2012年12月30日 待降後主日

ルカによる福音書2章25〜40節
高野 公雄 牧師

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり

この僕を安らかに去らせてくださいます。

わたしはこの目であなたの救いを見たからです。

これは万民のために整えてくださった救いで、

異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

ルカによる福音書1章25~40節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

先週クリスマスを祝ったあとの、きょうは今年最後の主日礼拝となりました。教会の暦では降誕後主日といいます。この日にはイエスさまの年少時代の記事を読む習わしになっており、カトリック教会では聖家族の主日と呼んでいます。聖家族とは、幼子のイエスさまと父ヨセフと母マリアの三人を指します。

今年は、ルカ福音2章の赤ちゃんイエスさまのお宮参りの記事が選ばれています。ルカ福音は、これまで洗礼者ヨハネとイエスさまの物語を交互に書いてきましたが、この物語からは、イエスさまひとりに焦点をしぼって語られるようになります。

《八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である》(21節)。きょうの福音の前に、こう記されています。ヨセフとマリアは信仰の篤い親として律法の決まりのとおりに、イエスさま誕生の一週間後に割礼を施し、天使の命じた名を付けます。律法にはこう定められています。《イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。八日目にはその子の包皮に割礼を施す。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない》(レビ12章2~4)。

《さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った》(22節)。

上記レビ記12章のとおり、清めの期間は7日プラス33日で40日間です。それで、昔はヨセフとマリアがイエスさまを伴って神殿に上る出来事は、12月25日のちょうど40日後にあたる2月2日に祝われていました。

清めのための献げ物については、こう定められています。《男児もしくは女児を出産した産婦の清めの期間が完了したならば、産婦は一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献げ物とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として臨在の幕屋の入り口に携えて行き、祭司に渡す。祭司がそれを主の御前にささげて、産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は出血の汚れから清められる。これが男児もしくは女児を出産した産婦についての指示である。なお産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする。祭司が産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は清められる》(レビ12章6~8)。本来は雄羊一匹と鳩一羽を献げるのですが、貧しい者は、鳩二羽に代えることが認められていました。

聖家族がお宮参りをしたのは、マリアの清めのためだけでなく、イエスさまを主に献げるためでもありました。そのことをルカは、《それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである》と説明しています。これは、《すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである》(出エジプト13章2)を自由に引用したものでしょう。

主に献げるといっても、動物の初子と違って、人間の赤ちゃんはいけにえにするのではありません。銀貨五シェケルを祭司に支払って自分たちの長子を贖い出すのです。《人であれ、家畜であれ、主にささげられる生き物の初子はすべて、あなたのものとなる。ただし、人の初子は必ず贖わねばならない。また、汚れた家畜の初子も贖わねばならない。初子は、生後一か月を経た後、銀五シェケル、つまり一シェケル当たり二十ゲラの聖所シェケルの贖い金を支払う》(民数記18章15~16)。1シェケルは4デナリオンに相当すると言われますから、初子の身請けに10万円以上かかったようです。

《シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。》

きょうの福音は、ここから始まりますが、聖家族は上記のような律法の定めにしたがって神殿にやって来ました。一方、メシアを持ち望んでいたシメオンとアンナも、霊に満たされて神殿に入って来ました。そして、ちょうどタイミング良く両者が出会います。シメオンは幼子を腕に抱き、アンナもそばにきてイエスさまを礼拝します。とつぜんシメオンとアンナが登場しますが、二人は神の約束を信じて、救い主の到来を待ち望んでいたイスラエルの善男善女の代表として描かれているのでしょう。

《主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。》

私たちは23日の礼拝で安藤先生の指導によって「やわらかくこの胸に」を歌い、マリアやヨセフになった思いで幼い命が与える温もりを受けとりました。シメオンも幼子イエスを抱きかかえ、神をたたえて歌います。この賛歌は、ラテン語の最初の二語をとってヌンク・ディミティス nunc dimittis(「今こそあなたは去らせてくださいます」という意味)または日本語で「シメオンの賛歌」と呼ばれます。この賛歌は、カトリック教会では「寝る前の祈り」の福音の歌として毎日となえられているものですが、私たちのルーテル教会では礼拝の終わりの部分で毎週歌われます。

そして、きょうのように、一年の最後の礼拝でも読まれます。確かに「今こそあなたは去らせてくださいます」という言葉は、一年を終わる時にふさわしいものでしょう。私たちもこのシメオンの賛歌の心を私たちの心とすることによって、この年末の礼拝を守りましょう。そして私たちは、その年に限らず、まさに終わりに向かって生きている存在でありますので、そのことを改めて覚える機会にしたいと思います。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」。救い主を信じ、滅ぶべき自分の受容を必要とするとするのは、シメオンやアンナのように余命の短い老人に限られるものではありません。それは、人生の盛りの時を過ごしている者であっても目指すべきことです。そこにこそ、本当に幸せな、充実した人生があると思います。なぜなら、この言葉は、どのような思いを抱いて死ぬかというよりも、むしろどのような思いを抱いて生きているかを語っている言葉であって、なにもこう言ったからといって別にすぐに死ななくてもよいのです。このような安らかな思いを抱いて生きることができるかどうかこそが、私たちの人生の課題であると言えるでしょう。

「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という言葉があります。これは「論語」にある孔子の言葉で、注によると、「朝、道(事物当然の理)を聞いたら、それで修学の目的を達したわけだから、その夕には死んでもいい」という、求道への熱情の吐露だということです。シメオンもアンナも、満足できる幸福な生活を送っていたからこのように語ったり、神を賛美することができたのではありません。シメオンは「イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいた、と25節にありますが、シメオンもアンナも、慰めと救いがない状態の中で、長くそれを待ち望みつつ、忍耐しつつ生きてきたのです。その慰めが、救いがようやく与えられた時に、アンナは神を賛美してそのことを人々に伝えたし、シメオンは「いま、わたしは主の救いを見ました。主よ、あなたはみ言葉のとおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。この救いはもろもろの民のために、お備えになられたもの、異邦人の心を開く光、み民イスラエルの栄光です」(ルーテル教会式文)と喜びをもって歌ったのです。

私たちは、さまざまな課題、悩みを抱えたまま新しい年へ進みゆこうとしています。そうした厳しい現実の中で、歴史の終わり・私たちの人生の終わりから今の現実を振り返り見る視点を、きょうの福音をとおして与えられています。そして私たちはすでにそれを得た者として、喜びの歌を歌うことができるのです。思いを新たにし、そこに心をしっかりと定め、心安んじて、主のご用のために働くものでありたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン