、言は神であると言います。だから、神の言によってすべての命が造られ、すべての命を愛し、育む、神様の慈しみと憐れみに覆われた光が照らされているのです。
 
 言葉とはヘブル語で「ダーバール」と言い、そのダーバールには他に「出来事、事柄、行為」という意味もあります。言葉はただ発するだけでなく、出来事となる。だから、神の言葉とは、言ってみれば行動する神ご自身でもあるということです。この言葉によって万物が造られ、私たち人の命が造られた。造った者と、造られた者との結びつきを表しているのが、言葉なのです。
 
 旧約聖書の詩篇119編105節に、こういう言葉があります。「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」わたしの人生の歩み、道、その道案内と言いましょうか、ナビと言いましょうか、それは神様、あなたの言葉そのものですと言われるのです。わたしの歩みは楽しく、喜びに満ちているから光が照らされているのではなく、わたしの人生の全ての出来事の中に、あなたの言葉が及ばないところはない。あなたの言葉が照らすことができない闇などないと言わんばかりに、この作者はこのように告白するのです。この光がどのような私の人生の歩みも照らす共にある光であって、必ず目的地へと導き、自分を支えてくれる約束の光なのです。今日の福音書の9節で「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」とあるように、世とは私たちの生きるこの地上の世界、私たちひとりひとりの歩みの只中と言えます。その中に来て、すべての人、ひとりひとりを照らし、この光からもれる者はないのだと言うのです。神のみ言葉は私たちの歩みの光、私たちの歩み、人生そのものが光であると言わんばかりに、この光は私たちと共にあるのです。
 
 神の言葉の光について、14節ではこのように言われています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」肉というのは、弱さやもろさを意味します。限りあるものです。それは現実に生きる人を意味します。言は肉となった。神様の出来事は肉において成ったのです。それは、神が人となったという出来事であり、クリスマスの本当の意味、クリスマスの出来事なのです。神がもろく、弱く、小さく、限りある人となった出来事。だから「わたしたちの間に宿られた。」と言うのです。私たちから遠く離れた別次元の世界で、人となったのではなく、私たちと同じ現実の歩みの中にある一人の人として宿られ、この世界にお生まれになったというのです。この肉となられた方がすべての人を照らす光、私たちと共におられるイエスキリストなのです。
 
 この神様が顕された栄光を私たちは見ている。目撃者であると言います。その栄光は恵みと真理とに満ちていた。と言います。言葉が肉となって、肉なる世界全体に恵みと真理とが満ち満ちている。すべての中に、肉なる方、主イエスによって真理と恵みに満たされている。私たちひとりひとりの歩み、命はその中にあって、ちゃんと養われているのです。「あなたの御言葉は、わたしの道の光」。主イエスがわたしの道の光であり、命の道しるべです。主イエスご自身が「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)方なのです。
 
 さらに、マタイによる福音書で主イエスは言われます。「あなたがたは世の光である」(5:14)と。自分たちもその光を輝かせていく大切な存在であるとまで言われるのです。ですから、私たちはこの人となられた光にただあやかるだけでなく、この光を受け取って、光と共に生きていくものとされているのです。
 
 光は言から造られ、言は肉となった。そこに恵みと真理が満ちています。私たちと同じ人となられ、飼い葉桶にお生まれになられたイエスキリストが今日私たちに与えられ、すべての人を照らす光としてもたらされました。この光を心に灯して、クリスマスからのまた新しい一歩、令和の新しい時代を共に歩んでまいりましょう。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年12月15日 待降節第3主日の説教 「見出される希望」

「見出される希望」マタイによる福音書11章2~11節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 アドベントクランツの3つ目のロウソクに火が灯り、待降節の第3主日を迎えました。クリスマスの喜びが間近に迫っております。改訂聖書日課に従い、今日の福音書の箇所も変わっておりまして、マタイによる福音書11章2節~11節から、先週に引き続いて、洗礼者ヨハネの物語から御言葉を聞きました。
 
 洗礼者ヨハネは、荒野という作物があまり育たない人里離れた寂しい場所で、神様の言葉を宣べ伝える預言者であり、伝道者でした。その荒野で、禁欲的な生活をし、神様との交わり、歩みに集中するために、障害となるものを取り除く生活をしていました。彼の教えは非常に厳しいものでした。人の罪深さ故に、神様の裁きは差し迫っているから、今こそ悔い改めて、神様の方に向きを変えなさい。あなたがたの生き方、生き様について、自分中心の生き方ではなく、神中心の生き方に方向転換しなさいとヨハネは人々に神様の言葉を叫び、宣べ伝えました。宗教指導者たちに対しても容赦はしませんでした。自分たちの宗教的熱心さに陶酔し、神様の御心、正しさではなく、その熱心さ故の自分の正しさ、信仰深さばかりを追い求める彼らを糾弾しました。さらには、時の権力者であるヘロデ王に対しても、躊躇することなく、彼の罪を指摘しました。彼は自分の弟の妻を自分の妻とする罪を犯し、そのことをヨハネは指摘し、糾弾したのです。その結果、ヨハネはヘロデによって捕らえられ、地下牢に幽閉の身となってしまいました。ヨハネは牢獄で、自分の身に起こった理不尽さを嘆いたのではなく、ヘロデの罪が勝利し、己の権力を行使して、人々の生活を圧迫させ、恐怖と不安に陥れていた罪の現実を嘆いていたのでしょう。このヘロデの罪に対する神様の御業を、裁きの御業がもたらされることを望んでいました。その御業をもたらす救い主を彼はずっと待ち望み、そして、主イエスの中に、その救いの御業を見出し、希望を見出したのです。主イエスはヨハネが捕らえられた時期に、伝道の旅を始められました。その出来事をヨハネの弟子たちを通して、逐一聞いていたのでしょう。
 
