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2019年12月15日 待降節第3主日の説教 「見出される希望」

「見出される希望」マタイによる福音書11章2~11節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 アドベントクランツの3つ目のロウソクに火が灯り、待降節の第3主日を迎えました。クリスマスの喜びが間近に迫っております。改訂聖書日課に従い、今日の福音書の箇所も変わっておりまして、マタイによる福音書11章2節~11節から、先週に引き続いて、洗礼者ヨハネの物語から御言葉を聞きました。
 
 洗礼者ヨハネは、荒野という作物があまり育たない人里離れた寂しい場所で、神様の言葉を宣べ伝える預言者であり、伝道者でした。その荒野で、禁欲的な生活をし、神様との交わり、歩みに集中するために、障害となるものを取り除く生活をしていました。彼の教えは非常に厳しいものでした。人の罪深さ故に、神様の裁きは差し迫っているから、今こそ悔い改めて、神様の方に向きを変えなさい。あなたがたの生き方、生き様について、自分中心の生き方ではなく、神中心の生き方に方向転換しなさいとヨハネは人々に神様の言葉を叫び、宣べ伝えました。宗教指導者たちに対しても容赦はしませんでした。自分たちの宗教的熱心さに陶酔し、神様の御心、正しさではなく、その熱心さ故の自分の正しさ、信仰深さばかりを追い求める彼らを糾弾しました。さらには、時の権力者であるヘロデ王に対しても、躊躇することなく、彼の罪を指摘しました。彼は自分の弟の妻を自分の妻とする罪を犯し、そのことをヨハネは指摘し、糾弾したのです。その結果、ヨハネはヘロデによって捕らえられ、地下牢に幽閉の身となってしまいました。ヨハネは牢獄で、自分の身に起こった理不尽さを嘆いたのではなく、ヘロデの罪が勝利し、己の権力を行使して、人々の生活を圧迫させ、恐怖と不安に陥れていた罪の現実を嘆いていたのでしょう。このヘロデの罪に対する神様の御業を、裁きの御業がもたらされることを望んでいました。その御業をもたらす救い主を彼はずっと待ち望み、そして、主イエスの中に、その救いの御業を見出し、希望を見出したのです。主イエスはヨハネが捕らえられた時期に、伝道の旅を始められました。その出来事をヨハネの弟子たちを通して、逐一聞いていたのでしょう。
 
 ヨハネは主イエスの活動、出来事を全てキリスト、すなわち救い主のなさったこととして理解していました。神の言葉を伝え、病人を癒し、悪霊を追い出し、奇跡を起こし、人々と寄り添い、人々の現実世界に踏み込まれて共に歩むようにして、主イエスは伝道活動をしていました。しかし、主イエスは人々の罪に差し迫っている神様の裁きについては、触れることがありませんでした。その裁きを起こそうとされる気配もありませんでした。自身の罪故に、ヨハネを捕らえ、人々を圧迫しているヘロデ政権が打ち倒されようとされる気配が全くないのです。神様の下に立ち返ろうとしないヘロデに、キリストは神様の裁きを下し、キリストによって神様の正しさが真理となって顕になることをヨハネは信じていたのです。主イエスはそういうキリスト、救い主ではないのかと。
 
 それで、彼は遂に弟子たちを派遣して、本人に直接訪ねることにしました。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」この言葉にはヨハネの疑いとも失望ともとれる気持ちが伝わってくるかもしれません。来るべき方、何が来るかと言うと、神様の正しさ、神様の真理です。その正しさ、真理が、キリストである主イエス、あなたそのものに現わされている。あなたの伝道活動、あなたの生き方、歩みそのものが神様の正しさ、真理ではないのか。故に、あなたこそが真に私たちの来るべき方ではないのですか。ヨハネの中には疑いや失望もあったかもしれませんが、この言葉の中には彼の真剣な思いが込められています。違うのであれば、尚、他の方を待ちづける必要があるのでしょうか。これも真剣な問いです。
 
 主イエスはヨハネの弟子たちに答えました。その答えは、主イエス自身に向けたものではなく、あなたがたが見聞きしていることであると。主イエスは言われます。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」これが、あなたがたの只中に来られた来るべき方の徴。神様の真理であると。もしかしたら、ヨハネの弟子たちはこの方々にお会いしたのかもしれません。来るべき方がどういう方であるかということを、この方々を通して顕にされているのだと。
 
