第1日課 申命記26:5-11
あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。
「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。」
あなたはそれから、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前にひれ伏し、あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい。
第2日課 ローマ人への手紙10:8b-13
「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」
これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じるものは、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、ご自身を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
福音書 ルカによる福音書4:1-13
さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を、”霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。
「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」
イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
説教 「世の中の誘惑に出会うわたしたち」
ルカによる福音書4章1節より13節までのお言葉でございます。
わたしたちは伝統として、主イエスさまが悪魔に誘惑されたという聖句を受難節中に必ず聞くことになっております。これが今日の聖書の日課でございます。
誘惑とは、悪へ導こうとすることですね。イエス様が正しいお方で、神の御子であられたのですから一度も罪を犯したことはないのでした。悪魔はこの人を滅ぼそうとしたのです。一人を滅ぼすことだけではなく、その一人が神様の約束の救い主としていらした方ですから、この人を滅ぼしたら、躓かせたら、全部に勝つと悪魔は考えたのです。それで、人間の弱いところを悪魔は衝いたのです。
第一は、四十日間も空腹にしておられたイエスさまに、食べることの誘惑です。わたしたちにとって、人間として日々生きていくためには、必ず食べることが必要であって、食べていなかったらわたしたちは弱ってしまうのです。四十日間もイエス様は食べないで、空腹を感じておられたところ、石をパンに変えたらと、もちろん神の子としてイエス様にはその力があったのです。わたしたちは出来ないが、イエス様には出来ることであったのです。その誘惑に対して、イエス様がお答えになったことは「人はパンのみで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」これは申命記8章のお言葉でございます。(申命記8:3)
わたしたちがいつも聞いている神様のお言葉をイエス様はそれを引用なさったのです。
その次の誘惑は、どこか高いところへ行って、一瞬の内に世界のすべての国々を見せて、その国々の一切の権力と繁栄とを与えようという。それはわたしにまかされていて、すべてを与えることが出来るのだから、もしわたしを拝むのなら、みんなあなたのものになる、ということでした。これもわたしたちにとっての一つの大きな問題です。わたしたちも今いろいろ恵まれているのです。でも、全部は頂いてはいないのです。もっと欲しいものがあるのです。人間の欲というものはかなり深いもので、そして、きりがないのです。一つ一つ欲しいと思わされているところです。イエスさまもその誘惑を受けて、また、悪魔に対して、神様のお言葉を引用なさるのです。「あなたの神、主を畏れ、主にみに仕え、その御名によって誓いなさい。」これも申命記の6章のお言葉です。(申命記6:13)
もう一つ誘惑がございます。これは、わたしたちがいつ危機に、問題に出会うかと言うことは分かっておりません。それで、いつも心配しております。それを避けようとして、いろいろ工夫をしたり、時々わたしたちの力では及ばないような難しい問題が起こったり恐ろしい危険に会うこともございます。そこで、悪魔はイエス様を試して、あなたはこの神殿の屋根の上から飛び降りてみなさい。神様があなたにこのように約束をしていないでしょうか、「主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らは、あなたをその手に乗せて運び、足が石に当たらないように守る」と。これは詩編の91編のお言葉です。(詩編91:11-12)
このように悪魔も神さまのみ言葉を引用するのです。そしてわたしたちを混乱させます。どうしようか。やってみようかと。本当に神様はそうしてくださるでしょうか。試してみようかという誘惑がございます。それに対して、またイエスさまは、「あなたたちの神、主を試してはならない。」とこれもまた、申命記の6章の言葉です。(申命記6:16)
このようにイエス様は悪魔に対して神様のお言葉でお答えになりました。わたしたちもその例を手本として、困った時には、悪魔がわたしたちを悪に落とし入れようとするときには、わたしたちも出来れば神様のみ言葉を用いましょう。それに縋っておりましょう。
このようなことは、自分の一生を省みて判ることもあります。モーセもイスラエル人に対して薦めています。あなたたちは大変な難しいところにいたのです。わずかな一家族が百万の大家族となってエジプト人に苦しめられていたのです。それはしばらくの間であったでしょう。神様がそのイスラエル人をエジプトから導き出されたのです。モーセをリーダーとして指名をされてモーセを助けられました。そして、イスラエル人はエジプトから逃れることが出来たのです。逃れたところですぐに問題が起こりました。エジプトの軍が後をつけて迫ってきたのです。それも神様が工夫をして彼らがすぐイスラエル人を討たないようにいろいろなさって、例えば、火の幕のような、雲でしたか、それをイスラエル人が休憩をしているところの裏にそれを置いて、エジプトの軍がそこへ行けないようになさったり、海を通って行かなければならない時にはその紅海を開いて彼らを通してくださったことがあったと、モーセは話しております。申命記はモーセがお別れにあたってイスラエル人に聞かせたお話です。昔このようなことがあったでしょうと。そこで、モーセは必ず神様に感謝をすることを覚えていなさい。神様が助けてくださるでしょう。そして供え物をする時には喜んですることだと、しぶしぶやることではなく、喜んですることだと、モーセは今日の旧約聖書の日課で語っております。
なお、使徒書のローマ人のところでも「感謝すべき」と聞かせています。また、御言葉が近くにあるというようにわたしたちに聞かせなさるのです。近くにあるとはどういうことでしょうか。それを頼りにしていつも自分と一緒に、御言葉どおりに歩くことです。ことにわたしの口から出る言葉が、神様の言葉であるように。また、心の内にあるものが神様のお言葉であるようにと、そうパウロはわたしたちに聞かせておられるのです。聖書には素晴らしい言葉があるのです。その言葉はただ、あなたたち少数の人のためのものではない。ユダヤ人も異邦人も、異邦人は世界のほかの人々も含める言葉でございます。その素晴らしい言葉をわたしたちは聞いているので、ことに、わたしたちは異邦人の一部であるから、わたしたちもそれにかかわっていること、そして、パウロが言うのは、「失望しない。わたしたちが頼っていたら必ず神様が助けてくださるでしょう」と。他の聖書では失望しないと言う言葉の変わりに「困らない」と言う言葉を使っております。ある教派の方々、ペンテコステという熱心な人たちですが、彼らの教えでは、神様を信じることは、勿論わたしたちもイエス様を救い主と信じるのですが、でも、それを人に聞かせなければならない、聞かす力がなかったら本物ではないというように、かえってあなたが天国へ入ることの邪魔をするような教えとなってしまっています。せっかく美しい福音を律法的にして、『しなければならない』としているのです。モーセの言う通りに喜んで人に聞かせるのではないのです。やらなければならないという薦め方をしていると聞いております。勿論、人間は弱い者ですから、厳しく言われたら、却ってそれに一生懸命になります。若い時に流行した歌を思い出します。「叱られて」と言う歌があったのです。日本人は、叱られることが好きなようです。考えてみたら、それで本当の福音を知っていない人は、叱られて、叱る人が責任を持ってくれるということを頼りにしているのでないでしょうか。わたしたちも、時にはイエス様に叱られることもあります。でも、同時にイエス様がわたしたちを愛していてくださることがもっとわたしたちにとって大切なことでございませんでしょうか。
とにかくわたしたちは悪魔に誘惑されることがあるのです。六本木ルーテル教会もそういう問題に今出会っていると思います。わたしたちはこの後、総会の時にそれをどうしたら良いかを話し合いたいと思っております。わたしたちは、強いられて或いは、これは素晴らしいからと言う誘惑で、それをいただくことにするか、或いはしなければならないと、教会はそんな力がないから世の中の組織に頼るほかはないというように思うか、わたしたちはいろいろ考えなければなりませんが、とにかく、イエス様はサタンの誘惑に負けなかったのです。これがわたしたちにとって最も大切なことです。イエス様はそれを完全に守ってくださいました。イエス様は悪魔の恐ろしさ以上の方であって、彼のなさることは完全なことです。隙間もない。逆転もなく、ちゃんと力を持って悪魔をここで防がれたのです。立ち向かわれたのです。ですから、世の中のいろいろな問題はわたしたちにとっては、簡単なことではありません。こうしたら対抗できると考えられるような小さいことではありません。複雑なものです。わたしたちにそれに対抗する力はないということをわたしたちはよく分かってくるでしょう。第一には、それに負けなかったイエス様に頼ってイエス様はわたしたちを一人一人愛してくださるということを心にしっかり抱いて、この一時を過ごしてまいりましょう。