 ヨハネは主イエスの活動、出来事を全てキリスト、すなわち救い主のなさったこととして理解していました。神の言葉を伝え、病人を癒し、悪霊を追い出し、奇跡を起こし、人々と寄り添い、人々の現実世界に踏み込まれて共に歩むようにして、主イエスは伝道活動をしていました。しかし、主イエスは人々の罪に差し迫っている神様の裁きについては、触れることがありませんでした。その裁きを起こそうとされる気配もありませんでした。自身の罪故に、ヨハネを捕らえ、人々を圧迫しているヘロデ政権が打ち倒されようとされる気配が全くないのです。神様の下に立ち返ろうとしないヘロデに、キリストは神様の裁きを下し、キリストによって神様の正しさが真理となって顕になることをヨハネは信じていたのです。主イエスはそういうキリスト、救い主ではないのかと。
 
 それで、彼は遂に弟子たちを派遣して、本人に直接訪ねることにしました。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」この言葉にはヨハネの疑いとも失望ともとれる気持ちが伝わってくるかもしれません。来るべき方、何が来るかと言うと、神様の正しさ、神様の真理です。その正しさ、真理が、キリストである主イエス、あなたそのものに現わされている。あなたの伝道活動、あなたの生き方、歩みそのものが神様の正しさ、真理ではないのか。故に、あなたこそが真に私たちの来るべき方ではないのですか。ヨハネの中には疑いや失望もあったかもしれませんが、この言葉の中には彼の真剣な思いが込められています。違うのであれば、尚、他の方を待ちづける必要があるのでしょうか。これも真剣な問いです。
 
 主イエスはヨハネの弟子たちに答えました。その答えは、主イエス自身に向けたものではなく、あなたがたが見聞きしていることであると。主イエスは言われます。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」これが、あなたがたの只中に来られた来るべき方の徴。神様の真理であると。もしかしたら、ヨハネの弟子たちはこの方々にお会いしたのかもしれません。来るべき方がどういう方であるかということを、この方々を通して顕にされているのだと。
 
 先週の聖書を分かち合う会では、詩編145編を読みました。145編はユダヤの民たちが日常の祈りとして、とても大切にし、常に祈られていた詩編ではないかと。またキリスト教でいう主の祈りに近いものであると解説いたしました。この145編の8節と9節にはこう記されています。「主は恵みに富み、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに満ちておられます。主はすべてのものに恵みを与え/造られたすべてのものを憐れんでくださいます。」ここにはユダヤ人と異邦人の区別はありません。神様に造られたすべての人、私たちひとりひとりを憐れんでくださっている主のお姿が、神様の真理があるのです。そして、神様は罪故に私たちを裁いて滅ぼす方ではなく、忍耐して、慈しむ方であるとのことなのです。神様が忍耐されるのです。このことは、ヨハネの理解を越えています。そして、私たちの正しさ、期待をも超えています。私たちの不平不満を聞いて、私たちの正しさに立ち、私たちの期待通りに神様は御業を行う方ではないのです。
 
 忍耐され、すべての人を慈しみ、憐れみをもってして、私たちを愛し、養ってくださる方が神様であり、来るべき救い主なのです。私たちの罪、小ささ、弱さ、病、欠けているところ、そのひとつひとつを排除して、完璧な人にされるのではなく、それらに憐れみをもってして接してくださり、癒し、心を満たして、立ち上がらせてくださり、共に歩んでくださる方なのです。来るべき方がもたらす神様の御業、真理は、私たち一人ひとりが主の目に値高く、かけがえのない大切な存在であると言うことです。そのために、神様は惜しみなく、私たちに与えてくださる方であり、満たしてくださる方なのです。貧しい人は福音を告げ知らされている。福音とはグッドニュース、喜びの知らせです。ある人は解放の知らせとも言いました。囚われているところからの解放の喜びです。私たちの叫び声、飢え渇き、心の闇の只中に来られ、ひとりひとりを慈しみ、憐れまれて愛することを止めませんでした。止まることなく、躊躇することなく、また上から押し付けて裁くためではなく、惜しみなく、私たちを愛しぬくために、来るべき方は来てくださるのです。
 
 行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。このことはヨハネに、そして私たちに告げられています。私たちも見聞きしていることを伝えていくのです。主の慈しみと憐れみに満たされている自分自身の救いの体験を伝えていく。何か難しい教理を解説することではなく、私の人生の只中に来られ、共に生きて歩まれ、喜びも悲しみも共に担ってくださる主イエスキリストの福音を伝えていくのです。だから、教会の伝道は、私たちの救いの体験そのものなのです。先日Kさんと話しをしていた時に、Kさんが伝道とは生き様であるとおっしゃっていたことが印象に残っています。本当にそうだと思います。何か活発なことをしたりすることではなく、根本は私と神様との関係におけるひとつのひとつの出来事によるものなのです。
 
 「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、」。私たちが待ち望む救い主は私たちに喜びと解放をもたらしてくださる方です。私の思いや期待を越えて、主の憐れみは深く、恵みに富んでおられます。その来るべき方を、私たちのためにキリスト、救い主となってくださった方を、喜びをもってして迎えたいと願います。ヨハネによる福音書にはこう記されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネによる福音書3章16~17節)裁くためではなく、一人一人を愛するために。これが神様の真理、私たちを立ちこしてくださる来るべき方がもたらしてくださる希望の光なのです。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。