 先週の聖書を分かち合う会では、詩編145編を読みました。145編はユダヤの民たちが日常の祈りとして、とても大切にし、常に祈られていた詩編ではないかと。またキリスト教でいう主の祈りに近いものであると解説いたしました。この145編の8節と9節にはこう記されています。「主は恵みに富み、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに満ちておられます。主はすべてのものに恵みを与え/造られたすべてのものを憐れんでくださいます。」ここにはユダヤ人と異邦人の区別はありません。神様に造られたすべての人、私たちひとりひとりを憐れんでくださっている主のお姿が、神様の真理があるのです。そして、神様は罪故に私たちを裁いて滅ぼす方ではなく、忍耐して、慈しむ方であるとのことなのです。神様が忍耐されるのです。このことは、ヨハネの理解を越えています。そして、私たちの正しさ、期待をも超えています。私たちの不平不満を聞いて、私たちの正しさに立ち、私たちの期待通りに神様は御業を行う方ではないのです。
 
 忍耐され、すべての人を慈しみ、憐れみをもってして、私たちを愛し、養ってくださる方が神様であり、来るべき救い主なのです。私たちの罪、小ささ、弱さ、病、欠けているところ、そのひとつひとつを排除して、完璧な人にされるのではなく、それらに憐れみをもってして接してくださり、癒し、心を満たして、立ち上がらせてくださり、共に歩んでくださる方なのです。来るべき方がもたらす神様の御業、真理は、私たち一人ひとりが主の目に値高く、かけがえのない大切な存在であると言うことです。そのために、神様は惜しみなく、私たちに与えてくださる方であり、満たしてくださる方なのです。貧しい人は福音を告げ知らされている。福音とはグッドニュース、喜びの知らせです。ある人は解放の知らせとも言いました。囚われているところからの解放の喜びです。私たちの叫び声、飢え渇き、心の闇の只中に来られ、ひとりひとりを慈しみ、憐れまれて愛することを止めませんでした。止まることなく、躊躇することなく、また上から押し付けて裁くためではなく、惜しみなく、私たちを愛しぬくために、来るべき方は来てくださるのです。
 
 行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。このことはヨハネに、そして私たちに告げられています。私たちも見聞きしていることを伝えていくのです。主の慈しみと憐れみに満たされている自分自身の救いの体験を伝えていく。何か難しい教理を解説することではなく、私の人生の只中に来られ、共に生きて歩まれ、喜びも悲しみも共に担ってくださる主イエスキリストの福音を伝えていくのです。だから、教会の伝道は、私たちの救いの体験そのものなのです。先日Kさんと話しをしていた時に、Kさんが伝道とは生き様であるとおっしゃっていたことが印象に残っています。本当にそうだと思います。何か活発なことをしたりすることではなく、根本は私と神様との関係におけるひとつのひとつの出来事によるものなのです。
 
 「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、」。私たちが待ち望む救い主は私たちに喜びと解放をもたらしてくださる方です。私の思いや期待を越えて、主の憐れみは深く、恵みに富んでおられます。その来るべき方を、私たちのためにキリスト、救い主となってくださった方を、喜びをもってして迎えたいと願います。ヨハネによる福音書にはこう記されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネによる福音書3章16~17節)裁くためではなく、一人一人を愛するために。これが神様の真理、私たちを立ちこしてくださる来るべき方がもたらしてくださる希望の光なのです。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年12月8日 待降節第2主日礼拝の説教 「共に喜ぶために」

「共に喜ぶために」マタイによる福音書3章1~12節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 待降節第2主日の礼拝を迎え、アドベントクランツに二つ目の火が灯されました。先週も言いましたが、アドベントとは「到来する、近づく」という意味です。今日の日課、洗礼者ヨハネの記事の冒頭でも「悔い改めよ、天の国は近づいた」とありますように、「近づく」という聖書のメッセージが記されています。ヨハネは天の国、すなわち神の国が近づいたと言うのです。天の国とはこの世の特定の時や場所を指すものではなく、神様のご支配、ご意志、その御心を指し示します。
 
