2014年7月27日 聖霊降臨後第7主日 「恵みの軛」

マタイによる福音書11章25〜30節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(11:28)」と、今日の福音書には、このマタイ福音書にしか記されていないこの主イエスの真に慰めに満ちた御言葉が私たちに語られております。人生の只中で、私たちは様々な疲れ、重荷を負っています。休息を必要とします。詩篇23編の作者はこう歌います。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」(詩篇23:1-3)今日の御言葉を聞いて、私が真っ先に思い越した聖句です。

詩篇の作者が歌うように、主が招いて下さる休息、安息は肉体の疲労のみにあらず、魂の安らぎです。魂を生き返らせてくださる、すなわち新しい命が与えられる安息であります。私たちは休息と聞けば、仕事や家事、勉強をしないで、好きなことをして疲労を回復し、リフレッシュする時であると考えます。日毎の目まぐるしい忙しさから解放されるのですから、心、魂が安らぐ時でもありましょう。労働環境の改善が問われる昨今、休みがなかなか取れない、与えられないということが、社会問題になっています。休息は死活問題と言えるでしょう。

しかし、ここで言われている休息というのは、主イエスの招きによって、主イエスから与えられる休息であり、安息であるということです。モーセの十戒に「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」(出エジプト記20:8)とありますように、ユダヤ人は安息と言えば、この安息日を守っているのです。この安息日の細かい規定が旧約聖書の至るところに記されていますし、この次の12章では安息日にとった主イエスの行為を非難するファリサイ派の姿がありますが、この安息日というのは私たちが抱いている休日の過ごし方ではなく、また労働しなくてもいいという日ではありません。労働してはいけない、休まなくてはならない日なのです。それは安息でもない、不自由でしかないと感じるのですが、主イエスは安息日の掟を忠実に守り、この掟を守れない人々に裁きのまなざしを向けていたファリサイ派の人々を非難するのです。そして主イエスは「人の子は安息日の主である。」(マタイ12:8)、またマルコ福音書2章27節では「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」と言われました。つまり安息日なんて不自由なものだから、守らなくていい、休みたい時に休めばいいと言うことを言っているのではないのです。確かに安息日は「心に留め、これを聖別する」大切な日です。神様を覚えて、讚美する喜びの日なのです。私たちが抱く休息ではないけれど、喜びの日なのです。そして、主イエスは、安息日は人のためにこそあるという神様の恵みを語られ、主イエスこそが安息日の主であるとご自身を顕されたのです。

ですから、今、疲れ、重荷を負っている私たちは、安息日の主であるイエスによってこそ、休息に招かれている、そう言えるでしょう。それは主イエスこそが休息が必要な私たちの重荷を知り、受け止めてくださるからです。

先程詩篇の歌を聞きましたが、主が招いて下さる休息とは魂の安息です。新たな命が与えられる安息なのです。一時的な疲労の回復ではない、もっと深い安らぎです。もっと深い重荷からの安らぎなのです。安息日の主は知っていてくださいます。私たちの疲れを、重荷を。そう、私たち自身が受け止めている重荷以上に、もっと深い重荷を。自分自身の重荷というものを私たちはどこまで知り、受け止めているのでしょうか。

私たちには、一人一人が受け止めている重荷があります。それは一人一人違う重荷であり、決して人には言えないような重荷です。例えば、幼少期に受けたトラウマや、人と比べてしまう劣等感。人間関係における様々な重荷、孤独という重荷。病や将来の不安。そして、最後には誰しも必ず迎える死という重荷です。一人一人そういう重荷を背負って、私たちは生きているのです。一時的な休息で降ろせるような重荷ではありません。気分転換をして、気持ちを切り替えて、自分の重荷という存在を一時的に忘れることはできるでしょう。でも、またそれを負わなくてはならない、そういう現実の私たちの姿があるのです。私たちは本当に自分の重荷を全て下ろすことはできないでしょう。心のどこかに常に、ひっかかっているからです。また、人前では降ろせません。恥ずかしくて、苦しいからです。屈辱です。裸の自分を見られたくはないからです。自分だけではありません。そのまなざしを他者に向けてしまうのです。あんなこと、大したことじゃないだろう、大袈裟だ。自分はもっと重いものを背負っているのに、あの人は気楽だ、そんなふうに他者を裁いてしまう。そんな姿もあります。だから、真に私たちは休むことができるのか、そのような平安の時を過ごしているのかと問わざるえないのです。

そんな私たちの思いに対して、主は言われます。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」私の軛を負いなさい、私に学びなさい。ここで主イエスはあなたの重荷は全て無くなるとは言われないのです。万事主が解決してくださって、真の平安を与えるということではないのです。主が私たちの重荷を知っていてくださり、受けとめてくださるならば、なぜその重荷を無くしてくださらないのか、安息日の主がもたらしてくれる真の安らぎとはそういうことではないのかと驚くばかりです。

