マルコによる福音書16章1〜8節
説教: 高野 公雄 牧師
〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。
その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。
その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
マルコによる福音書16章1〜8節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン
先週の復活祭の礼拝では、マルコ福音16章1~8を読みました。今日は先週の個所に続く9~18節です。ところで、きょうの個所については、本文の内容に入る前に、この本文自体がはらむ問題について説明しておくことが必要です。
聖書を良く見ますと、9節以下には「結び一」という見出しがあって、9節の頭に亀甲カッコが付いているのに気づくと思います。このカッコは20節でいったん閉じます。次に「結び二」と見出しがあって節番号が付いていない文章が別のカッコに囲まれています。この亀甲カッコは、聖書では、原文ではなく、後代に書き加えられたと見なされる文に付けられます。ここの他には、ヨハネ福音8章の、有名な「姦通の女」の話がやはり亀甲カッコに囲まれており、後代の付加であることが分かります。
亀甲カッコが「結び一」と「結び二」と、二つに分かれているには、その訳があります。マルコ福音は西暦70年代に書かれたと言われていますが、著者マルコが書いた原本はパピルスという草の繊維でできた紙に書かれたものでした。これは古びて、もう無くなってしまい、いまあるのは、原本を代々書き写してきた写本です。写本が古びると、またそれを書き写すというように受け継がれたものです。材質も羊皮紙に替わり長く保存できるようになりました。また、書き写すときに、写字生が本文に加筆することも生じました。
こうして伝えられてきたマルコ福音書の写本には、三種類あります。一番古いものは、16章8「恐ろしかったからである」で終わっているもの。二番目に、二世紀からは、「結び一」つまり9~20節が付いているものが現れます。三番目に、四世紀からは、「結び二」が付いているものも出てきました。ですから、学者たちは、マルコ福音は本来は8節で終わっていたと考えます。しかし、それではあまりにも唐突な終わり方であるというので、二世紀に入ってから、結びの部分が書き加えられたのでしょう。そして8節で終わっているものよりも、20節まで書き加えられたものの方が、好んで書き写されて広く流布するようになりました。ついには、カトリック教会は、正式に20節まである「結び一」を聖書本文と公式に認めるに至りました。「結び一」には節番号が付けられましたが、もっと後の書き加えである「結び二」は、聖書本文とは認められず、節番号が付いていません。ですから、私たちが以前使っていた口語訳聖書では、「結び二」は訳出されませんでした。
以上のことは、本文の内容ではなく、形式にかかわる事柄ですが、聖書に知的な関心を持つ人たちがよく知っていることですので、皆さまにも承知しておいていただきたいと思い、お話ししました。
《イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった》。
先週読みました8節までの話では、マグダラのマリアほか三名の女性たちは、イエスさまの葬られた墓に行き、そこで天使に会い、「イエスさまが復活されたこと、共に伝道の旅をしたガリラヤ地方で復活のイエスさまに会えることを、弟子たちに伝えなさい」と命じられましたけれど、《だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである》で終わっていました。天使によるイエスさま復活の知らせは、かつて聞いたこともなく、また自分で口にすることもできない驚異であったのです。
信じられなければ、それでお仕舞ではありません。復活を信じられない女性たちの一人マグダラのマリアに、イエスさまは自ら現われます。そしてマリアは、仲間たちのところへ行って《イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たこと》を伝えます。でも、誰も信じようとしませんでした。
《その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった》。
信じないだけでなく、二人の弟子は仲間からも離れて去ろうとしていました。ルカ福音24章によれば、エルサレムの西北のエマオという村に向かっていました。そういう弟子に、ふたたびイエスさまは姿を現わします。二人は急いで戻って、仲間の弟子たちに知らせます。しかし、今度も誰も信じようとしませんでした。
《その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る》。
ついにイエスさまは、信じない側近の弟子たちに現われます。十一人とはただ人数を言っているのではなく、ペトロやヨハネなど十二人の直弟子たちを指しています。ユダが欠けて十一人です。イエスさまは彼らの《不信仰とかたくなな心をおとがめになった》とあります。「かたくなな心」とは、信じない頑固な心ですが、「かたくな」という言葉は、「乾かす」という意味の言葉からできています。10節に《マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた》とありました。生前のイエスさまに接して、この方と共に生きることこそが救いだと信じて寄り頼んでいた弟子たちです。その大事なイエスさまが十字架にかけられて殺されてしまった。そのとき自分たちはイエスさまを守るどころか、見棄てて逃げてしまった。悔やんでも悔やみきれない、泣いても泣ききれない悲しみのどん底に落ち込んでいたのです。彼らの心は干からびて何も受け付けられなかったことでしょう。
そういう彼らのところに復活したイエスさまが現われ、イエスさまの力ある愛が彼らの心を潤し、温め、光を注いで、彼らを再生させます。復活のイエスさまを信じることは、信じる者にとって自らが復活することをも意味します。
そして、復活されたイエスさまは、魂の復活した弟子たちに向かって、《全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい》と、ご自分の福音の宣教を委ねます。
イエスさまの十字架の死と復活による私たちの贖い、救いということは、前代未聞、奇想天外、驚異そのものであって、直弟子たちにとってもまったく理解できないこと、信じられないことでした。復活の知らせを信じようとしなかった、信じられなかった自分たちだからこそ、こんどは人々に確信をもって言える。神のみわざは不思議であり人知で極めることはできないけれど、大丈夫。イエスさまの地上の生涯における言葉と行いを通して、こんな不信仰な自分たちをも一人も漏らさず愛し、見守ってくださり、支え導く神の信実な心を見出すことができる、信頼することができるのです。
神さまを信じるために、たとえば十字架と復活というような不可解なことを、無理矢理に自分の力わざでもって信じ込む必要はありません。直弟子たちでさえも自分の力で信じることはできませんでした。復活したイエスさまが彼らの干からびた心に愛を注ぎ、生き返らせてくださった、それによって信じることができたのです。現代の私たちも同じです。聖書をとおして復活のイエスさまにお会いすることができる、復活のイエスさまの愛の招きを聞くことができます。
人生のいろいろな重荷を背負って歩む人々と共に歩んだイエスさまの言葉と行いについて聖書や説教をとおして聞くことによって、愛なる神がそして復活したイエスさまが、弱く貧しい私の人生を共に歩んでくださっている、重荷を共に担ってくださっていることを察知して、その気配をそこはかとなく感知して、このお方の力と愛に信頼して生きる、それが私たちの信仰です。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン