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2019年11月24日 聖霊降臨後最終主日の説教 「証しをする機会」

「証しをする機会」ルカによる福音書21章5~19節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 本日は聖霊降臨後の最終主日、教会の大晦日と言われる教会歴の最後の日です。来週からの待降節、アドベントから教会暦は新しく始まるのです。新しい暦、新しい時を迎える前に、終末、世の終わりについて今日の福音書から聞きました。いずれの出来事も、もはや私たち人間には手に負えないことばかりです。本当にそのようなことが起こるのかどうかもよくわかりません。また、聖書から聞かなくても、世の終わりについての教え、あらゆるものが崩壊するという教えは、聖書以外にもたくさんあります。様々な終末についての教えがある中で、聖書では、主イエスが気を付けないさいと警告しつつ、「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。」と、そのような慰めを語っておられます。終末が避けらない、故に終末の只中を生きていく私たちに、終末は全ての滅び、単なる終着点ではないということを語っておられるのです。
 
 終わりというのは、英語でENDと言い、このENDというのは「目的、成就、完成」という意味の言葉です。ただ終わるのではなく、目的があり、その目的が成就し、完成するという意味があるわけです。この終わりを通して、終わりの只中を生きていく私たちに、神様は滅びではなく、救い(の目的)を明らかにされていくのです。これが聖書における終わりを迎えることの本質なのです。
 
 主イエスが世の終わりについて語られたきっかけは、5節、6節で「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」ということでした。この神殿というのはエルサレムの神殿で、ユダヤ教の中心的な祭儀、礼拝が行われていたところです。多くの人々が巡礼に来て、賑わっていました。ローマ帝国の力を借りて、当時ユダヤを支配していたヘロデ大王が実に約46年もかけて、この神殿を豪華絢爛に造り変えたと言われています。「見事な石と奉納物で飾られている神殿に見とれるほど」に、その偉大さが伝わってきます。この神殿は権力の象徴だけに留まらず、ユダヤ人にとっても自分たちのアイデンティティーとも言える象徴、拠り所となっていた所でした。彼らにとっての目に見える確かなところ、信頼できるものであると言えるでしょう。
 
 彼らの言葉と思いに対して、主イエスは「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」とはっきり言われました。そして、終末の徴について語り始めたのです。今ある確かな目に見えるもの、それに頼って生きている彼らの姿は、現代の私たちの姿と変わりはないかと思います。むしろ、より目に見えて便利な世の中になっているので、それらがいずれは崩さってしまうなどと、想像することもできないでしょう。ただ、いずれは終わりが来るということを私たちは知っていますし、主イエスが語られる戦争や環境問題、天変地異の前触れの中に、世の終わりを想像することが多くあるかと思います。それらがいつ起こるかはわからないけれど、その只中にあっても、神様の目的は変わることはないのだと主イエスは約束されているのです。
 
 主イエスは天変地異の前に起こることを12節から言われます。「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。」このルカによる福音書が書かれた時代は、迫害の只中にあり、多くのキリスト者が殉教した生と死の隣り合わせの時代でした。ここで言う証しとは、殉教という意味の言葉からきています。証しをするとは殉教することなのかと考えると、恐ろしくなるかもしれませんが、それはただ死ぬことを目的としているのではなく、キリストのために生きて、その命に自分を委ねて生きていくことであると言えます。神と共に、他者と共に生きていく姿であると言えます。単に自分を犠牲にするということではないのです。
 
 主イエスは最後に「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」と言われました。辛いけれど、我慢しろということではなく、これは積極的な待つ姿勢を意味します。ある人は忍ぶという字と、耐えるという字を次のように説明しています。「忍ぶは上からの愛で、覆う、かばうと言った姿、耐えるは下から支える、持ちこたえる姿である」と。これはどちらも自分ひとりではできない、耐えられない姿です。上からの愛によって生かされ、下からの土台、砦となる支える力によって、地に足をつけて歩んでいくことができるのです。それで、ここでの「忍耐」という言葉を原語で調べますと、ふたつの言葉から成り立っていることがわかります。ひとつは「重荷の下で」、もうひとつは「とどまる」という言葉です。合わせて「重荷の下で留まる」ということです。主イエスがぶどうの木のたとえ話で、「私にとどまりなさい」と言う招きの言葉を私たちに語っています。ぶどうの木である主イエスに、枝として私たちが結びつく、そこに留まるということです。主イエスが共におられるということは、忍耐するということでもあり、それが証しをするということになります。重荷のある現実の只中で、このキリストの愛に覆われ、愛の下に留まって、共に生きていくのです。
 