主イエスは、ご自身のことをこう言われるのです。「わたしは柔和で謙遜な者」であると。柔和で謙遜、それは大人しく優しくて、謙虚で控えめな徳のある人というイメージがあります。人々と共におられた主イエスの姿からは、確かにそういう思いを抱くかもしれません。主イエスとはそういう良い人であると。しかし、聖書で使われている柔和、謙遜とはそういう意味ではありません。私たち人間にとって一目置かれるような存在、注目を浴びるような人柄を言っているのではないのです。柔和も謙遜も、本はヘリくだる、貧しい者という意味です。全く魅力のないみすぼらしい者と言えます。ファリピ書にもありますように、主イエスのご生涯とは、神様と人の前に真にへりくだった貧しい者でした。神様の御子として、主イエスは重荷を背負う私たちを上から見下ろし、休息を得られない私たちを見守って支えていてくださるということではないのです。柔和で謙遜な方として、私たちの重荷の只中に立ってくださったということです。私たちと同じところに立たれたのです。それだけではありません。この方はご自身の命をかけて、私たちの重荷を真に背負ってくださっているのです。それは神様が人間の重荷を背負うその主が私たちを、自分の存在をかけた人生の重荷をもつ私たちを安らぎに招いておられるのです。私たちの重荷を知り、受け止めてくださるがために、この方は柔和で謙遜な者となったのです。

ですから、この方の前に、重荷を委ねていい。人前では見せられないどんなにはずかしい重荷でも、いや、むしろそのありのままに重荷を委ねていいということです。だから、私のもとに来なさい。休ませてあげよう。もう自分の重荷に押しつぶされることはない。押しつぶされて、本当の私を見失うことはない。また、他者の重荷の方が軽そうだと言って、不平不満を言い、他者をそのようなまなざしで見つめ、他者をも見失うことはないのです。さらには、主イエスは私たちの死という重荷にさえ安息をもたらしたということです。復活という死の重荷を打ち破った永遠の安息であります。だからこの方こそが安息の主なのです。

主は「私の軛を負いなさい」。と言います。軛とは牛、ろばなどの首につけて、車を引かせるために使用する木製の道具です。自由を奪うものです。政治的な屈服や奴隷状態を表す比喩として、用いられる言葉です。それはまた、重荷を背負う私たちの姿にも見出されるでしょう。重荷を背負う故に、真に休むことができない。自分が背負う重荷は重いものです。人生の軛はきついものです。

しかし、主の軛は負いやすく、荷は軽いのです。この主の軛を負っていくということは、柔和で謙遜な主のご生涯、そのご生涯をもってして語られた福音に信頼して生きていくことに他なりません。この福音は様々な重荷、さらに死という究極的な重荷に勝ったのです。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」安息日の主が招かれる休息は、洗礼の招きでもあります。既に洗礼を受けておられる方には、洗礼を思い起こす招きであります。あるクリスチャンが、洗礼を受けて自分はどう変わったかということを人から質問されたそうです。その人はこう答えました。気が長くなったと。今でも結構短気だけど、でも以前の自分と比べて、えらく気が長くなったと言います。洗礼を受けて性格が変わったわけではない。今でも短気な性格だと言います。でも、以前の自分と比べて、えらく気が長くなった、それはこの方が主の安息の内に生きているということではないでしょうか。全くの別人になったわけではない、この人はこの人であります。相変わらず短期であるかもしれないけれど、洗礼を受けて主の軛を負っていくという歩みへと変えられたこの人の重荷、短気という重荷は軽くなったのです。短気という重荷にお思い煩う必要はなくなったのです。主がこの重荷を真に背負われるからです。

私自身も人のことは言えません。相変わらず短気であり、頑固な性格であります。そのことによって、よけいに思い煩い、自分の重荷を重くし、他人に迷惑をかけている自分の姿があります。主はそんな私に、そんな重荷など気にしないで、重荷を捨ててポジティブに生きていけばいいと言うのではないのです。あなたは、あなた自身のその性格から来る自分の重荷に押しつぶされることはない、また主の前にあって隠す必要もないと言われます。あなたの重荷を委ね、私の軛をこそ負いなさい。それはただ、頑固である自分を許しなさい、頑固さを無くしなさいということではなくて、それを主に委ね、主に従う頑固さへ変えなさいと、主は私に呼びかけられ、それが主の軛を負っていく私の人生であると、主は毎週の礼拝ごとにそのようにしてわたしを招いているのだと思います。相変わらず頑固な私ですが、ここに頑固さに縛られてばかりの、私への真の安らぎがあるように感じます。

今日の第1日課であるイザヤ書40章31節に「主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」とあります。神様は御子イエスを通して、この力を私たちに与えてくださいました。私たちが強くなったのではなく、また賢くなったのではないのです。私たちは真の安息に招かれているのです。もう自分の重荷に押しつぶされることはない。主に望みを置き、主の軛を負うものは走っても弱ることなく、歩いても疲れないのです。主の軛は負いやすく、荷は軽いからです。魂の生き返り、この安息の主から新たな命を頂いて、この一週間を歩んでまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。