詩篇第2篇
説教 「目覚めよ」 大和 淳 師
「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち 人々はむなしく声をあげるのか」。この詩編第2篇は、そのように国々が「主に逆らい、主の油注がれた方に逆らう」と語っています。それは、まさしく人間の歴史が繰り返してきたことです。「我らは、かせをはずし 縄を切って投げ捨てよう」、わたしたちは、歴史の至るところで、こういう声を聞いてこなかったでしょうか。そして、それはまた今のこの時代にもあがる声でもある、そう言っていいでしょう。それは単に「地上の王」、「支配者」と呼ばれるような人だけではない、「人々は」とまた言われているように、「地上の王」「支配者」でもない者もまた、この地上での生活、自分の生そのものに「かせ」を感じ、「縄目」を負っている、と、いや、むしろ、そのように力のない者、弱者であれば、あるほど、その「かせ」は、その「縄目」は重く、二重、三重にのしかかってくる、それがわたしたちの実感です。この詩篇が聞く「国々の騒ぎ立ち」、「むなしい声」とは、まさしくそのようなわたしたちの声なのです。
そのわたしたちの「我らは、かせをはずし 縄を切って投げ捨てよう」、そこにあるのは、こういうことです。ただ、その支配者と、弱者である者との違いは、それを「はずし」、「投げ捨てる」ことができるか、否かである。力を得る、力を持っているとは、その「かせ」が軽くなっていくこと、はずれていくこと、「縄目」がほどけていくことであるかのように、あたかもそうであるかのように、わたしたちは考えている。そのように、この世は成り立っていると。だから、この世の底の中に生きている人ほど、下にあればあるほど、その「かせ」は重くなり、「縄目」はますますきつくなる、全くそのようである、と。したがって、人々は、あいもかわらず、「下」から「上」へ、力のために、「王」、「支配者」へと、その目を向けていくのです。何故なら、わたしたちには、絶えず、
この生に対する「かせ」、「縄目」があるからです。
ある人はとっては、現実の「貧しさ」が「かせ」となる。その「かせをはずす」ことは、したがって、富を得ること。地位のない者は、それは、地位であり、したがって、かせをはずすことは地位を得ることに他なりません。病気もまた、そのような「かせ」、「縄目」として、わたしたちを縛ってきます。不幸であること、能力に欠けることも。いや、富に恵まれ、地位もあり、健康であり、幸福であったとしても、たとえば、人間関係の煩わしさが、「かせ」になり、「縄目」にもなります。時には、私たちの安らぎであるはずのもの、家族や友人さえ「かせ」になり、「縄目」にもなる。本当に自分の生きがいに感じていることさえ「かせ」「縄目」になってしまう。そのように二重に三重に「かせ」がはめられ、「縄目」に縛られている、その最大の「かせ」、「縄目」とは「死」であることは言うまでもありません。死の「かせ」がある限り、わたしたちが所有していく一切のものも、また「その「縄目」となるのです。聖書は言います、「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6章23節)、すなわち、罪の「縄目」は死であると。死は、わたしたちから、一切を奪う。それ故、死は、それまで結んでいた生のきずな、親子であれ、夫婦であれ、友人であれ、そのように、わたしの支えであったはずのものを一切切り離し、わたしたちを不安と孤独に陥れます。だから、頂点に立つ「地上の王」、「支配者」さえ、「かせをはずし 縄を切って投げ捨てよう」とするのです死、わたしたちの最大の「かせ」、「縄目」、たとえ、どれほど、偉大な王であれ、支配者であれ、この死の「かせ」、「縄目」からのがれることができない、詩編はそこに立っているのです。
この詩篇は繰返し、二度も「なにゆえ」「なにゆえ」と問いかけています。この死の現実を見ないこと、そのことの「むなしさ」、愚かさ、「なにゆえ」それに気付かないのか、と。何故なら、それは、まさしく「主に逆らい、主の油注がれた方に逆らう」ことに他ならないのだ、と。わたしたちは、この詩篇の冷めた眼に驚かずにはいられないのではないでしょうか。そのような「かせ」、「縄目」を前にして、彼は落ち着いています。いわばこの詩編は、まさしく死を前にして、独り立ち、目覚めています。そして、「目覚めよ」と呼かけています。
わたしたちが「騒ぎ立つ」、「構え」「結束する」、それは、その「かせ」、「縄目」を恐れているからです。わたしたちの眼には、それはわたしたちを圧倒し、打ちのめす、恐るべきもの、忌まわしきもの、そのようにしか見えないのです。いや、その「かせ」、「縄目」が、そのようにわたしたちの眼を塞ぐと言っていいでしょう。しかし、この詩人はひとり目覚めて、そのわたしたちの眼が決して見ない、見えないものを、その「かせ」、「縄目」の中に見ているのです。それは、「天を王座とする方」です。詩篇は、その冷めた目で「かせ」、「縄目」の中に「天を王座とする方」を見るのです。そのお方とはどんな方なのか。詩編は言います、「天を王座とする方は笑い/主は彼らを嘲り/憤って、恐怖に落とし/怒って、彼らに宣言される。」(4-5節)
それは、わたしたちの「かせ」、「縄目」、即ち、「死」を前にして、笑い給う「神」、死を嘲り給う神、死に対し、憤り、怖れさし、怒り給う神なのです。したがって、既に死に対して勝利し給う神です。それが、わたしたちの神、主であり給うのだ、と言うのです。そして、それこそ、わたしたちが最も驚き、そして畏れなければならないと言うのです。それ故、この神が宣言し、なし給うことを、わたしちは聴き、そして従わねばならない、と。
その神の宣言し給うこと、そして、なし遂げ給うことを、彼は7節以下に記していきます。そして、この7節で、突然「主語」が「わたし」に変わります。詩篇が、そのように落ち着いている、冷めている、目覚めている、それは、このように、まことにこの「わたし」と言われる方、「主の定めたところに従う」、「主が告げられる」、「わたし」、その方が、彼と共に立っているからです。この神が宣言し給う、それ故、ご自分の意志をなし給うとき、その時、この「わたし」と言われる方がおられる、その「かせ」、「縄目」の中に。そのお方が、わたしたちの代わりに、笑い給う「神」、嘲り給う神、憤り、怖れさし、怒り給う神の前におられ給うのです。そのようにして、この方は、神と共にあり、そして、そのようにして、我らと共にい給うのです。
その「わたし」というこの方に向かって、主は「お前はわたしの子 今日わたしはお前を生んだ」と言われます。これは、もともと王の即位の言葉です。主なる神は、この方に、その全権を与え、委ねたということです。そのようにして、今や、この方が、主なる神の代わりに、わたしたちの前に立っておられます。「主なる神の代わりに」です。わたしたちの主として、です。そして、「求めよ、わたしは国々をお前の嗣業とし 地の果てまで、お前の領土とする。お前は鉄の杖で彼らを打ち 陶工が器を砕くように砕く」。しかし、わたしたちがここで忘れてはならないことは、たとえわたしたちの眼に、あの「かせ」、「縄目」がどれほど大きくうつろうとも、この方が、その真実の支配者であるということは、その「かせ」、「縄目」からまたわたしたちを解き放つ方であるということです。死の「かせ」、その「縄目」から、わたしたちを解放するお方であるということです。この「わたし」、そのお方、即ち、イエス・キリスト、主イエスがどのようにして、その「かせ」から、わたしたちを切り離し、「縄目」をほどいて下さったのか。それは、この方ご自身が、自らその「かせ」を負い、「縄目」につかれたのです。わたしたちのために。そのようにして十字架につかれた方、この方は、自ら、その「かせ」を負い、「縄目」につかれ、苦しみ痛んでわたしたちの代わりにこの神のみ前に立って下さっている。そのようにして、この方は、ご自分の支配を確立されたのです。
それは、こういうことです。わたしたちが、最早どうにもならない「かせ」、束縛する「縄目」、その中で、即ち、死を前にして、本当に孤独であるとき、しかし、そこにも、この方の支配は及ぶのです。どのように、死が、わたしに「かせ」をはめ、どれほど、頑丈に「縄」をもって、縛りつけようとも、わたしは、最早独りではないということです。その「かせ」、「縄目」はわたしを縛ったままではないということです。最後に笑うのは死ではなく、この方、そしてこの方と共にいるわたしたちであるということです。それ故、騒ぎ立つことなく、虚しい声をあげることなく、本当に落ち着いている、冷めている、目覚めていることができる。
何と言っても、この方において、主なる神は、その死に対して笑い、嘲り、憤り、怖れさせ、怒り給うのです。この方をよみがえらせ給うのです。そのようにして、十字架と復活によって、「鉄の杖で彼らを打ち 陶工が器を砕くように砕」き給うのは、わたしたちの「かせ」、「縄目」、死です。それ故、パウロは叫びます、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(Ⅰコリント15章55節)と。
同じようにこの詩篇は呼かけます、「目覚めよ」と。勝ちどきの声を挙げます、「喜び躍れ」と。わたしたちを今も苦しめる「かせ」、「縄目」、しかし、それは、最早わたしから何も奪うことはないのだから、と。詩編は呼びかけます。目覚めよ、と。それは言い換えれば、こういうことです。自分を苦しめる「かせ」、「縄目」がある、しかし、それらによって決して自分自身を失ってはならないし、またあなたは失うことはないのだ、ということ。それ故、パウロと共にわたしたちもまたこう言うことができるのです、「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」(フィリピ4章2節)そうです、わたしたちは大胆にこういうことができるのです、自分を苦しめる「かせ」、「縄目」、そして、死!だが、見よ、キリストこそが今やわたしである。わたしが苦しめば苦しむほど、わたしの中のキリストは生きる、生きているのわたしではなく、わたしの中のキリストである!
みなさん、たとえ、どんなに重い「かせ」、きつい「縄目」を負っても、今日の「主日の黙想」にも書きましたが、不如意、まったく自分の思いどおりにならない中にあってもわたしは自由であるということ。むしろ、「我らは、かせをはずし 縄を切って投げ捨てよう」とすることは、ただ自分中心・自分だけの世界、他者不在、わたしだけの世界、他者をはずし、隣人を投げ捨てるのです。そうしてわたしどもは、またわたし自身そのものを失っていくのです。わたしを支えるものを。
確かにみなさんはそれぞれ実際に様々な「かせ」、「縄目」を負って、その中にいます。その中で痛み、時に大きな心の傷を受けているのです。悲しい、つらいことでしょう。しかし、その傷が本当に癒されるには、ただ一つの方法しかありません。それは自分の「かせ」、「縄目」の中で、ただわたし自身は無力になって、他の人の「かせ」、「縄目」を、他者の痛みを、他者の傷を知る、ただそのことを通してのみです。自分の「かせ」、「縄目」の中で、他の人の悲しみに目を向けることのよってのみ、わたしたちのその悲しみ、痛みは癒されていくのです。
(週報にもお断りしましたが今日は本来「平和の日」としてまもろうとしたのですが)アメリカの平和運動を続けている9・11犠牲者遺族の会「ピースフル・トモロウズ」のディビット・ポトーティさんという方、彼もまたあのビルで肉親を失ったのですが、来日し、各地で講演されました。そのポトーティさんはこういうことを語っているのです。「9・11で死んだ私たちの愛する人々の死は世界で毎日殺されているたくさんの人々の一部に過ぎないと思います。軍隊は私たちを守ってくれない。そうであるなら、私たちはともに生きるしかありません。私たちは『米国は善良で強大な国家だ』という妄想を捨てなければならない。米国人の多くは恐怖に支配されているために、こうした考えに立てませんでした。そしてアフガンへの爆撃を支持し、『愛国法』を支持し、不法なイラク爆撃を支持しました。恐怖と不安による暴力で報復することで、更なる恐怖と不安、暴力を生み出しました。
しかし、この間、私たちの言葉と思想には力があることも学びました。人間的になることで、弱さをさらけ出し、手を取り合うことで、大きな力が生まれることも知りました。私の母は事件の直後に『息子の死で、私がいま味わっている悲しみを世界の他の人々に決して味あわせたくない』といいました。彼女は世界の人びとの悲しみに目を向けることで、自分の悲しみを癒したのです。この訴えを広げる中で、同じように考えるピースフル・トモロウズの他のメンバーと知り合いました。私たちは、どんなときでも、どんな理由があっても、殺戮はいけないということを学びました。私の国がアフガニスタンやイラクにやっていることはあの国にも、また攻撃した側の米国の兵士にも10年も、20年も後遺症を残します。彼らは怒りを体の中に抱え込んで生きていくのです。
・・・テロは本当の問題の現象にすぎません。私たちが本当に闘うべきものはテロではなくて、帝国主義だとか、物質主義だとか、軍事主義、愛国主義、そして自分の命は他のものよりずっと価値があると考えるような思い込み、それらと闘わなくてはなりません。」
ポトーティさんたちは、いわば自らの「かせ」、「縄目」を負うことで、「人間的になることで、弱さをさらけ出し、手を取り合うこと」によって、共に生きる喜びを得、そしてその喜びを分かち合うために闘っておられるのです。パウロは言います、「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラテア5章1節)。「軍隊は私たちを守ってくれない」!そうです、力によって自分を失ってはならない。いや、あなたはどんな「かせ」、「縄目」の中にあろうと、自分を失うことはない。自らの「かせ」、「縄目」の中にこそ、主イエス・キリストはおられるからです。