2014年4月20日 復活祭 「復活の主に結ばれて」

マタイによる福音書28章1〜15節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

救い主イエスキリストの復活を心からお慶び申し上げます。イースター、これは英語から来ている名称で、この名称の由来を巡っては未だに様々な学説があり、定かではありませんが、復活祭はキリスト教会の一番古い最も重要な祭典であります。それはパウロが、コリントの信徒への手紙Ⅰ15章14節で「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」と言うように、私たちは何か過去の偉大な人物の紹介をしているわけではないし、伝説を伝えているわけではないのです。キリストの復活を宣教し、信じるとは、何よりも私たち自身が復活のキリストと共に生きているということ、共に生きて、結ばれて、始めて宣教へと遣わされる、信仰が与えられるということであります。

今日与えられましたマタイ福音書の復活物語には、主の復活を目撃したふたりの女性が登場します。マグダラのマリアと、同じマリアという名前の女性です。この二人の女性は、主イエスが十字架で死なれるところを見届け、墓に葬られるところまで見届けた人たちでした。ペトロなど、他の男性の弟子たちはもうその場にはいなかったのです。そして、主イエスが墓に葬られた後、他の人たちがその場から立ち去っていく中で、このふたりの女性は、その場に残って、墓の方を向いて座っていました。悲しみ、絶望を抱きながら、全てが終わったのだという思いに満ちていたでしょう。彼女たちが墓の方を向いて座っている姿、それはあたかも私たちの人生も、墓の方を向いて歩んでいるかのようです。墓は死の象徴、死んだものが納められる場所です。人生の終着点、そのように考えている人もいるかも知れません。

死後の世界はわかりません。というより「死後」という言葉の内実自体が存在するのかどうかもわかりません。死後そのものがないかもしれない。だから、「死後」はなく、死が終わりであると思うのです。死が「終わり」、その人生の「最終目的地」であると思っている私たちは、そのような私たちのあり方は、死の支配下にある限られた命を生きている。いずれ命は尽きる。だから、死が命に勝り、「死の力」に覆われている私たちの限られた命の歩みしかないと思ってしまうのです。

しかし、そのような、死が命に勝るというこの世の理解をひっくりかえすような出来事が起こったのです。安息日が終わった後、ふたりは主イエスのお墓を見に行きました。他の福音書では、主イエスのご遺体に、香料を持っていくために、婦人たちが墓に行ったとありますから、この時の彼女たちの目的もそうだったのかもしれません。その時、この墓の前で驚くべきことが起こりました。墓の中に入る前に、大きな地震が起きて、神様の使いである天使が降ってきて、墓の入口の石をわきへ転がしてしまったのです。見張りの番兵たちは、もはや「番兵」でありませんでした。そして、天使に導かれて、彼女たちは空の墓を見届けたのです。

前の日に、この主イエスの墓は、ユダヤ人たちの手によって、固く封印され、誰も入れないように、厳重な警備が敷かれていました。彼らは「復活をでっちあげる弟子たちの行動」を恐れたのです。そのために死体を盗み出されたら、たまったものではないと考え、墓を封印したのです。しかし、封印したはずの墓の中は空だった。そこに死者の姿はなかったのです。彼女たちは最後まで、主イエスの葬りを見届けた人たちで、この朝も厳重な警備を見て、誰も近づけないし、入ることができなかったであろうと思っていたでしょう。彼女たちは主イエスの事実としての死を確かに目撃した人たちなのです。

天使は、「かねていわれていたとおり」、それは主イエスご自身が「復活する」と言われていた通りに、この復活の出来事を彼女たちに告げるのです。主イエスは墓に葬られ、その墓は封印されて誰も中には入れなかった。ただ主イエスの死の事実だけが、この墓の中にあったはずでした。マタイ福音書はこの事実を強調しています。空の墓、天使の復活のお告げは、この死の事実が揺らいだ出来事、自分たちが受け止めていた死の事実が大きく彼女たちの中で揺らいだ出来事でした。墓の方を向いて座っていた彼女たちの思いを、命の終わりである死という事実を超えて、その先にある復活の命という真実が包みこんだのです。

天使は主イエスの復活を告げて、主イエスとの出会いの場所を彼女たちに教えました。その場所はガリラヤ、異邦人の地ガリラヤと呼ばれた、主イエスが宣教を開始した場所です。弟子たちにとってのふるさと、主イエスと出会った場所です。そこでお目にかかれるから、そのことを弟子たちに伝えに行きなさいと告げました。彼女たちは「恐れながらも大いに喜び」ました。恐れながらも大いに喜ぶ、ですから、まだ「恐れ」があります。まだ復活のキリストに出会っていないという恐れ、でもいずれガリラヤで出会う復活のキリストへの喜びへと変えられていく。それは夜明けがやってきたかのように、死という闇から復活という光へ、死の闇に復活の光が差し込んできたのです。今彼女たちは墓から出て行きます。墓を背にしての新しい歩み、墓を見つめ、そこに座っていた彼女たちは、今立ち起こされて歩んでいくのです。死の事実しかなかったであろう墓の中は、空だった。そこが自分たちの行き着く目的地ではないとわかったのです。

この彼女たちの喜びが真実になる時が訪れました。彼女たちが弟子たちに伝えるまでの道筋、恐れを抱きながらの喜びの道筋において、彼女たちが行くより先に、復活の主イエスが彼女たちの行く手に立たれたのです。この箇所を口語訳聖書は「イエスは彼らと出会って」と訳しています。彼女たちが出会いに行くより先に、この復活の主が彼女たちに出会ってくださったのです。復活の主が彼女たちを出迎えたのです。そして彼女たちにこう言われました。「おはよう」と。これは原語のギリシャ語で「カイレーテ」と言います。これは挨拶の言葉のひとつですが、その意味は「喜べ、喜びなさい」という意味です。主イエスは彼女たちに喜びなさいと言われるのです。彼女たちの喜びが真実な喜びとなるように、今尚、恐れという夜明けにあって、喜びという朝がまだ全面に出ていなかった彼女たちの思いを、復活の光、喜びで満たしたのです。

主イエスは言います。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」主イエスはわたしの兄弟たちと言われました。弟子たちとは言わないのです、わたしの兄弟、復活の主イエスに結ばれる者全て、そう私たちがここに含まれています。主が私たちを覚えていてくださり、包んでくださる。復活の命に包んでくださっているのです。ガリラヤ、そうそれはこの主のみ体である教会です。私たちは復活の主に今日出会っているのです。だから喜びなさい。安心して、この復活の主に結ばれて、喜びの内に生きなさい、歩みなさいと主イエスは私たちを遣わされていくのです。

主イエスは死の墓から復活し、私たちに復活の命を現されました。この方が私たちの主、命の主です。命が死に勝り、命が支配する中での私たちの歩みが始まったのです。私たちはいずれ死を迎えて、墓に葬られます。それをわかっていて、墓の方を向くだけの人生ではないのです。そこが終着点ではない、死の支配下の中で私たちは歩むのではないのです。死を見つめつつ、覚えつつも、真の支配は命であるということ。主イエスキリストという命の中に、私たちはいるのです。わたしの兄弟たちと言ってくださった主イエスと共に、喜んで歩んでまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。