2014年7月20日 聖霊降臨後第6主日 「自分の十字架を担って」

マタイによる福音書10章34〜42節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
マタイによる福音書から、主イエスが12弟子を選出し、彼らを派遣する場面を、2週連続に渡って聞いてまいりました。今日の福音書はこの派遣の最後の箇所に当たります。

主イエスは34節から36節で「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」と言われました。平和ではなく、剣をもたらす。また、家族と敵対させる。そのために主イエスが来られたと言うのです。思わず耳を塞ぎたくなる言葉です。本当に主イエスがこんなことを言ったのかとただ驚かされるばかりであります。この「もたらす」というのは、投げ入れる、注ぐという意味でもあるので、まんべんなく行き渡るということです。非常に厳しいことを主イエスは語っています。

主イエスというお方、このお方こそがこの世に平和をもたらす救い主ではないのか、平和の王として来られた方ではないのかと、私たちはまずあのクリスマス物語から思い起こすでしょう。ルカ福音書2章14節に「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」とあの天使たちが歌ったように、この地上に平和をもたらすために、神様によって遣わされてきたのが、神の子イエスキリストではないのか。それなのに、主イエスは平和ではなく、剣をもたらすということを強調しているのです。なぜなのでしょうか。

主イエスが生きていた時代、イスラエルはローマ帝国に支配されていました。地中海沿岸地域をほぼ手中に収めていたローマ帝国という軍事大国の圧倒的な力によって、国々が収められ、平和がもたらされていたのです。「パックス・ロマーナ」と言われるローマの平和です。それは剣には剣で、槍には槍でもたらすという、力で相手を打ち負かし、返り血を浴びてでも奪い取り、人々の犠牲の上に成り立っている平和です。ローマ皇帝は平和をもたらす神の子として、人々から崇められていたのです。このローマ帝国に支配されていたイスラエルの人々は、ローマ帝国からの独立を願っていました。ローマ帝国を追い払うほどの救い主(メシア)の誕生を願い、平和を願っていたのです。

主イエスに選出された12弟子の中に、熱心党のシモンという人がいます。熱心党というのは、その名の通り、「熱心な者」を意味する、この時代に存在していたユダヤ人の一派です。彼らはイスラエルを支配するローマ帝国に対して、過激な暴力行為、暴動を引き起こしていた人たちです。彼らもまた、剣には剣、槍には槍で立ち向かい、イスラエルの独立、平和を勝ち取ろうと願っていた人たちですから、ローマの平和がもたらすことと変わりはなかったでしょう。

ローマの平和に見る、力における平和維持の思想は、国や時代を超えて、多くの人々が求めている思想でもあります。それは今日で言えば、剣や槍が核兵器に変わったということでしょうか。核兵器問題ひとつとっても、平和の問題は山積みです。核兵器における平和は、ローマの平和とそう変わりないことでしょう。

さて、もう一度言いますが、今日の福音書は12弟子を派遣する場面です。福音宣教について、主イエスに従うということについて、弟子たちに教えている場面なのであって、主イエスは人々の前で、権力者の前で街頭演説をしているわけではないのです。弟子たちに宣教の心構えを語っているのです。

この34節の御言葉を、熱心党のシモンも聞いていたことでしょう。そして彼がどこで主イエスと出会い、主イエスに従ったのかはわかりませんが、彼は以前の熱心党として活動していた自分の姿と重ねながら、この主イエスの御言葉を聞いていたのでしょう。力におけるイスラエルの平和を願っていた彼にとって、平和ではなく、剣をもたらす主イエスに従って宣教していくということに、戸惑いを覚えつつも、明らかに自分たちが願ってきた平和の形と異なるものを、この主イエスというお方に見出したのではないか。自分たち熱心党やイスラエルの民、ましてローマの平和を望んでいた人々が想像する平和をもたらすために、主イエスは来られたのではないのです。

ではなぜ、敢えて剣をもたらすのかということです。この世に争い、戦争を持ち込むためでしょうか。争いの火種を作るためでしょうか。主イエスが剣を持ち込む以前に、既に世界には剣がもたらされ、争いは起こっていますから、そういうことではありません。けれど、剣、それは文字通り痛みを伴うものです。相手を殺すものでもあります。戦いの中で用いられる武器です。弟子たちの宣教、また私たちの宣教は、ひとつの戦いでもあります。この世との価値観の中で生じる亀裂があります。主イエスは私たちに剣を帯よと言っているのでしょうか。

エフェソの信徒への手紙6章15節から18節でパウロはこう言っています。「平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」有名な神の武具を身につけなさいというパウロの言葉でありますが、やはりここにも宣教における戦いが描かれています。その目的は「平和の福音」を告げる準備です。ただ平和とは言わないのです。ここでパウロは霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさいと言いました。自分たちの力の誇示における剣や槍を取って、振り回せとは言っていないのです。神の言葉という霊の剣を帯よというのです。神の言葉、それは確かに剣のように鋭いものです。痛いものでもありますし、殺しもします。それだけ自分の良識、価値観が変えられるほどの驚きなのです。神の言葉に殺される、何とも物騒なこととして、聞こえますが、主イエスは平和の福音という剣、神の御言葉について、ここで弟子たちに言っているのです。