 さて、ヨハネは天の国が近づいた、だからもう安心だ、大丈夫だとは言いません。まず冒頭に、「悔い改めよ」と言いました。「悔い改め」とは、反省するということではなく、向きを全く変えて、「方向転換」するということです。神様の方に方向転換する、すなわち神様に立ち返るということであります。自分の所業を反省するとか、悪い習慣を改善していくという自分自身の出来事ではなく、自分の存在そのものを神様に向けていくということ、生き方そのものが変えられていく、180度思いが変えられていくということです。
 
 そして、ヨハネの一連の宣教活動は悔い改めに導くために、水で洗礼を授けることでした。実は、この洗礼の行為は、ヨハネが最初に始めたことではなく、既にユダヤ教の中でも行われていました。洗礼を受ける対象は、ユダヤ人ではない、ユダヤ教への改宗を望む異邦人でした。ユダヤの神を真に信じる信仰告白の行為として、洗礼が授けられ、神の民となるために、水で清められる必要がありました。ユダヤ人の信仰の父(祖先)と呼ばれるアブラハムの子孫であるユダヤ人たちは、既に神の民であるから、洗礼を受ける必要はなく、神様の恵みと祝福に与っている民であるという自覚がありました。
 
 しかしヨハネは、この洗礼の意義をそのようには考えませんでした。血筋における神の民であるかどうかということによって、洗礼を受ける必要があるか、ないかということを洗礼の本質とは受け止めなかったのです。そういう物差しではかったのではなく、ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、悔い改めること、すなわち神様のもとに立ち返ることが大切であると説いたのです。この悔い改めの洗礼を受ける資格は全ての人にあったのです。
 
 このヨハネの叫び声を聞いて、パレスチナとユダヤ全土、ヨルダン川の地方一帯という広範囲における人々がヨハネのもとに来て、罪を告白して悔い改め、洗礼を受けました。その中には、ファリサイ派やサドカイ派というユダヤの宗教指導者たちもいました。彼らもまた、人々の模範として、神様の律法を忠実に守り、宣教して人々を導き、神様の恵みに生きようと一生懸命な人たちでした。神様の掟から曲がることなく生きようと熱心でした。彼らも神様のもとに常に立ち返ること、悔い改めの大切さを知っていたのです。ヨハネの運動に共鳴して、彼のもとを訪ねて、洗礼を受けようとしたのでしょう。
 
 しかし、ヨハネは彼らにこう言います。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。(7―9節)非常に厳しい言葉を投げかけました。自分たちは神様から選ばれた神の民イスラエルの民であり、神様の怒りからは遠く免れている。アブラハムという信仰の父を祖先に持つのだから、自分たちは神様から近い、救われるに値する者だと自負していた。その彼らが、洗礼を受ければ神の怒りから免れると思っていたのかもしれません。
 
 また、「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」と言います。アブラハムの子孫、血筋と言うことに拘るのではく、アブラハムのような信仰の父にあなたがたもなりなさいとは言いません。目に見える血筋が重要なのではなく、ヨハネは神様との関係について、その辺の石に目を向けさせるのです。石からでも造り出せる。アブラハムはもちろん、誰でも造ることができる。その「創造主」である命の神と、造られたあなたがた被造物との関係ということに目を向けさせるのです。アブラハムや彼の血筋は関係ない。そういう関係よりも、神様と自分との直接的な関係です。神様と一人一人との関係です。関係する神、交わる神が証しされている。関係する、交わるということは、時間的、場所的な有限性というものはないのです。信仰の父、アブラハムの子孫であるイスラエルの民、選ばれた神の民ということは、それはもう救いが約束されていて、安全が約束されている、だから神様から自立していくということではない、絶えず神様との関係において、共に歩んでいく、その過程において、救いが示されている。だから絶えず神様の元に立ち返れとヨハネは言うのです。
 