 また「命をかち取りなさい」という、この命は「魂」とも訳せます。単なる肉体的な命のことだけを指しているわけではなく、私たちの生き方、人生そのものと言えるかもしれません。私たちは昔の教会の中で起こっていた迫害を経験することがないかもしれませんが、この魂を蝕む様々な出来事が現代でも起こり、このことを経験しています。飢え渇きを覚え、希望を見出せない闇がこの現代社会の中でも蔓延っています。故に、目に見える確かなものに信頼を置き、時にいともたやすくその確かだと思っていたものに裏切られる経験をしています。命を、魂をかちとるために、何に信頼して生きていくのか、何を指針として己の人生の導き手とするのか。私たちはそのことを模索しています。
 
 その私たちに、主イエスは世の終わりの出来事を通して明らかにされていく神様の目的、神の愛の完成を示されました。根本からの支え、ぶれることのない神の愛こそが私たちひとりひとりの命、魂を支え、決して滅びることはないと約束してくださいました。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。・・・すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(Ⅰコリント13章4節、7節)とパウロは言います。この神の愛を、それぞれが与えられた賜物を通して形にしていくために、私たちは証しをして、他者と共に歩んでいくのです。来週からの新しい教会暦を、この終わりに向けての神の愛の完成を約束してくださっている主に喜びと信頼をもって、共々迎えてまいりたいと願います。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年11月17日 聖霊降臨後第23主日の説教 「跡継ぎ」

「跡継ぎ」 ルカによる福音書20章27~40節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 今日の福音書の中で、復活を否定するサドカイ派の人々が、ある女性の結婚生活を事例に、主イエスと復活の本質について議論しています。跡継ぎを残さないまま夫と死別した女性は、跡継ぎを残すために夫の兄弟とも結婚し、7人もの男性と結婚しました。この結婚の制度はレビラト婚と言って、その掟が申命記25章5節に記されています。「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。」(25:5~6)その家を絶やさないようにするため、妻はその家の一族の者と再婚しなくてはならないということでした。
 
 この女性には跡継ぎを残すという結婚のプレッシャーがあったのかもしれません。子宝に恵まれず、夫と死別し、夫の弟とも結婚し、子宝に恵まれず、夫と死別し・・・ということを7回も繰り返し、その都度悲しみや苦しみを背負わなくてはならなかったでしょう。心から結婚の喜び、子宝に恵まれる喜びを感じることはできなかったのかもしれません。ただ、サドカイの人々は、女性の結婚生活の中身より、復活があるならば、掟に従って、7人の夫を持った女性は、復活したら、どの男性と夫婦関係を結ぶのかということに関心を持っています。
 
 彼らの問いに対して、主イエスは、結婚関係はこの世限りであって、復活に与る次の世においては、そのような関係はもう生じないとはっきりと答えられました。それは、この世の習慣が次の世において、そのまま続くことではないということです。私たちの習慣や価値観の延長線上に復活の時がやってくるわけではないということです。
 
 私たちも復活について考えることがあります。復活というよりも、「死後の世界」についてと言った方が、現実味があるかもしれません。そう、私たちは死を迎えるということを知っているから、その後の状態について関心を持つのです。不安な思いから、そう訪ねたくなると言う思いもあるでしょう。しかし、復活について考える、関心を持つということは、いずれは死を迎えるという先の出来事に対することだけでしょうか。
 
 主イエスは結婚の制度を含め、復活の時には人間の価値観などは及ばないとだけ言っているわけではないのです。36節でこう言われます。「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」人は神によって生きるものであり、神との交わりの中で生かされる。天使に等しい者、神の子というのは、まず神様に属するものとしての命の生があると言えるでしょう。それはまた神様の愛の中で生かされているということです。
 
 この女性の結婚生活の中における彼女の心情はわかりませんが、ここには跡継ぎをもうける義務や、イスラエルの名を絶やさないための兄弟の義務といったものがこのレビラト婚という結婚制度の中に示されていますが、このレビラト婚に関連するお話が他にもあります。旧約聖書の創世記38章にユダとタマルのお話があります。ユダはアブラハムの孫のヤコブの息子で、イスラエルの12部族のひとつ、ユダ族の祖先にあたる人です。主イエスの時代のユダヤ人は、このユダ族の血筋を最も深く受け継いでいます。ユダと妻の間には3人の息子がいて、長男がタマルと結婚しますが、跡継ぎを残さずに長男は死んでしまいます。そして、彼女はユダの次男と結婚しますが、次男も彼女との間に跡継ぎを残さずして、死んでしまいます。相次ぐ二人の息子の死をユダは悲しみ、すぐに死んでしまう息子たちの死因はタマルにあるのではないかと疑い、ユダの三男であるシェラはまだ成人していないと説明してシェラとは結婚させず、彼女を実家に帰してしまいます。しかも、シェラが成人したあとも、ユダは嘘をつき、タマルと結婚させません。その結果、タマルはやもめとなり、厳しい生活を送っていくことになります。しかし、その後ユダの妻が亡くなり、喪の期間が明けた頃、タマルは遊女の姿となってユダを誘い、ユダの私物であるひもの付いた印章と杖を預かります。ユダはタマルだとは知らず、遊女の姿となったタマルと関係をもって、彼女との間に子供をふたり設けますが、もちろんユダはその事実を知りません。三か月ほどたって、タマルが姦淫の罪を犯し、身ごもったとの知らせがユダのもとに入ると、ユダは怒って、焼き殺してしまえと言いますが、タマルはユダの使いのものに、「わたしは、この品々の持ち主によって身ごもったのです。」と告発し、姦淫の相手がユダであることがわかってしまいます。ユダは自らの罪を告白し、タマルとの関係は持ちませんでした。タマルはふたりの息子を産んで、育てていきます。このユダとタマルの間にできた息子たちがユダ族の一族となり、やがてダビデ王が誕生し、イエスキリストがこのユダ族から誕生するのです。
 
 このドロドロとした物語において、ユダの罪やタマルの執念という姿が見れますが、誰が正しく、正しくかないかというより、掟にこだわり、嘘を隠し、それに振り回され続けた人間の苦しみと悲しみが描かれています。そのような罪の姿がそのままに描かれています。体裁を保つために生きているのか、ただ子供に恵まれれば良いのか。私たちもまた何をもってして生きているのかということを考えます。
 
 主イエスは「罪からの救い」をもたらすために、このユダ族の中から、一人の人として生まれ、罪の只中に神の子として、私たちの只中に来てくださいました。罪があるままに人を迎え、私たちと共におられ、私たちを愛し、共に生きて下さる方なのです。
 
 天使に等しい者、神の子とされるというのは、神様に属するものとされる、つまり罪が赦され、神様の愛の内に迎えられ、生きているものです。罪故に裁かれて、死んで終わりではないのです。私たちはこの世にあって、そここそ掟などの人間の習慣の中で生きています。喜びや楽しみだけでなく、悲しみや苦しみも背負って生きています。ユダやタマル、またサドカイ派の人や、7人の夫をもった女性と同じような体験をして生きています。罪を犯して、罪の上にたって自分の生を保っている姿もあるのかもしれません。それは自分が自分のために生きるからです。しかし、私たちが神によって生きるものとなるために、主イエスは十字架に死なれ、復活しました。私たちが罪赦されて、神の愛のうちに生きるためです。
 
 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」と主イエスは約束してくださいました。神に生きる、神に対して生きる、それは神様との関係において、交わりにおいて生きるということです。ただ神様から生かされているということではなく、神様が私たちに関わって下さる、愛してくださっている真実において、私たちが真に生かされているということを知るのです。
 
 パウロはコリントの信徒への手紙Ⅱでこう言います。「すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(5:15)死んで復活してくださった方のために生きる、それは復活の命をもたらすキリストの内に私たちが生きていくということです。神の子とされ、天使のような存在として神に従って生きていくということです。人の価値観を越えた神の赦しの愛に招かれて、神に対して、今与えられている自分の命を各々歩んでまいりたいと願います。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年11月10日 聖霊降臨後第22主日の説教 「恵みを分かち合うために」

「恵みを分かち合うために」 ルカによる福音書19章11~27節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 本日の福音である「ムナ」のたとえ話は、そのまま聞くと、なんとも後味の悪いお話という印象を持つかもしれません。王となった主人から預けられた1ムナを大切に保管して預かっていたのに、利益を上げて増やさなかったために、他の人に取り上げられ、さらに主人が王になることを望まなかった人々を打ち殺せと主人自らが命令して、この譬え話は終わります。王である主人の仕打ちに理不尽さと恐怖感を覚えるかもしれません。
 
 主イエスがこのたとえ話を話された理由は、最初の11節に「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。」とあります通り、神の国がすぐにでも現れるという人々の思いが根底にあったからです。今日の譬え話の直後に当たる19章28節からは主イエスが子ロバに乗ってエルサレムに入場され、ルカ福音書の物語では、弟子たちが声高らかに賛美している背景があります。メシア、救い主と人々から期待されていた主イエスがエルサレムに向けてもうすぐそこまで来ている。神の国が主イエスによってもたらされ、自分たちに神様の救いが与えられることを期待していた人々の姿と熱狂があったことでしょう。
 
 この人々の期待の只中で、すぐ前の箇所には、有名な徴税人ザアカイの物語があります。人々がこの物語を聞いている時に、今日のムナの話しを主イエスはされました。人々から罪人として嫌われていたザアカイが主イエスと出会い、主イエスがザアカイの家に泊まりたい、すなわちあなたの心の奥底に私は訪ね求めるという主イエスの言葉と思いを聞いて、ザアカイは喜び、今度は人々に施して生きていくという新しい人生を歩み始めたザアカイの物語。そして今日の物語に直前に当たる10節で「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」と主イエスは言われました。人の子は救い主、主イエス御自身です。ザアカイも「失われたもの」でした。ですから、この主イエスの救いの宣言が物語っていることは、彼が神の愛を体験し、自分と言う存在が受け入れられ、自らを必要としてくれたという思いに立つことができたことであると言えるでしょう。失われたものを彼は取り戻したのです。神の国は失われたものを捜して救うために来てくださった主イエスによってもたらされる神の愛なのです。
 
 この話に続いて、主イエスは今日のムナの譬え話をされました。ある立派な家柄の人、貴族とでも言いましょうか、彼は王様のくらいを受けるために、他国に旅立ちます。その時、10人の僕に留守を任せると同時に、10ムナというお金を彼らに託して、その利益、成果を期待しながら、旅立ちました。僕たちは10ムナを10人で、一人1ムナを預かります。しかし、この貴族は国民からひどく嫌われていました。彼が王様になることを拒んでいたというほどの拒絶感、嫌悪感を人々は抱いていたのです。わざわざその大きな国に遣いを出して、王位の称号を与えないでほしいと懇願するほどでありました。そして貴族が嫌われていたので、当然この10人の僕たちも嫌われていたでしょう。
 
 国民の期待とは裏腹に、王様の称号を与えられた貴族が帰ってきました。僕たちが早速報告します。1人目、2人目は利益を生み出したことを報告し、王様から良い僕として認められ、褒美が与えられますが、3人目は違いました。彼は与った1ムナを布に包んでしまっておいたというのです。その理由として、彼はこの王様を恐れていたからだと弁明するのですが、王様は逆に問い返します。「本当に恐れていたなら、何でそんなただの布きれに包んでいるだけなのだ、銀行に預ければ利子を得ることができたのに」と。そしてその僕の1ムナは、10ムナもうけた僕に行き渡ってしまいます。
 
 3人目の僕は預かったムナを無駄遣いしたわけでもなく、横領したわけでもないのです。ちゃんと大切に保管して、そのままの姿で王様に返しているのです。損して無くしたわけでもありませんでした。ただ、1人目と2人目との違いは、彼は何も動くことがなく、主人を恐れていました。1人目と2人目は自分たちも嫌われているであろう人々の只中に入っていき、ムナを使い、ムナを増やしました。ムナを預かって、この世の中でそれを用いていきました。それは、弟子たちがこの世に宣教に赴くかの如く、神様から与えられたムナをという賜物を用いて、神の国という神の愛に全ての人が招かれていることを伝えに出かけていきました。
 