先日のカトリナ会(婦人会)で、使徒言行録9章1節から、あのパウロがまだサウロと名乗っていた時でありますが、彼がダマスコの街道で復活の主イエスに呼びかけられた場面を読みました。パウロは神様の教え、すなわち律法を誰よりも熱心に、非の打ち所がないほどに、忠実に守る真面目なユダヤ人でした。それが彼の誇りでもありました。その熱心さ故に、キリスト教会を迫害して回っていたのです。剣を振り回していました。その途上で復活の主に呼びかけられ、彼は地に倒れ込みます。やがて彼は立ち上がりますが、付き人に引っ張られてやっと歩いていけるという有様で、三日三晩食べも飲みもできなかったのです。この後、アナニアという弟子からパウロは洗礼を受けて、あの使徒パウロが誕生したのです。彼の生き様が180度変わった出来事でした。それをもたらしたのが、主イエスの御言葉です。

パウロは主イエスの御言葉に打たれたということです。パウロの何が打たれたのかというと、彼の熱心さであり、正しさです。キリスト教会への迫害という力における神様への正しさを、復活の主は神の御言葉という霊の剣でパウロを打ち砕いたのです。しかし、パウロは滅んだのではなく、立ち起こされていきました。主がアナニアを通して、パウロについてこう言っています。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。 わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」と、パウロは主の名のために苦しむというのです。復活の主と出会って、永遠の平安が約束されたわけではないのです。それはまた、12弟子についても、私たちにも言えることです。

主イエスは家族のことについても言っています。家族と敵対させるために来たと言いますから、このことにも戸惑うばかりですが、37節、38節で「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」と主イエスは言います。わたしに、すなわち主イエスにふさわしくないと、繰り返して3回も言っています。家族と敵対し、家族よりも主イエスを愛し、自分の十字架を担っていく者が、主イエスにふさわしい者であるということでしょう。しかし、この主イエスのふさわしくないという言葉は、もっと現実的な意味をもっています。というのも、私たちは家族よりも主イエスを愛し、自分の十字架を担っているのかということです。そうたやすいことではありません。ふさわしくあれとは言えず、全てふさわしくないと言っているのです。パウロは主によって苦しむ者となり、主イエスにふさわしいものとなったということでしょうか。彼自身そうは言っていないのです。生涯自分は「罪人のかしら」であると、そういう思いにたったのです。

けれど、パウロは自分を含めた罪人を救うために主イエスキリストは来られたという確信を持ち続けました。ふさわしくない罪人を救うためにです。主イエスは御言葉という鋭い剣をもたらすために来られました。それはパウロが経験した痛み、殺す言葉でもあります。しかし、その御言葉の剣を誰よりも真っ先にもたらした者とは、この主イエスの十字架なのです。主イエスこそがこの剣で死んだのです。相応しくない者として立たされたのです。

弟子たちは主イエスの十字架から逃げてしまいます。主が受けたように、自分の十字架を担うことはできませんでした。これで全てが終わりだと思っていたからです。それならば、主がもたらした剣はやはり、痛みをもたらし、殺すだけのものだったのでしょうか。決してそうではないのです。主は蘇られたのです。パウロに現れたのです。パウロに御言葉の剣をもたらし、死の先にある命をお示しになったのです。

主イエスは39節で「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」と言われました。だから、自分の十字架を担いなさいと言われるのです。弟子たちは、復活の主によって立ち起こされ、自分の十字架を担っていったのです。それが教会という姿になったのでありますが、彼らは主イエスの死の招きに従っていったのではないのです。主イエスのために命を失う者は、返ってそれを豊かに受けるという希望に立つことができたのは、主イエスがもたらした死の先にある命でした。主イエスはこの命を現すために、十字架の剣をもたらしたのです。力におけるこの世の平和ではなく、福音の平和を告げ知らせるためでした。

私たちの周りには、剣がたくさんあります。いや、この私自身も剣と言えるでしょう。自分の正しさ、熱心さ、それを振りかざす鋭い刃にも成りえます。それらの剣によって成り立つ平和があります。その平和の中で、いと小さきものが犠牲にさらされています。それはまた、この私自身、あなた自身なのかもしれません。多くの痛みを抱えて私たちは生きています。死と隣り合わせの世界に生きてはいないかもしれませんが、死の現実と共にある歩みです。主はそこに剣をもたらし、自らが十字架の剣として、痛みを抱え、苦しみを担ってくださいました。そして、復活の命をもたらしました。

弟子たちがここから派遣されていくように、私たちも新しい一週間に派遣されていきます。私たちが述べ伝えるのは、平和についての考えや、学問といった知恵ではありません。平和の福音そのものです。それは自分の十字架を担っていく私たちの姿に生き様に示された平和の福音です。この福音は剣をもたらすような、鋭い主の御言葉です。この御言葉は私たちを滅ぼすために立てられた、または甘い汁を吸うことができるようにと立てられた剣ではありません。痛みや苦しみの只中にあっても、豊かな命に生きることができる御言葉です。この剣を真に担ってくださった方が、そのことを私たちに示してくださったからです。この方が共におられます。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。