 石ころからでも造られる命の神様によって、自分も造られ、生かされている。アブラハムの子孫であろうとなかろうと、自分は石ころのようなちっぽけな存在でしかないのかもしれない。しかし、信仰の父と呼ばれたアブラハムもまた、自分たちと変わりない石ころのようなちっぽけな存在だった。だから、こんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。アブラハムの血筋、子孫であるという事実が神様の恵みの中にある、救いの中にあるというのではなく、石ころのようなちっぽけさの中にも、神様の創造の御業が現されている。一人一人が造られ、命を与えられ、愛されている大切な存在であるということ。ちっぽけでみすぼらしくても、神様が造られ、関わられ、愛してくださっているという真実こそが恵みであり、救いであるということなのです。悔い改めにふさわしい実、その実りは、命の神様との関係に生き、共に歩んでいくひとつひとつの出来事の中に示されています。何か良いことをした、成果を示したといういうことではなく、悔い改めて神様のもとに立ち返り、日々の歩み、日常の中における命の恵みを体現して生き、喜びと感謝をもって神様と共に生きていく姿の中に、悔い改めの実は豊かに実っているのです。
 
 ヨハネは続けて言います。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」神様の怒りは差し迫っていて、自分の水による悔い改めの洗礼が救いを保証することではないとヨハネは自覚します。そして、自分より後に来られる方を示し、その履物をお脱がせする値打ちもない。と、自分の洗礼よりも、真の洗礼を授けられる方が来られると言います。それは聖霊と火における洗礼であると。そのイメージを、実った麦は倉に入れられ、使い物にならない殻は火で焼き払われるように、神様の裁きというふるいにかけられる。使い物にならない殻、それは神様に悔い改めない罪人はその火で焼き払われる、そういう火の洗礼であると言うのです。しかし、ヨハネのイメージ、教えを越えて、この差し迫る神様の裁き、火で焼き払われるのは、私たちではなく、火で焼き払われかの如く、十字架の死を遂げたのは、後から来られる救い主イエスご自身に他ならないのです。そうして、神様との関係を回復されたのです。
 
 ヨハネは悔い改めの洗礼を通して、私たちを脅かしているのではなく、石ころからでもアブラハムの子孫を造ることができる命の神様との関係において、私たち一人一人が神様の愛と恵みの中に生き続けていることを教えています。そこには血筋とか、そういう条件は関係ないのです。私たちの人間的な価値云々ではなく、今この時も、神様は私たちを招いていてくださるということです。ヨハネが神の言葉を叫び続けた荒野という寂しい場所、作物がろくに実らない命の輝きが見いだせないような只中で、そこにこそ天の国が近づいたと、語りました。命の神様によって命与えられ、すべての人がその命の只中にあって豊かに生きることができるように、神様は私たちを招くために、天の国の方から近づいてこられたのです。その呼びかけに応答し、感謝して生きて歩んでいくところに、悔い改めの実が形となって現されています。その神様を知り、立ち返りなさい。立ち返って、その恵みの内に生きなさいとヨハネは叫びます。
 
 「悔い改めよ。天の国は近づいた」。ヨハネは悔い改めに導く洗礼を私たちに伝え、主イエスご自身は、十字架の死という自らの御身をもって、罪の贖いという救いの完成を実現されたのです。そのキリスト、その救い主こそが私たちが待ち望む主イエスであります。今この時を待つ私たちは、洗礼者ヨハネを通して神様に悔い改める時でもあるのです。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年12月1日 待降節第1主日の説教 「夜明け」

「夜明け」 マタイによる福音書24章36~44節 藤木 智広 牧師

 
 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 新しい教会暦を迎え、本日からクリスマスまでの4週間の期間をアドベントと言います。アドベントというのは、ラテン語で到来する、近づいてくるという意味の言葉です。到来するのは救い主イエスキリストであり、主イエスを待ち望み、お迎えすることがアドベントの意味です。このアドベントは英語のアドベンチャー(冒険)の語源になった言葉だと言われています。
 
 アドベンチャー、冒険と聞けば、まだ訪れたことのないところに行ってみたり、誰もやったことのないことに挑戦してみたりなど、自分から何か新しいことをしていくというイメージがあるかと思いますが、ある人はこう言います。「アドベンチャーとは、突然目の前に起こった予期せぬことを受け止め、自分自身を変革させること、その経験を通して新しい人間になることを意味していた。」と。自分の意志で何か新しいことに挑戦していく、していかないに関わらず、私たちの日常生活の只中においても、誰しもが突然目の前に起こることを体験し、戸惑うこともたくさんあるでしょう。様々な出来事を体験し、そのひとつひとつを受け止め、新しい自分にっていくことがアドベンチャーであると言います。ですから、私たちが主イエスを待ち望むこのアドベントという季節は、クリスマスの準備等で忙しく、楽しみに暮らしていく季節であるのと同時に、様々な突然の喜びや悲しみ、苦しみを体験する日常生活の中で、この主イエスこそが私たちを活かす神の言葉であり、必ず私たちのその様々な出来事の只中に来て下さり、私たちを恵み、導いてくださることに望みを置いて、歩んでいく季節なのです。ただ待つのではなく、望みをもってしてこの救い主を一人一人が心からお迎えしていくのが、このアドベントの時を歩んでいく私たちの姿なのです。
 
 さて、今日は最初のアドベントの主日です。聖書日課の改定に伴い、お聞きした福音書は、例年とは違う個所で、マタイによる福音書の24章冒頭から主イエスが語られている終末の徴です。私たちは先週の聖霊降臨後の最終主日の礼拝で、終末についてみ言葉を聞きました。終末の終わりという言葉は、目的、完成という意味の言葉で、様々な苦難や天変地異が起こっていく只中にあって、神様は私たちに向けて、その只中で神の愛が完成する終わりについて語られました。一連の終末の出来事は避けられませんが、髪の毛一本ですら失わせないという神様の愛の目的を私たちは聞きました。この神の愛に望みを置き、主に委ねて生きていく私たちに、神様は人の子である救い主を送ると約束してくださいます。
 
 では救い主はいったいどこに来るのか。今日の福音書の冒頭を読みますと、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」と主イエスは言われます。この終末の日はいつ来るか、主イエスですらわからないと言うのです。その日、その時とは一連の終末の出来事に他なりませんが、すぐ前の35節には、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」と主イエスは語っています。天地の滅び、それは神様がお造りになったこの世界であり、私たち一人一人です。私たちも有限なる存在であり、永遠ではありません。やがて死ぬ時がきます。その日、その時はわかりません。ずっと後のことなのか、もしかしたら明日のことかもしれません。わからないけれど、いずれは来る。しかし、神の言葉は滅びないと言われます。主イエスが荒野で悪魔から誘惑を受けられた時、主イエスは言われました。「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と。神の言葉と私たちが無関係ではないのです。むしろ、私たちの存在そのものがこの神のいのちの言葉によって成り立っている。そもそも、この天地だって、神様の創造の御業であり、私たちが自分たちで造ったものではないのです。今見に見えるものが全てではなく、見えなくても、私たちをちゃんと生かしてくださり、支えてくださる神の命の言葉は私たちにしっかり向けられているのです。滅びの時がくるのを天の父だけはご存じであるが故に、その滅びを貫いて生きていくための命の言葉を私たちに授けてくださっているのです。
 
 主イエスは「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。」と言われ、ノアの洪水が来た時に誰も築かなかったあり様と同じく、人の子が来るときも、このノアの洪水の時と同じであると言われるのです。「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。」とあるように、人々はいつもの日常の日々を送っていました。人々はノアの言葉を信じず、洪水なんてくるわけがないだろうと思っていたわけです。そんなこと信じられるわけがない。ノアは箱舟を作っているが、私たちは日常生活を送ろうではないか。そんな声が聞こえてきます。そして洪水に飲まれてしまいますが、彼らを愚かであると一方的に思うことができるでしょうか。人の子が来る場合も、このようであると言われる時、主イエスも人々から疑われるということにおいてノアの姿と重なりますが、さらには逮捕され、弟子たちからも見捨てられ、最後は十字架にかかって死んでしまうのです。
 
 しかし、主イエスご自身の死という滅びがただここで語られているわけではありません。滅びに備えて、食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりするなと言われているわけでもないのです。食べたり飲んだりというのは、天の父が備え、与えてくださる恵みです。空の鳥が蒔くことをしなくても天の父がその鳥を養ってくださるように、食べ物や飲み物は私たちの肉体を生かしてくださる父からの恵みであり、愛です。人はパンだけで生きるのではない。神の言葉によって生きる。神の言葉を聞くためにパンを捨てろと言っているのではないのです。そのパンを与えてくださる天の父に感謝の思いを向けて生きていくこと。その感謝の日々を忘れてはならないということです。
 
 それで主イエスは42節で「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」と言われます。主人は必ず帰ってくるから、目を覚ましていて迎えなさいと言われます。今日の第2日課のローマの信徒への手紙で、「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。12夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」とありました。夜明けは来ているのだと言います。主人である主イエスが来て下るという救いはもう近くまで来ている。それまでは夜の闇の世界の如く、不安や恐れが蔓延っているという姿が私たちにあります。先の見えない絶望は暗闇そのものです。その暗闇の只中に光はもう射し込んでいるのだと言われます。私たちが抱える日常の予期せぬ出来事の只中に、あたふたし、戸惑ってしまう私たちの姿を主はご存じです。故に、主イエスも私たちと同じ人となられて、私たちの日常の出来事ひとつひとつに関わられ、共に歩んでくださるために、私たちの闇を照らす曙の光として、既に近くまで来ているのです。
 
 だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。と聞きました。武具を身に着けるということは、そこに戦いがあるからです。単に闇を打ち砕く戦いというよりも、光を受け入れるための戦いであると言えるでしょう。だから、光の武具である主イエスを身にまといなさいと言われるのです。今日の福音書には強盗の姿が描かれていますが、私たちを脅かす闇の力が私たちの心と魂を蝕み、飢え渇きをもたらします。強盗はその象徴です。いつ、そのようなことが起こるかわからない、不安定な世の中を私たちは生きています。目を疑うような凄惨なニュースが連日流れ、他人ごとではない真実に目を向けさせられます。時に他者を思いやる心すら忘れてしまう私たちの心の焦り様、余裕の無さが垣間見えます。主イエスは私たちに光である神の武具を身につけなさいと言われました。光の武具である神の言葉、光を身に着けよと。光である主イエスを身に着けて、闇を知り、闇と向き合えと言います。思いもかけないことを受け止めて、そこにこそ照らされる神の光に希望を持ち、己の闇を照らしていくのです。主イエスを迎えて、照らしていくのです。そのようなアドベンチャーを体験するものとして、私たちはこれからのアドベントの季節を歩んでまいります。誰しもが冒険者として、それぞれの日常生活、人生の中で思わぬ出来事を体験するでしょう。その中で、目を覚ましていない。主イエスという光の武具を身に着け、神の言葉に聞き続けて生きていきないと。そして私たちもその光の武具を通して、主イエスの光を反射して、他者への思いやりの心を回復し、共に歩んでいくのです。主イエスの光を今度は私たちが、それぞれの賜物を持って、照らしていくのです。自分が目立つのではなく、他者の心に灯を灯すようにして、仕えて生きていくのです。必ず来てくださる主イエスの光を身にまとい、歩んでまいりましょう。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

福音書記者・使徒マタイの日

イエスの12使徒の一人であるマタイ(アルファイの子レビ)とマタイによる福音書の著者であるマタイは別人とされていますが、祝祭日は9月21日で統一されています。

使徒マタイは、マルコとルカによる福音書ではアルファイの子レビという名前で登場し、解釈の違いはありますが、マタイと同一人物だと言われています。彼はガリラヤの町カファルナウムの徴税人でした。当時イスラエルはローマ帝国に支配されていて、国民の税金はローマ帝国に搾取されていました。徴税人はローマ帝国の税金取立ての請負人であり、またローマ帝国に納める金額以上に、できるかぎりお金をしぼり集め、余分の金を自分のもうけとしていたと言われています。そのため、罪人と同じように人々から忌み嫌われ、交流を絶たれていました(マタイ9:10~13、21:31、ルカ18:9~14)。

ある日、収税所に座っているマタイを見かけたイエスは彼に「わたしに従いなさい」と声をかけました。すると、彼はすぐに立ち上がってイエスに従いました。その後、イエスはマタイを含む徴税人たちと食事を共にし、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言って、徴税人たちの友として彼らと交流をもち、神の愛を伝えました(マタイ9:9~13)。

イエスの昇天後、マタイは使徒たちと共に宣教して教会を支え、自身はペルシアやエチオピアに行って、宣教したと言われています。彼の聖遺物はサレルノ(現在のイタリア)に移され、教皇グレゴリウス7世は1084年にそこにマタイの教会を建てました。

記者のマタイの生涯はあまり知られていませんが、彼はギリシア語を話すユダヤ人であったと言われています。シリアに住み、そこでおよそ紀元75年から85年にかけて福音書を書いたとも言われています。