 3人目の僕はそれをしなかったという批判的な見方をされてしまうかもしれません。しかし、この僕が主人を恐れたようのと同じように、人々の憎しみの目もこの僕は恐れていたでしょう。主人の思いよりも、恐ろしさから来る自分の弱さの前に、何もできずにいた姿がありました。
 
 そして、王様は最後に「ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。」と言います。王様を憎んでいた人たちに対する報いとして、国民を裁こうする姿があります。自分たちの王様になってほしくないという理由から、王様に対する憎しみや期待外れな姿に憤りを覚えていたかもしれません。
 
 この後に続くエルサレムの入場のお話で、王様としての主イエスの姿があります。人々から期待され、歓呼の声をもって迎えられますが、一週間後には、十字架につけろという人々の大合唱の中で、十字架につけられて殺されてしまいます。主イエスも人々から失望され、憎まれ、最後は人々ではなく、ご自身が打ち殺されてしまうのです。
 
 たとえ話に出てくる王様も国民から憎まれていました。27節の王様の言葉が人々に対する神様の裁きを現すならば、主イエスの十字架はその神様の裁きを、人々の代わりにご自身が受けられたということです。主イエスはこの裁きの言葉を語ると同時に、自ら身をさらけだして、十字架につかれるのです。この十字架を背景にして、たとえ話は描かれているのです。
 
 弟子たちは皆人々の目を恐れて、逃げてしまい、家に閉じこもってしまいます。主イエスに従い、人々のもとに行くことはできませんでした。3人目の僕の姿はこの弟子たちの姿でもあり、また弱さを持っている私たちの姿でもないでしょうか。
 
 王様は僕たちにムナという賜物を与えました。このムナは最初に言いましたが、もともとは10人の僕全員に、そのままに与えられたのです。1人1人というより、10人の群れに与えられたのです。僕たちはそれを分け与え、ある者は利益を生み出し、ある者はそれを損失したのではありませんが、無駄にしました。しかし、それが10人の群れに与えられた共通の「ムナ」という見方からすれば、このムナをどのように用いるかということは、1人目、2人目の僕と3人目の僕、どちらの姿の可能性にも見てとれることなのです。王様はこの群れ全体、一人一人を必要として、ムナという賜物、恵みを与えて、それを用いて分かち合い、生きていくことを呼びかけられているのです。主イエスが失われたものを捜し求めて救われる方であるように、弟子たち、教会はそのキリストを伝えていくものの群れです。神の愛を伝え、この世を愛し、この世に価値観に縛られている者と寄り添い、どんな境遇の中を歩んでいようとも、神様がありのままのあなたを受け止められる、あなたを必要とされる、その御心を伝えるために、教会というムナを神様が用いてくだることに信頼を委ねて、歩んでいくのです。
 
 神の愛は王である主イエスご自身が受けられた十字架と、その十字架を通して示された復活によって明らかとなりました。弱さと虚しさのままに終わったのではなく、復活を通して弟子たちを立ち上げ、教会が与えられました。教会というムナが与えられました。このムナという与えられた教会を布でくるんでしまうのではなく、布から出ていき、恵みを分かち合って、失われたものを捜し求めて救われる方と共に、その方によって生かされている喜びと希望をもって歩んでいくのが教会です。この真の王様である主イエスに喜びを抱き、信頼をもって、心を開いて迎え入れ、この世を歩んでいきたいと願います。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年10月13日 聖霊降臨後第18主日の説教 「癒された人」

「癒された人」 ルカによる福音書17章11~19節 小杉 直克 兄

 

 イエス様はエルサレムを目指して、旅を続けていました。エルサレム、それはイスラエルの都、首都です。政治と信仰の中心地でもあります。イエス様にとってエルサレムは神様の御子として、神様の計画を実行する所でもあります。それは、十字架の上での死であり。そうして、復活する事です。
 
 今日の御言は、そのエルサレムに向かわれる途中の出来事です。イエス様がサマリアとガリラヤの間を通られた時の事です。ガリラヤはイエス様の故郷であり幼い時代を過ごされた所でもあり、伝道活動を始められた所でもあります。サマリアはイスラエルの人から見れば異邦人の地であり、交流のない土地柄です。ガリラヤにしてもサマリアにしても、イエス様を神の御子として受け入れなかった土地なのです。当時のイスラエルの人が旅をする時は、人々はこの地方は避けて遠回りをしていたようです。しかし、イエス様は、ご自分を受け入れようともしない多くの人々のいる間を父なる神が導かれるままに進まれて行ったのです。
 
 そうして、ある村に入られた時、十人の重い皮膚病を患った男達が、遠くの方からイエス様に「イエスさま、先生、どうか,私たちを憐れんでください」と、大きな声で叫んだのです。この皮膚病に付いては、旧約の時代からあったようで、旧約聖書のレビ記の13章1から59に詳細に記載されています、14章には更に清めの儀式に付いても記載されています。ですから、旧約の時代から皮膚病は広く人々の間で流行っていたようです。ですからこの病は、人々から忌み嫌われていた病であり、この病を患えば人として扱ってもらえなかったことが理解できます。新共同訳では「皮膚病」とありますが、口語訳においては「らい病」となっています。
 
 この皮膚病とはどのような病かというと、この皮膚病という意味には「はがす」という意味があり、又、「うろこ」という言葉も「はがす」という言葉から由来しています。ですから、この皮膚病とは、自分の皮膚が鱗の様に剥がれ落ちてしまうほど重い病だということです。ですから、周りの人々からは正しく「排除」され、人としては扱ってもらえませんでした。
 
 そのような、十人の人が「イエス様、先生」と言ってイエス様を待ち受け、向かい入れたのです。
「声を張り上げ」とありますから、彼らにとっては必至の思い、二度とない機会だと思ったでしょう。このことは、サマリアやガリラヤの人々のようにイエス様を受け入れようとはしなかった人々と比較すれば、まったく、対照的な事と言ってよいでしょう。
 
 十人の男たちは、この時点においては、真の主イエスに付いては理解してはいなかったのではないでしょうか。 それは主イエスを「先生」と呼んでいるからです。「先生」とは「指導者」を意味する言葉であり。十人の男達は主イエスに導きを期待し、病が癒されることを期待したのです。
 
 彼らの求めた主イエスはヘブライ書にあるように「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けて苦しまれている人たちを助けることがおできになるのです」(2:17~18)とあるように、主イエスはこの十人の病める人々を憐れんだのです、憐れむとは、相手と同じ立場、即ち相手と同じ土俵に立って、相手のために望む行為をしつつ、同情する、心を寄せる事です。この病める十人の人々の心は主イエスを自分たちの罪の贖い主、救い主とは、悟っていなかったかも知れません。
 
 さらに主イエスは、憐みを求める彼らに「祭司のところに行って、体を見せなさい」と言われます。この時代には、皮膚病であるかないかの判断は医者ではなく、指導的立場にある祭司が行っていました。そうして皮膚病になった時の処置や清めかたを指導していたのです。ですから、皮膚病であるとか、皮膚病が治ったとかの判断も祭司が行っていました。それは、当時の人々は、この皮膚病は、その人の罪と関係付けて考えていたようです。即ち、皮膚病であるという事はその人が律法を犯し神様に背いた罪人と考え、それが皮膚病という形で表れたと考えていたのです。ですからこの病に掛かった人は祭司に診てもらい、病気であるか否か、また病が治ったか否かを判断してもらったのです。ですから彼らは祭司の所に向かったのです、すると、その途中で病が治ったことを知りました。彼らが祭司のところに着いた時にはすでに病は治り、清められていました。
 
 主イエスが彼らを憐れんだのは、重い皮膚病であった彼らが、聖書の言葉通りに、清められ。それが、父なる神様による「清め」である事を悟る事でした。そのことにより、彼らが神様のもとに立ち返る事でした。十人の皮膚病の男達は、祭司に診てもらい、また自分自らも病が治ったことを確認したはずです、
 
 しかし、自分を癒してくださった神様を心からたたえ、感謝して主イエスの元に立ち返ったのは、たった、一人だけでした。この人は、主イエスと父なる神との間に特別な繋がりがある事を悟ったのです。ですから彼は主イエスの元に立ち返ったのです。そうして彼は、主イエスの足元にひれ伏して感謝したのです。「ひれ伏す」とは、自分の顔を相手の足元に伏せる事であり、相手に対して最大の敬意を表す事なのです。そうして彼は主イエスに対して最高の敬意を表したのです。彼は、主イエスは「先生」ではない、この方こそ神様から遣わされた救い主であり神様の御子であることを悟ったのです。そのように彼は導かれ、罪が許されたことを確信したのです。
 
 その彼は、イスラエルの民ではありませんでした、イスラエルの人々とは交流のないサマリア人だったのです。このことは、主の憐みは、イスラエル人とかサマリア人とかという、人種や民族の垣根を乗り越えて人々に及んでおられるという事を示しておられます。
 
 主イエスは言われます、「清くされたのは、十人ではなかったのか。ほかの九人はどこにいるのか。」と、主イエスの憐みによって癒され、祭司によって清いとされたのは十人のはずである、なのに、戻ってきたのはサマリアの人だけです。「どこにいるのか」、主イエスのこの言葉は、厳しく聞こえるかもしれませんが、決してそうではないのです。 「どこに」、九人の人達は、自分の病が癒されたことをどの様に心で悟ったのでしょう。そうして、神様によって癒されたことに気が付かない彼らを、主イエスは案じておられるのです。彼らが戻るところは、彼らを愛しておられる神様のところなのです。更には、戻ってきたサマリアの人を「外国人のほか」と言われているところから、戻ってこなかった九人の人々は、イスラエルの民だと考えられます。「イスラエルの民」それは神様に選ばれた民であり、神様に最も近い民と言ってもよいでしょう。しかし、神様を賛美するために戻って来たのは、異郷の民であるサマリア人であり、神様に仕えるべきイスラエルの民ではなかったのです。
 
 この出来事は、主イエスが故郷でもあるナザレで受け入れられなかった出来事をも思い出させます。その出来事はルカ書の4章16節から始まります。それは故郷であるナザレで神の国ついて語り、御自身が、父ヨセフの子であり、神様から遣わされた、御子であることを、故郷の人々に話した時、人々はその様な主イエスを理解する事無く、むしろ主を町から追い出して山の崖から突き落とそうとしたのです。ここにも又、主イエスが父なる神に遣わされた御子であることを悟らない人々がいるのです。九人の重い皮膚病のイスラエルの人々も又同じく、主イエスが神様から人々を救うために遣わされた救い主、キリスト・イエスであることを悟る事が出来なかったのです。
 
 主は、戻らなかった九人の人々の行方を案じつつ、癒されたサマリアの人に、「立ち上がって、行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」と言われました。主イエスの救いの業は、全ての人、その人の国籍や、人種を乗り越えて行われるのです。主の十字架がそれを人々に示しているのです。信仰があなたを救うのです。
 
 「信仰」とは、創世記にあるように、人は神様によって作られ命が与えられました。神様は誠と愛を持って人と契約を結びましたが、人はその契約を破りました、しかし神様はこのような人の神様に背を向ける様な、即ち背信的な行いに対し、神様の御意思により、人々の世にキリスト・イエスを送られました、それは人の神様に対する背信的な行いによる人の罪を救う為、キリスト・イエスを罪の贖いのため十字架に架けられ、そうして復活され神様の御心を示されたのです。この十字架の救いを示された神様の真実な御心、神様の愛を受け入れ、まったき信頼をよせ。キリスト・イエスこそが救い主であることを受け入れ、その事を言い表すことが信仰なのです。
 
 パウロはローマ書の10:17で「信仰は、聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって、始まる」といい、更に、罪人は「信仰によって、義とされる」と言います。このサマリア人は、主の元に戻りつつ、大きな声で主を賛美したとあります、正に主イエスによって癒され、救われたことを周りの人々に告げたのです、そうして主の足元にひれ伏してキリスト・イエスを信じていることを表したのです。
 
 さらに、主イエスは「ほかの九人はどこにいるのか」と言われます。私達は愛する者が居なくなった時、何処にいるのかが心配になります。主イエスは、「どこにいるのか」と言われます。主は戻らない人に対しても御心を、愛を向けられているのです。